第31話 (悠月)

 彼女とのキスは、頬に軽く唇が当たるだけのとても些細なものだった。

 けれど、それでもわたしにとってはやっぱりとても素敵なものだった。

 だからやっぱりこれはうれし泣きなんだ。


「ゆ、悠月ゆづき、泣いてない? ……え、やっぱキス変だった? 嫌だった?」

「違う、これは推しが尊くてだから。……ううん、推しじゃなくて、つぐちゃんが愛おしくて」


 ほっぺたへのキスも、好きなのかもって言葉も、わたしが彼女へ抱いている感情からしたら本当に吹いて飛んでしまいそうなくらい心許ない。彼女の気持ちが、わたしと同じものなんてそんなことはないんだろうって思う。


 だけどもしかしたら、いつか彼女もわたしと同じ気持ちになってくれるんじゃないか。わたしは、そう願ってしまった。


「……継ちゃん。わたし、アイドル活動復帰するって言ったら嬉しい?」

「えっ!? 急にどうしたの悠月!?」

「継ちゃんにキスしてもらったら、元気でた……のかな?」


 冗談っぽく笑ってみせる。

 本当は、もしかしたら彼女と両思いになれるんじゃないかって急に下心出して、それなら一緒のアイドルグループで活動したほうが接触する機会も増えるしっていう動機としてはかなり最低なものだ。

 ステージに立っていると、彼女のパフォーマンスをあまり見られなくなるからそこだけは残念だけれど。

 ただ彼女と同じ更衣室で過ごす時間はかけがえのないものだった。あれはファンであっては、絶対に体験できない。


「キスで? えー、それならもっと早くキスすればよかった」

「だ、ダメだよっ!! キスってそんな簡単にするものじゃないでしょ!?」

「えっ、まあそうだけど……」


 彼女も軽い冗談で返してくれただけだと思う。けれど、冗談でもわたしのアイドル復帰のためならキスをした、という言葉は寂しい。さっきのキスはそんな交換条件であったと思いたくない。キスで元気が出たなんてわたしが言ったから悪いのか。でも、元気は本当にでた。今日はあまり眠れそうにない。


「悠月が復帰かー。そしたら次の横浜ライブからかな?」

「そんな早くできるのかな? ちーさん怒ってたし、謹慎期間とか……」

「ないない。千歳ちとせさん、直ぐにでも悠月を呼び戻そうって必死だったし」

「横浜かぁ……」


 横浜はわたしの地元だし、彼女との思い出の場所でもある。わたしの活動復帰自体はさしてなことであるけれど、彼女とまたアイドル活動を再開することを考えるといい場所ではないか。

 それから、もちろんわたしのファンへの申し訳なさもある。自分の気持ちばかりで、身勝手な行動をしていたからアイドルとしては完全に失格である。だから本当だったら、休止でなく卒業のつもりだった。けれどはっきり理由の言えないわたしに、プロデューサーのちーさんが「なら一旦休止にしよう」と言って聞かなかった。


 下心での復帰ではあるけれど、またアイドルとして活動するならファンのみんなのためにも全力で頑張るつもりだ。


「あーそうなるとチケットどうしよ……」

「チケット? あ、買ってるんだ」

「うん、ほらこれ。いい席だったのに」

「本当だ。これ高いでしょ。もったいない」


 スマホの画面にチケットを表示してみせる。彼女のライブ姿を見るつもりだったから、奮発したのにステージへ立つとなると使えなくなってしまう。

 それから二人してちょっとだけお話しして眠った。彼女には無理言ってベッドを使ってもらう。明日から彼女が眠ったベッドを使えると思えば、床の上でもコンクリの上でもわたしは眠れる。



   ◆◇◆◇◆◇



 朝起きて、部屋に彼女がいるからまだ夢なのかと思ったけれど、そういえばと昨日のことを思い出す。

 時間を見て、九時を過ぎていたので、ちーさんに電話をかける。この時間なら、もう仕事を始めているだろう。ファンの人にもだけれど、もちろんプロデューサーやマネージャー、会社の人達にも散々迷惑をかけている。少しでも早く連絡して、謝ろうと思った。


月岡つきおかっ!? どうした!? 復帰か!?」


 開口一番、いつものちーさんからは想像もつかない慌てた声が聞こえてくる。今までちーさんにいくら頼まれても復帰しなかったばかりか、最近はしつこすぎて門前払いだった。そんなわたしからの連絡で驚いているのだろう。


「すみません、ちーさん」

「あ、ああ、そうだよな。お前の気持ちがそんな簡単に変わらないのはわかっている。だけどな」

「あ、いえ、そっちのすみませんじゃなくて……迷惑かけてすみませんのすみませんです。大変勝手なことで恐縮なんですが、復帰させていただけないかと……」

「本当なのか!?」


 喜んでいると言うより、疑っている声だった。それくらいわたしも、何度も断ってきていた。


「本当にご迷惑ばかりかけて、申し訳ありませんでした。当然クビだと言われても仕方がないと覚悟しておりますが……」

「月岡、次の横浜ライブで復帰公演だ。レッスンは直ぐにでも再開して、準備しておけ」

「は、はいっ! ありがとうございます!」


 変わらずわたしを必要としてくれていることも、また彼女と同じアイドルグループで活動できることも嬉しかった。


「いやー良かった。月岡が考え直してくれて本当に良かった。あれか? やっぱり茜原あかねはらに説得されたのか?」

「そうですね……」

「お前が茜原のこと気に入ってるのは薄々気づいていたからな、あいつに行かせて正解だったか。ただまあ、交換条件なんて脅しつけたのはあいつにも悪かったな」

「交換条件? なんです、それ?」


 ちーさんの気の抜けた笑い声に、気になる言葉が混じっていた。


「なんだ、本人から聞いてないのか? まあ、ほらあいつアイドルしていまいちやる気なかったろ。だからちょっとな、このままだぞクビって脅して」

「クビって脅しだったんですか!?」

「そりゃまあ、もしかしたらってことはあったけどな。実際社長からもこのままならって言われてたし……」

「継ちゃん、クビにならないってことですよね?」

「最近の頑張りみてたら、その心配はないだろう」


 よかった、と今度はわたしの気が抜けた。彼女がファンの気持ちを理解するようになって、アイドルとしての人気が徐々に増していることはわかっていた。だからクビの話は回避できるだろうとは思っていたが、まさかそもそもただの脅しだったなんて。


「それで、交換条件ってのは……?」


 ただ交換条件という言葉は、彼女を奮起させるための脅しとまた別だ。なんだか嫌な予感がした。けれど、わたしは確認せずにはいられなかった。


「あーだからな、月岡を説得して活動復帰できたらクビの話は考え直すって」

「そ、そんなっ!! ちーさん、継ちゃんにそんなこと言ったんですか!? それで、継ちゃんはわたしのことずっと復帰させようと……」

「どうした月岡?」

「そ、そんなのっ!! そんなのずっとわたしのせいで、継ちゃんは……っ!!」


 一言も彼女からは聞いていなかった。

 わたしの活動休止が彼女迷惑になっていたこと。わたしが復帰すれば、彼女のクビの話が助かるという条件だったこと。


 ――わたしに近づいてきたのは、ずっと交換条件のためだったの?


「すみません、ちーさん。わたし……やっぱり復帰できないかもしれません……」

「はぁっ!? お、おい、どうしたんだよ、月岡!?」

「ちーさん、アイドルにそんな交換条件出すの、わたしよくないと思います」

「いやっ、それは悪かった! だからっ、おいっ!!」


 今はこれ以上話したくないと、わたしは電話を切った。

 彼女にずっと迷惑をかけていたことと、彼女が自分に向けていてくれただろう好意が全部ただ好感情のためだったということを知って、わたしの気持ちはもう完全にぐちゃぐちゃだった。


 わたしが復帰すればいい。そしたら、もうこれ以上彼女に迷惑はかけない。

 交換条件のこともちーさんが嘘で言ったクビが代わりとはいえ、それでも彼女の説得でわたしが復帰したとすれば何かしらの恩は売れるはずだ。

 彼女のことを考えれば、こんな事実関係なく、わたしはやっぱり復帰するべきだろう。

 けれど、近づいたと思った距離が絶望的なまで開いてしまって、もうわたしは彼女の横でアイドルをできる気がしなかった。


 タイミングが最悪なことに、いや、わたしが通話していたからだろうか、彼女が目を覚ました。


「んー。おはよう、悠月」

「……継ちゃん」

「ど、どうしたの悠月? 朝からすごい顔だよ」


 寝ぼけ眼の彼女は、自分の顔を何度かはたいてから、まぶたをしばたかせながら言った。まだ完全に覚醒しきっていないようだけれど、それでもわたしの表情に戸惑っているのだろう。


「ちーさんと電話して……」

「あ、復帰のこと? どうだった?」

「交換条件のこと、聞いたよ。……本当、なんだよね? わたしが復帰したら、継ちゃんクビじゃなくなるって」

「えええぇ!? 千歳さんに聞いたの? それは……うん、本当だけど」


 彼女の困った顔がもう見ていられなかった。

 全部自分の勘違いで、全部わたしが悪かったんだと思うと、もう彼女の前にいられなかった。


「継ちゃん、わたし……ごめん」


 わたしは、鞄と洗面所に置いてある野球帽子とサングラスを持って家から飛び出してしまった。

 自分の家に彼女を置いて、どこかへ逃げるわたしは、また彼女に迷惑をかけているだろう。でももうこれ以上、耐えられなかった。

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