第29話 (悠月)
推しのアイドルが自分の部屋に居て、わたしのことを抱きしめながら、キスをしたいと言う。
夢だと思う。現実にこんなことがありえていいわけがない。
私の推しは、世界一可愛い。恒星ウェスタリスに所属しているアイドルで、
あどけなさの残る顔立ちは、フランス人形のように整っている一方で、くっきりと主張の強い大きな眼がまるで絵本の中のお姫様みたいな可愛らしさを感じさせる。
そんな可愛いの塊みたいな彼女は、シャワーを浴びたばかりだからか、頬を赤く染めていた。
しっとりとまだ乾ききっていない髪で、わたしの貸したパーカーとショートパンツを着ている。
わたしが眠る前によく妄想するシチュエーションとほとんど同じだ。つまり、これは現実じゃない。
「
彼女がわたしの名前を呼ぶ。彼女は以前までわたしを『悠月さん』と呼んでいた。おそらく、『悠月』とわたしを呼ぶ彼女は実在しないわたしが作り上げた妄想の存在なのだろう。そうなるとかなり長いこと彼女の幻を見ていることになる。
本物の彼女は今どこにいるんだろう。心配だ。打上げの途中までは本物の彼女がいたはずだから、そのあと――。
「た、大変だよ、継ちゃん!! 継ちゃんが危ないかもしれないっ!! 打上げのあとっ、酔った継ちゃんは誰かにお持ち帰りされて……っ」
きっと本物の彼女は、どこかの誰かに無理矢理家へ連れて行かれているのだ。わたしはお持ち帰りされる彼女の姿を、ただ泣きながら見送ることしかできず、そのまま眠るようにして――。
今見ているのは人生最後の夢なんだろう。
「ゆ、悠月? ……お持ち帰りはされたかもだけど、酔ってたのは私じゃなくて、悠月だよ?」
「ひどいよ、継ちゃん……っ。最後に、最後にこんな優しい、幸せな夢を見せてくれるなんてっ」
「あのー、悠月? 悠月さん?」
「……へ? 今、継ちゃん、わたしのこと悠月さんって呼んだ?」
そう呼ぶのは、本物の証拠だ。そうなると、彼女はやはり幻ではなく本物? でも本物の彼女は、終電をなくして途方に暮れていたところ、悪い人に言いくるめられるよう家へと連れ込まれているはずだ。
そうだ、それはわたしだった。わたしが彼女を家へと連れ込んだんだ。終電がないなら仕方ないよねって。
確かにわたしは、酔っていた。酔っていたとしても最低だ。彼女の状況を利用して、こんなことするなんてファン主席としてあるまじき行為である。
「ごめん、継ちゃん。わたしちょっとボーッとしてたみたい」
シャワーですっかり酔いを覚ましていたはずなのに、彼女が突然なにか言ったせいでまたトリップしてしまったようだ。
万が一にもなにかあるといけないと思って、念入り以上に体を隅々まで洗っていたらのぼせてしまったのだろうか。湯船につかっていなくて、体のほてりがひどい。
「そ、そっか。……悠月、やっぱり私とキスするの嫌なのかな? ……そうだよね。悠月は私のことアイドルとして好きなだけだから、キスは違うよね」
「つ、継ちゃん……」
どうやら、キスをしたいと言われたのは、本当だったらしい。今もまだ彼女はわたしの体を抱きしめたままだった。
彼女の背中で、こっそり自分の手の甲をつねってみる。痛い。ただわたしは夢の中だと痛みがないということについては半信半疑だった。だって夢の中だって痛いことは痛いと思う。
「ごめんね。また悠月のこと困らせちゃった。……私、悠月が私のファンだからって好き勝手しすぎだよね」
そう言うと、私の腰に回されていた腕の力が緩んで、彼女の柔らかい体が離れていってしまう。
「継ちゃん……っ。わたし……」
わたしは彼女のファンだ。アイドルのファン養成所で主席になるくらい、胸を張って言える歴としたファンだ。
彼女が好きだ。大好きだ。愛している。わたしが所属しているアイドルグループ、恒星ウェスタリスに彼女が入ってきて、偶然再会したときは奇蹟だと思った。ずっと胸の中で忘れられなかった彼女への憧憬めいた感情が、くっきりとわたしの中で縁取られるようにして明確な好意へと変わった。
これが単なるアイドルを推す、ファンとしての気持ちではないことは明らかだったけれど、わたしはそんなことないって言い聞かせる。
わたしの気持ちに彼女が応えてくれるわけない。だって。
「もう遅いし寝よっか? 私、床でいいからさ」
狭い部屋の中なのに、彼女がどんどん遠ざかっていくように感じる。
――私、悠月のこと好きなのかもって思って。
彼女は、そう言った。わたしのことを好きかもと言った。
わたしはずっと、自分の気持ちは通じることなんてないと思っていた。
だって彼女は、子供の頃の大切な思い出として、野球帽子を被った男の子に助けてもらった話をしていた。直接はっきりとは言わなかったけれど、彼女の初恋なんだろうってわかる。そういう顔で、そういう声だった。
洗面所に置いてきた、野球帽氏のことを思う。
思い出の、大切な帽子だ。子供の頃からずっと被っている。親からたまたまもらったもので、野球チームのことはあまり知らないから、本当言うと帽子そのものに思い入れがあるわけじゃない。
ただあの帽子を被っているときに、彼女に出会ったからだ。
彼女を偶然見つけて、一瞬で心奪われたときに、わたしが被っていた帽子。だから思い出の品というだけ。でもまさか、彼女もそのことを覚えていて、アイドルとなった今も大切な思い出として口にしてくれるとは思わなかった。
嬉しかった。でもそれと同時に、彼女に取っての初恋の男の子は存在しないってことが、申し訳なかった。
だって、あの男の子は私だから。
わたしが思い出のあの子だよって、彼女に名乗り出したいと思ったこともある。だって思い出を共有したかった。覚えていてくれたことが嬉しかったから、二人で再会を喜びたかった。でもそうしたら、彼女の初恋の思い出を壊してしまう。初恋の男の子なんていなかった。助けたのは、髪が短くてちょっと男の子っぽい格好だった幼い頃のわたしだ。
彼女を助けた小さなわたしに嫉妬する。野球帽子の男の子になりたい。
そう思った私は、もうずっと被っていなかった野球帽子を再び被り、仕事の合間を縫うようにして彼女の応援へ行くようになっていた。
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