第13話
それなりにだけど、養成所と向き合うつもりでまた戻ってきた。
しかし、
「握手会の練習ってなに? 握手に練習することなんてないよっ!! 午前中の応援は、あれはたしかに練習しなくちゃできないことだとは思ったけどさ……だって握手だよ? ただ手つなぐだけだよね」
午後の講義は握手会だ。
アイドルと言えば握手会。いつからそんな風潮ができたのか、あんまりアイドルに詳しくない私にはわからないけれど、そんな私にも漠然とそういうイメージがある。
だからライブの次に盛り上がるイベントだし、もしアイドルのファン養成所で講義内容を考えるとしたら、ライブ応援の次には握手会が――ってやっぱ来ないよっ!! 握手に練習することなんてない。絶対ない。今度こそ間違いなくない。
「
「いやいや、わかるよ。私もしたことあるもん。でもさ、それって練習するにしても、アイドル側だよね? だってファンの人はわざわざチケットとか買って列とか並んで、握手しに来ているんでしょ。練習までする必要ないって」
あくまでアイドルがもてなす側であるはずだ。何故ファンのほうまで練習しなくちゃいけないのかわからない。
「そんなことないよっ!! 継ちゃんはランド行くとき、どのアトラクション乗るか前情報調べて、勉強とかしないの!?」
「ええぇ……遊園地とかそういうとこあんま行かないし……」
「嘘っ!? じゃあ継ちゃんは休日何して……って、そっか家で映画観ているっていつも言ってたもんね」
「うん、そうだけど」
趣味が映画であることは、いろいろなところで答えている。だから私のファンである悠月にしたら、わざわざ聞かなくてもわかることだった。ただ会話として、私のパーソナル情報が既にだいたい入っている相手と話すのはなんだか不思議だ。
「映画観る前にどんな俳優さんが出るのかとか、前評判とか調べないの?」
「えー……、基本的に一回目は先入観なく観たい派なんだけど、でもまあ軽くチェックして観るかどうか決めるときもあるしな」
「あとほら、家だとわからないけど、映画館行くときは準備とかもするでしょ?」
「まあ、多少は」
映画館に行くときは、お決まりの手荷物セットがある。厚手のハンカチに、ポケットティッシュとマスクに伊達眼鏡と軽い化粧品類などなど。
あとは行きつけの映画館ならともかく、公開している劇場が少ないとたまに行ったことのない場所まで遠出することもあって、そういうときは駅からの道順の確認はもちろん観終わった後食事できるところがないかとかも調べる。
「同じだよっ! 握手会に参加するときも、ファンの人達だって万全の状態で行けるように準備するの。もちろん軽くネットで調べるだけの人もいるし、友達とかに話聞いて済ます人もいる。ぶっつけ本番って人もいるかもだけど、でもみんな何かしらね気構えの用意くらいはすると思うんだよ」
「いや、そうかもだけど……うーん、なんか上手いこと言いくるめられている気がするんだよね」
握手会の練習と映画観る為の準備や下調べって比較対象が違うと思う。握手会の練習を映画で無理矢理例えるなら、観たい映画があったらそれを観る前に他の映画を一回観て練習するって感じじゃない? さすがにそんなことする人いないと思う。
ただこれ以上突っ込みを入れても、悠月が考え直すとも思えない。私は黙って講義を受けることにする。午前中とは別の講師が来て、また同じように「君が期待のファン候補か」って言われる。ファン候補ってなんだ。ファンはなりたかったら誰でもなれるんだから、候補なんていないだろ。と思ったけれど、笑って頷いておいた。面倒は起こしたくない。
「今日は、人数が多いな」
講師が教室を見渡しながら言う。先ほどよりも広い部屋で、生徒数も倍以上いる。もしかすると激しい運動をさせられる午前のファン応援は不人気講義だったんだろうか。
「ドル側三人でやるか。一人は私として、あとは真賀さんと
真賀さん――悠月が講師に呼ばれる。それから瀬野さんというのは、さっきの講義にもいた小太りのおじさんだった。
ドル側というのは、アイドル側のことで、ようするに握手する側ってことだろう。生徒達が握手会に来たファンで、それに対応する講師と悠月とおじさんがアイドル側になるということか。
「実践に近い想定として人数は揃えないから、みんな好きなところ並んでいいぞ」
と講師の人が言う。つまり三人の誰に握手してもらってもいいらしい。
「継ちゃん、わたし主席だから、握手する側になっちゃった。一緒に練習受けられなくて、ごめんね」
「主席以前にする側なんだけどね。えっと、頑張ってきて」
「ん? 頑張るのは継ちゃんのほうでしょ? 練習しっかりねっ」
「え、ああ、うん、頑張るけど」
午前中に比べれば楽できそうだし、適当に流すつもりだ。
三人の誰と握手してもいいということだけど、これってみんなが好きに誰か選ぶってことは。
「あ、あのあの、継ちゃんはちなみに誰と握手するつもりなの?」
「えー……どうしよ、瀬野さんかな」
「なっなんでっ!? 継ちゃんなんで瀬野さんなの!?」
「え、何でって……瀬野さんだとマズいの?」
瀬野さんは小太りのおじさんだが、優しげな目をしている。さっき一度挨拶しただけだけど、悪い人そうには見えない。
「瀬野さんはいいんだよっ! 瀬野さんはわたしの次くらいに成績もいいし、養成所のみんなからも慕われてて……いい人だし……」
「へぇ、じゃあ瀬野さんでいいか」
「で、でもさ! わたしは!? 継ちゃん、わたし主席だよっ!!」
「いや、それはわかってるけど……真賀さん人気ありそうだし、握手会って列つくって待ちもやるんでしょ? だったら人少なそうなとこがいいかなって」
こう言うと瀬野さんに人気がないみたいな言い方だけれど、講師と変装しているとは言え人気アイドルで一応主席らしい悠月と小太りのおじさんなら前の二人に人が集まるのは目に見えている。
アイドルの握手会と言えば、握手してもらえるまで長い行列をつくって、何時間も待たされるのが基本だ。私に握手会にはそんな列できたことないけど。
それで並ぶ側になるとなれば、もともと誰かと握手したいって気持ちがあるわけではないのだから列の短そうなところを選ぶのが早い。
「握手会はそういうんじゃないよ継ちゃんっ!! 誰と握手したいかってそういう気持ちが大事なんだよっ!!」
「いや、だから別に誰とも握手したいわけじゃないんだけど……」
「わ、わたしは!? ……ほ、ほらっ、だってわたしなら体触ってもいいって」
「え? あーうん? 握手くらいなら誰としてもいいんだけど」
してもいいというか、アイドルなので誰とでもしなくちゃいけないというのが正しい。
「継ちゃんは、誰にでも体触らせるの!?」
「いやいや、だから言い方がおかしいって。体は触らせないよ、握手だけで」
「でもっ握手でも誰とでもするなんて……」
「するって。アイドルだったら。真賀さんだって、活動してたときはそうだったでしょ?」
人気アイドルの悠月ともなれば、今までに何万人くらいの人と握手していても不思議じゃない。
「で、でも、今はアイドルじゃなくてファンとしての握手だよっ! 自分から握手してもらいに行くのは違うよっ! する側としてもらう側は全然違うんだって!!」
「ええぇーそうかなぁ。まあそこまで言うならもう面倒だから真賀さんに握手してもらうけど……」
悠月とごちゃごちゃしゃべっている間に、生徒達のチームわけがほとんど終わりかけていた。このまま揉めていると講義の妨げになってしまうだろう。
握手会の練習が滞って、この世界になんの不利益があるのかはわからない。でも他の生徒達は、きっと悠月と同じでこの養成所で学ぶことに本気なのだろう。邪魔してしまっては悪いと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます