第一章⑨

     *


 突入前のヲーレンの指示により集められた警官隊は、今やビルの出入口を封鎖し、サーチライトでビルをくまなく照らしていた。その大勢の人の気配と地上から向けられるまばゆい光を嫌がったがために、ゴブリンは階下ではなく屋上に逃げたのだった。

 フェンスも取り付けられていない屋上のへりはコンクリートが数十センチ高く盛られている程度の心許こころもとないもので、少し足を滑らせただけで簡単に落下し、60メートル下の地面に叩きつけられ即死するだろう、というのは想像に難くない。

 そんな場所に自ら追い詰められることになったゴブリンは、銃を構えたままじわじわと距離を詰める仁悟とヲーレンに向かってギャアギャアと精一杯の威嚇をしてみせた。

「神島、気を抜くなよ。手負いの魔獣ってのは一番危険だ」

「ええ。ですがヤツはもう魔素弾を2発も食らってる。内臓までイカれて、そろそろ動くのも限界のはずです」

「それでもだ。手の具合は?」

「もう治りました。けどここじゃあ銃は撃てないですね」

 台詞せりふの通り、仁悟の焼けた手は月光を受けて既に完治していた。

「ああ。外せば弾がどこに落ちるか分からねえからな。素手でいくしかねえ。気合入れろよ、神島」

「もう入りまくってますよ」

 二人はゴブリンの逃げ道をふさぐように少し離れて位置取って、一歩ずつ慎重に距離を狭めていく。だが完全に決着がつくと思われたその状況で、仁悟とヲーレンのイヤホンに予想外の知らせが入った。それは切羽詰まった依吹の声によるものだった。

『こちら如月、緊急です! がいえんひがし通りに大型の魔獣が出現! 至急応援願います!』

「な――!?」

 一瞬、二人が驚きの表情で顔を見合わせたその瞬間にゴブリンが跳んだ。

 最後のあがきとでも言わんばかりの決死の覚悟で突っ込んできたゴブリンに、虚をかれたヲーレンの反応が遅れる。その肩をゴブリンの爪が切り裂く。

「ナラさん!」

「大丈夫だ!」と声を張りつつもヲーレンは苦い顔で距離を取る。

 仁悟はほんの数秒にも満たない時間で思考を巡らせ、そして覚悟を決めるとゴブリンに向かい全力で疾走を始めた。それに気付いたゴブリンは標的を即座にヲーレンから仁悟へと変えると、真っ直ぐ突き出した爪で仁悟の心臓を貫いた。

「! ごふっ――」

 しかし仁悟は吐血しながらもゴブリンにしがみつき、ためらうことなく地面を蹴る。

「時間がないんでな。……テメェも道連れにさせてもらう」

 一塊となった仁悟とゴブリンの身体は屋上の縁を越えて夜の闇に飛び出した。一層強いビル風にもみくちゃにされながら、仁悟は横目で空を見た。

「見ろよ、良い月だ」

 月光とサーチライトに挟まれ、叫ぶゴブリンの奇声もむなしく、真っ逆さまに落ちてゆく2匹の獣。下で警備を固めていた警官隊がそれに気付いたとて、一瞬の出来事に対応する時間などはあろうはずもなかった。仁悟らの身体はすさまじい勢いでパトカーの上に落下してその車体を破壊した。

「…………」

 しばし言葉を失う警官たちの前で、凹字になったパトカーの中から仁悟の声。

「…… いてててて。――おい、誰か起こしてくれ」

 慌てて数人の警官が車に上り、ルーフに空いた穴の中から彼を引き上げる。全身がゴブリンの血と体液にまみれ、自身も腕や脚があらぬ方向に曲がっている仁悟は、しかしそれよりも無惨に破けたスーツを気にしていきを吐いた。

「あーあ。これ経費で落ちんのかな……」

 バキバキと気味の悪い音を立てながら無理やり身体を戻しつつ、車に残ったゴブリンの肉塊を見つめる。

(こっちはなんとか片付いたが……)

 仁悟はボロボロになったスーツの襟を正しながらそばにいた警官に尋ねる。

「さっきの応援要請は? 状況はどうなってる?」

 すると警官は困惑気味に答えた。

「そ、それが――」


     *


 救急車のサイレンがこだまする。

 六本木と麻布の中間、洗練されたビルやホテルが並ぶ外苑東通りは今や戦場と化していた。裏返ったパトカーが建物の入口を突き破り、折れた街灯はその下の車の屋根をつぶし、あちらこちらで火の手が上がっている。

 その惨事に見合うだけの負傷者もおり、うめき声や助けを求める声に救急隊員の声が入り交じる。野次馬などとうにいなくなって、今は所轄の警官隊が主となって道路を封鎖していた。

「下がってください! 危険です!」

 依吹が前の警官に呼びかけながら、負傷して倒れた他の警官を強引に引きずり戻す。バリケード代わりに横づけしたパトカーの陰に隠れ、両手で構えたけんじゆうとともに再び顔を出す。彼女が向けた視線の先には、道路の真ん中でたけびを上げる巨大な影があった。

(なんて強さなの……あれがゴブリンキング――)

 体長は5メートルをゆうに超えていた。ゴブリンが持つ外見的な特徴は同じだが四肢の筋肉はけたちがいに発達していて、とても同種の魔獣であるとは思えない。そしてその巨岩の如き肉体を持つゴブリンキングには、所轄の警官隊の攻撃はもとより、廻塡魔導拳銃エーテルリボルバーですらほとんどダメージを与えられていなかった。

(弾が内部まで届かない。筋肉の硬さも厚さも、普通の魔獣とは別次元だわ)

 車を引きずりながら、銃弾を物ともせずにズシリズシリと近寄ってくる姿に警官たちはひるみ、そして恐怖に耐えられなくなった何人かが持ち場から逃げ出し始める。

「逃げるな! 俺たちがここを守――」

 使命感とわずかに残った勇気にすがり声を上げた警官は、しかしその台詞を言い切る前にゴブリンキングが投げた車によって姿を消された。その様を目の当たりにしたせいで、辛うじて踏みとどまっていた者たちまでもがの子を散らすように逃げ出した。

「防衛線が……このままじゃ街が……。せめて私が食い止めないと!」

 パトカーの後ろに取り残された、というより自ら戦うことを決意してその場に残った依吹は、ベルトから短いつえを取り出すと両手で握り締め、祈るようにじゆもんつぶやく。

しやくねつようせんの帯、ごうえんの赤、灰を作る者、火の蜥蜴とかげ ――」

 彼女が言葉を重ねるたびに杖の先端が少しずつ赤みを帯びていき、やがて小さな火がともる。それを確認した依吹は意を決して車の陰から飛び出し、燃える杖をゴブリンキングに向かって振りかざした。

火属性魔法執行エレメンタル・エルダー! 炎は矢となれ!」

 その言葉が発せられるや否や火種は激しく燃え上がり、まるで矢の如く勢いよく撃ち放たれた。その魔法の炎は命中すると渦を巻いてさらに大きくなり、ゴブリンキングの巨体を包み込む。苦痛の声が響き渡った。

 依吹はその1発を放つと急激な疲れを感じ、よろよろとその場にへたり込む。

「やった……。上級魔法……なんとか成……功……」

 離れていても届く熱風を感じながら、依吹は両手をだらりと下げて炎を見つめる。そんな彼女の後ろから、突如この場にそぐわぬ明るい声がした。

「ずいぶんと控えめな威力だが、筋は悪くないな」

 振り向くとそこにいたのはサジュエル。その手には何故か紙包みのクレープが二つ。

「ろ、ロッシュさん? なぜこんなところに……?」

「どうにも暇だったものでね。ところで君はこれを知っているか? チョコバナナクレープとかいうものらしいが、今のところこの時代で僕が得た最大の収穫だ。一体どんな魔法を使えばこんなしいものが作れるのか、非常に興味がある。君も食べるかね?」

「いや今はそういう気分では――」

「ならいいが。それで? 次はどうするつもりだ?」

 サジュエルが口元を生クリームで汚しながらそう尋ねたので、依吹は「えっ?」と目を丸くした。振り返ると立ち昇っていた炎は弱まり、灰色の煙の中からうなり声が聞こえた。

「そんな……! あれだけ高火力の魔法を――」

「まだ子供だが、曲がりなりにも王の名を冠する個体だ。あの程度の魔法では死なないさ」

「子供!? あの強さでまだ子供だって言うんですか?」

「見れば分かるだろう、あれはまだ生まれたてだ。まあすぐに育つだろうが」

「じゃあもしあれが大人になったら――」

「君らにとっては少し厄介かもしれないな。王たる個体はけんぞくを使役するようになる。あのキングであれば、恐らく千のゴブリンは従えるだろう」

 それを聞いた依吹は絶望のまなしをゴブリンキングに向ける。

「ゴブリンが千匹……」

 しかしそんな彼女の顔の横に、後ろからクレープが差し出された。依吹が無意識にそれを受け取りながら見上げると、サジュエルは親指についた生クリームをペロリとめた。

「だが案ずることはない。今この場には僕がいる」

 そう言い放った彼は依吹の横を通り過ぎ、ゴブリンキングのもとへ真っ直ぐ歩いてゆく。

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