第一章⑨
*
突入前のヲーレンの指示により集められた警官隊は、今やビルの出入口を封鎖し、サーチライトでビルをくまなく照らしていた。その大勢の人の気配と地上から向けられる
フェンスも取り付けられていない屋上の
そんな場所に自ら追い詰められることになったゴブリンは、銃を構えたままじわじわと距離を詰める仁悟とヲーレンに向かってギャアギャアと精一杯の威嚇をしてみせた。
「神島、気を抜くなよ。手負いの魔獣ってのは一番危険だ」
「ええ。ですがヤツはもう魔素弾を2発も食らってる。内臓までイカれて、そろそろ動くのも限界のはずです」
「それでもだ。手の具合は?」
「もう治りました。けどここじゃあ銃は撃てないですね」
「ああ。外せば弾がどこに落ちるか分からねえからな。素手でいくしかねえ。気合入れろよ、神島」
「もう入りまくってますよ」
二人はゴブリンの逃げ道を
『こちら如月、緊急です!
「な――!?」
一瞬、二人が驚きの表情で顔を見合わせたその瞬間にゴブリンが跳んだ。
最後のあがきとでも言わんばかりの決死の覚悟で突っ込んできたゴブリンに、虚を
「ナラさん!」
「大丈夫だ!」と声を張りつつもヲーレンは苦い顔で距離を取る。
仁悟はほんの数秒にも満たない時間で思考を巡らせ、そして覚悟を決めるとゴブリンに向かい全力で疾走を始めた。それに気付いたゴブリンは標的を即座にヲーレンから仁悟へと変えると、真っ直ぐ突き出した爪で仁悟の心臓を貫いた。
「! ごふっ――」
しかし仁悟は吐血しながらもゴブリンにしがみつき、ためらうことなく地面を蹴る。
「時間がないんでな。……テメェも道連れにさせてもらう」
一塊となった仁悟とゴブリンの身体は屋上の縁を越えて夜の闇に飛び出した。一層強いビル風にもみくちゃにされながら、仁悟は横目で空を見た。
「見ろよ、良い月だ」
月光とサーチライトに挟まれ、叫ぶゴブリンの奇声も
「…………」
しばし言葉を失う警官たちの前で、凹字になったパトカーの中から仁悟の声。
「……
慌てて数人の警官が車に上り、ルーフに空いた穴の中から彼を引き上げる。全身がゴブリンの血と体液にまみれ、自身も腕や脚があらぬ方向に曲がっている仁悟は、しかしそれよりも無惨に破けたスーツを気にして
「あーあ。これ経費で落ちんのかな……」
バキバキと気味の悪い音を立てながら無理やり身体を戻しつつ、車に残ったゴブリンの肉塊を見つめる。
(こっちはなんとか片付いたが……)
仁悟はボロボロになったスーツの襟を正しながらそばにいた警官に尋ねる。
「さっきの応援要請は? 状況はどうなってる?」
すると警官は困惑気味に答えた。
「そ、それが――」
*
救急車のサイレンがこだまする。
六本木と麻布の中間、洗練されたビルやホテルが並ぶ外苑東通りは今や戦場と化していた。裏返ったパトカーが建物の入口を突き破り、折れた街灯はその下の車の屋根を
その惨事に見合うだけの負傷者もおり、うめき声や助けを求める声に救急隊員の声が入り交じる。野次馬などとうにいなくなって、今は所轄の警官隊が主となって道路を封鎖していた。
「下がってください! 危険です!」
依吹が前の警官に呼びかけながら、負傷して倒れた他の警官を強引に引きずり戻す。バリケード代わりに横づけしたパトカーの陰に隠れ、両手で構えた
(なんて強さなの……あれがゴブリンキング――)
体長は5メートルをゆうに超えていた。ゴブリンが持つ外見的な特徴は同じだが四肢の筋肉は
(弾が内部まで届かない。筋肉の硬さも厚さも、普通の魔獣とは別次元だわ)
車を引きずりながら、銃弾を物ともせずにズシリズシリと近寄ってくる姿に警官たちは
「逃げるな! 俺たちがここを守――」
使命感と
「防衛線が……このままじゃ街が……。せめて私が食い止めないと!」
パトカーの後ろに取り残された、というより自ら戦うことを決意してその場に残った依吹は、ベルトから短い
「
彼女が言葉を重ねるたびに杖の先端が少しずつ赤みを帯びていき、やがて小さな火が
「
その言葉が発せられるや否や火種は激しく燃え上がり、まるで矢の如く勢いよく撃ち放たれた。その魔法の炎は命中すると渦を巻いてさらに大きくなり、ゴブリンキングの巨体を包み込む。苦痛の声が響き渡った。
依吹はその1発を放つと急激な疲れを感じ、よろよろとその場にへたり込む。
「やった……。上級魔法……なんとか成……功……」
離れていても届く熱風を感じながら、依吹は両手をだらりと下げて炎を見つめる。そんな彼女の後ろから、突如この場にそぐわぬ明るい声がした。
「ずいぶんと控えめな威力だが、筋は悪くないな」
振り向くとそこにいたのはサジュエル。その手には何故か紙包みのクレープが二つ。
「ろ、ロッシュさん? なぜこんなところに……?」
「どうにも暇だったものでね。ところで君はこれを知っているか? チョコバナナクレープとかいうものらしいが、今のところこの時代で僕が得た最大の収穫だ。一体どんな魔法を使えばこんな
「いや今はそういう気分では――」
「ならいいが。それで? 次はどうするつもりだ?」
サジュエルが口元を生クリームで汚しながらそう尋ねたので、依吹は「えっ?」と目を丸くした。振り返ると立ち昇っていた炎は弱まり、灰色の煙の中から
「そんな……! あれだけ高火力の魔法を――」
「まだ子供だが、曲がりなりにも王の名を冠する個体だ。あの程度の魔法では死なないさ」
「子供!? あの強さでまだ子供だって言うんですか?」
「見れば分かるだろう、あれはまだ生まれたてだ。まあすぐに育つだろうが」
「じゃあもしあれが大人になったら――」
「君らにとっては少し厄介かもしれないな。王たる個体は
それを聞いた依吹は絶望の
「ゴブリンが千匹……」
しかしそんな彼女の顔の横に、後ろからクレープが差し出された。依吹が無意識にそれを受け取りながら見上げると、サジュエルは親指についた生クリームをペロリと
「だが案ずることはない。今この場には僕がいる」
そう言い放った彼は依吹の横を通り過ぎ、ゴブリンキングのもとへ真っ直ぐ歩いてゆく。
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