第一章⑧

 やがて仁悟らが到着したのは改装途中で放置された商業ビルだった。20階建ての建物を見上げれば背後には月が満ちている。

 建物の窓に貼られた養生シートは半分近くががれ落ち、内装の工事もほぼ手つかずで投げ出されたまま。外にはいまだ仮囲いが取り残されており、ドラム缶やセメントの袋、ばらされた足場の鉄パイプなどが乱雑に積まれていた。

「ここは――数年前に殺 人コロシがあったとこだな」

「ええ。営業中のクラブ内で半グレ同士が集団でかち合ったとか。一般客も巻き込まれて、たしか三人死んでます」

 その事件が原因でテナントは次々と退去していき、イメージをふつしよくするために全面改装が計画されたものの入居者が決まらず、かといって取り壊して建て直すには費用がかかりすぎる――そのような理由で放置されている建物である。しかし少なくとも今はその無人となった状況を善しとする者がいるのは確かだった。

かすかだが……間違いない。血の臭いがする)

 っすらときばのぞかせる仁悟に、後ろからヲーレンが声をかける。

「神島。ただのゴブリンじゃあねえんだ、気を抜くなよ」

 そう言って車内から小さなアタッシェケースを取り出し、ボンネットに置く。中には白いけんじゆうと小箱がそれぞれ二つ。いわゆる回転式拳銃だが銃身には金の縁取りが施され、グリップには魔法陣が彫られていた。

廻塡魔導拳銃エーテルリボルバーですか……」

「こういうのが必要になるかもしれねえってことだぜ」

 二人は各々その銃を持ち、小箱から取り出したルーン文字の書かれた弾丸を慣れた手付きで込めてゆく。

「大丈夫なんですか、ナラさん」

「安心しろ、銃の腕ならお前よりはるかに上だ。元軍人をめるんじゃねえ」

「いやそうじゃなくて。建物に電気が来てないから、エレベーターは使えないですよ」

「…………」

 ヲーレンは建物を改めて見上げてから、「慎重に行くぞ」と念を押した。

「はいはい、ね。階段は両サイドにあるみたいだから、二手に分かれましょう。俺は右から上るんでナラさんは左をお願いします」

「おう。見つけても先走るんじゃねえぞ」

「分かってますよ」

 正面のガラス扉はかぎが閉まっているものの、肝心のガラスが砕けてなくなっていた。仁悟はそこから慎重にエントランスホールへと進入し、おもむろにサングラスを外す――赤い眼があやしく光り、どうこうが縦に細まる。

くせえな……。魔獣の臭いだ)

 コンクリートがき出しのままの柱と壁。はりの見える天井。床からは束ねられた配線が雑草の如く顔を出している。窓に貼られた半透明の養生シートによって、月明かりが寒々しい間接照明となってしっとりと部屋に射す。静けさが空間を冷やしていた。

 仁悟は角や物陰にいちいち銃を向け、着実に探索範囲を横から上へと拡げてゆく。やがて収穫のないままいくつかの階層を経てから、片耳に付けた小さなヘッドセットにささやいた。

「……こちら神島。現在9階」

『随分速いな。ちゃんと調べてるか?』

「大丈夫です。臭いは上から来てますが、まだ遠い」

『了解した、俺は今5階だ。そんなに焦らなくていいぞ』

「おっそ――」

 思わず言いかけた仁悟は口をつぐみ、再び探索に集中する。しかしこれといった発見もないまま上層階にまで辿たどり着いたところで、彼の表情が険しくなった。


(いる……)

 部屋に入るなり彼の鼻にまとわりつく血の臭い。仁悟はけんしわを寄せ、拳銃を暗闇の奥へと向けた。そして気配を消してゆっくりと歩を進めながら、点々とした赤い道標みちしるべを辿ってゆく。

 すると闇の深いところから、ピチャリピチャリと微かに響く湿った音が聞こえてきた。それが配管や雨漏りのたぐいによるものではないのは明らかで、その証拠に仁悟がそろりそろりと寄るのに反応して音はピタリと止んだ。

 仁悟は互いに相手の存在を認めたと判断してから、奥歯を鳴らして声を発した。

「……クソッたれが」

 銃口を向けた先には、闇の中で人間の腕とおぼしき物体を手にしたまま彼を見つめ返す、不気味な何かがいた。

「……こちら神島」

『おう。なんか見つけたか?』

「いました。ホラです」

 体長は170センチ前後。仁悟より低いとはいえ普通のゴブリンに比べればはるかに大きい。顔はテングザルに似ているが眼は横に長く鋭く、こうさいが異常に大きいため白目はほとんど見えない。四肢が太く、それでいてしなやかな筋肉からは、野生動物特有のきようじんさが容易に見てとれる。

『まだ仕掛けるなよ、神島』

「さあ、そりゃどうですかね……」

『なんだと? 無茶するな、俺が行くまで――』

 ヲーレンが言いかけている途中で仁悟はイヤホンをオフにした。仁悟のひとみは恐ろしくどうもうな光に満ちていた。

「……メスの方がデカいなんてのは魔獣にはよくある話だ。だがさすがに身長が倍以上もあるバケモンじゃあよ、オスのゴブリンに同情したくなっちまうぜ」

 ゴブリンが咀嚼そしやくしていたのは、明らかにまだ小さい、恐らくは人間か亜人の子供だった。仁悟はそれを認めた瞬間、自分の内に秘めた野性に火がともるのを感じていた。

「おまけに醜悪なツラだ。まあテメェだけだっていうなら話は別だが」

 魔獣には言葉など通じない。それは百も承知だった。それでも仁悟は悪態を吐くことで、自分のはらの底で沸騰する怒りが理性を溶かしてしまいそうなのを、なんとか抑え込んでいるのだった。

 ゴブリンはそんな彼から向けられる激しい敵意を感じ取り、くわえていた腕を床に投げ捨ててから、グギッグギッと気味の悪い声を発して威嚇してきた。

い足りないって言いたげな顔だがな、あいにくそれが最後のばんさんだ」

 言いながら仁悟は、ゴブリンの腰に狙いをつけた。どれほど速い生物であっても、身体の中心と重心が重なるようつい部分は回避が遅れる。それを理解してのことだった。

 しかし彼が引き金を握り込んだ瞬間、それよりほんの一瞬早く動いたのはゴブリン。

「なにッ!?」

 ゴブリンのスピードは、そのたいから推し量れる瞬発力を凌駕りようがしていた。はじかれたように横に飛び退いて、弾丸をける。

(こいつ、射線を読みやがった!)

 魔獣は普通の生物よりも遥かに敵意に敏感である。目の前でむさぼり喰われる肉塊を見た仁悟はその感情を抑えることができず、それ故、引き金を引くより前に攻撃を悟られてしまったのだった。

 舌打ちしてすぐに狙いを定め直す仁悟をあざわらうかの如く、ゴブリンは闇の中で躍る。そして2発3発と放たれた弾丸がコンクリートの壁を削ったところで、ゴブリンは急激に角度を変えて仁悟に飛びかかってきた。

 鋭い爪が斜めに振り下ろされ、とつに頭をかばった仁悟の腕をえぐる。

「くっ……! はええじゃねえか!」

 流血と痛みは、しかし彼の戦意をぐには足りない。むしろ闘争本能をき立てられた仁悟は牙を剝き出し、グルルとのどを鳴らすと逆に間合いを詰めた。

 予想外の突進に面食らっているゴブリンの腹にまえり。革靴が隠れるほどめり込み、その反発でゴブリンの身体が一直線に吹き飛ぶ。コンクリートの柱にたたきつけられてひるんだ隙に、仁悟はすかさず銃を撃った。

「ギャウゥッッ!」

 弾丸が肩に命中し悲鳴を上げるゴブリン。しかしそれでは終わらない。廻塡魔導拳銃エーテルリボルバーに込められた弾には魔法が施されており、命中するとそれが体内で発動するのだ。

 傷の周りの血管が膨れて浮き上がったかと思うと、直後に破裂。鮮血が散る。

 仁悟は再び風の速さで間合いを詰めると、柱にもたれて苦しんでいるゴブリンの胸を足で押さえつけて、至近距離で眉間に照準を合わせた。

「ちょこまか逃げやがって。この弾1発いくらすると思っていやがる」

 しかしとどめの一撃が放たれる前に、ゴブリンは口を大きく開いて黄色い液体を彼に吹きかけた。

「!?……っく!」

 その液体が銃を構えた手にかかった途端、皮膚を抉るような熱が仁悟を襲った。すえた臭いと煙。見る間に手が焼けただれ、彼はその激痛に耐えかねて思わず銃を落とした。

「ぐぅ……テメェ、こんな隠し技を――」

 そうして仁悟の足が緩んだ隙に、ゴブリンは一目散に部屋の外へ。

「逃がすか……っ!」

 仁悟は痛みに顔をゆがめながら銃を拾う。そして歯を食いしばりなんとかその後を追おうと、彼が部屋の出口に差し掛かった時だった。廊下から響く数発の銃声。

「ナラさん!?」

 仁悟が慌てて廊下に出ると、そこには銃を構えたままのヲーレンがいた。

「馬鹿野郎、神島。先走るなっつっただろうが」

「すみません……、ホラは?」

「上に逃げた。だが弾は当たったはずだ」

 ヲーレンがあごで示した通り、垂れ流された血の跡は廊下を進むにつれて大きくなっており、それはそのまま奥の鉄扉から上階へと続いていた。

「追いましょう、ナラさん」

 すぐさま走り出そうとする仁悟に、

「待て神島、お前その手――」

「油断しました」

「大丈夫なのか? 顔があおいぞ」

 ヲーレンは少し心配そうな表情をみせる。しかし仁悟は痛みを誤魔化すように、ぎこちない笑みを浮かべてこたえてみせた。

「大丈夫ですよ。月が出てる。でもナラさんは気をつけてください。あの猿野郎、口から酸みたいなものを吐きます」

 ヲーレンが「ああ」とうなずいて見やる廊下の窓。そこから射し込む月の光――。

 ライカンスロープとは別名で狼男やウェアウルフ、あるいはリュカオーンとも呼ばれる。彼らはある特定の条件下においては、他の亜人を遥かにしのぐ身体能力と、ほぼ不死身ともいえるほどの爆発的な自己再生能力を獲得する。そしてその条件とは月の光を浴びること。しくもよいは満月だった。

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