第一章⑥

「――なるほど。じゃあ特に思い当たる節は無いと」

「ええ、すみませんが。そもそも私は魔獣なんて見たこともないですし。それにゴブリンなんて東京にいるんですか? てっきり田舎の山奥とかにしかいないものかと」

「まあ普通は、そうなんですがね……」

 ヲーレンは腕組みをしたままうなる。仁悟の表情にも落胆の色。彼は手にしていたペンを手帳に挟むと、小さないきと一緒に懐へしまった。

「ご協力感謝します。お時間いただいてすみませんでした」

 そう述べて店を出ようとドアに手を掛けたところだった。仁悟はふと、店内に飾ってある船の模型に目を留めた。店名に由来した物か、海賊旗を掲げた大きめの帆船。

「あの船は――?」

「え? ああアレですか。先代のオーナーが趣味で作った模型なんです。なんでも若い頃は海賊になりたかったんだとか。笑っちゃいますよね」

 店長の苦笑いに付き合うこともなく、黙り込む仁悟。

「――あの船が何か?」

「いえ、まあ大したことじゃ。ただちょっと文字が気になったもんで。あの船、横にヴァイキングって書いてありますけど、つづりが違いません?」

 彼の言う通り、模型の船体に焼きごてで付けられた文字は『Vikingr』となっている。仁悟の記憶ではヴァイキングの綴りの最後にRの文字は付かない。

「ああ、あれですか。私も昔聞いたんですけど、どうもあの単語は英語じゃないみたいですよ。大昔のヴァイキングが使っていた言葉だとか」

「昔の言葉……名前……?――そうか!」

 仁悟はすぐに何かに気が付いた様子で、店長に再び謝辞を述べてから足早に店を出た。

「おい神島、どうした? あの船がどうかしたのか?」

「いや船じゃなくて名前ですよ、ナラさん」

「名前だあ?」

 早歩きの仁悟に、ヲーレンは短い足で歩調を合わせていく。

「ええ多分。あのクソエルフが言ってたのはそのことかも――」

 駐車場に戻る道すがら、仁悟は交差点で信号を待つ間に携帯を慌ただしく操作し、やがて納得の表情を浮かべた。

「やっぱりだ」

「何がやっぱりなんだ?」

 いぶかしげに尋ねるヲーレンに画面を傾けて見せる。

「見てください、ナラさん」

「字が小さくて見えねえよ」

「いい加減メガネしてくださいよ……。んなことよりこれ、ゴブリンの名前の由来は、昔ヴァイキングが使ってたノルマン語ってやつなんです」

「だから何だってんだ?」

「アイツが言ってた『ホラ』ってのは、きのホラじゃない。多分このノルマン語か、その頃に使われてた昔の言語なんですよ」

「なるほどな。で、そのホラってのはどういう意味なんだ?」

「それは分からないですけど、魔法史図書館とかなら魔獣に関する古い文献があるはずです。そこで調べれば何か見つかるかもしれません」

「しかしあそこは魔法庁の職員しか入れねえだろ」

「そこはまあ、なんとかします」

「なんとかってお前、また無茶するんじゃねえだろうな?」

「大丈夫ですよ」

 信号が青に変わってすぐに走り出す仁悟に、追い付こうともしないヲーレンはあきれるように鼻で息を吐いて、職務に燃える若い背中を眺めながら歩いていった。


     *


 吹き抜けの広い図書館の中は、高さ4メートルを超える木製の本棚が壁を埋めるように並んでいる。中央には太い柱がそびえていて、それも本棚としての機能を備えていた。

 蔵書スペースから少し離れた閲覧コーナーでは、長机の上に積み上げられた本を読みあさっている仁悟と、その向かいで目頭を押さえてうつむいているヲーレンの姿。

「なんでこう……どれもこれも字が小せえんだ。俺はもう限界だ、まいがしてきた」

「字が小さいんじゃあなくて、たんなる老眼ですよ、老眼。ナラさんだってもう歳なんですから」

「うるせえ、俺はまだピチピチの56だ」

「結構いってるじゃないですか」

 ヲーレンは背もたれに首を預けて唸り声を上げている。その間も仁悟はサングラスのまま、時折それを上げ直してはブツブツと独り言をつぶやきながらページをめくる。

「しかしよくもまあすんなりと入れたもんだ。お前のことだから、どうせ裏口から忍び込むとか無茶言い出すもんだと思ったが」

「そういうのは10代の頃に散々やって、いつもナラさんに怒られてたじゃないですか」

「懐かしいな。しかし不思議なもんだぜ。あのライカンスロープのやんちゃ坊主が、今じゃ獣対の刑事だってんだからな」

「そういうセリフは歳取ったの認めてる証拠ですよ」

「へえへえ、どうせ俺はジジイだよ」

 これみよがしに肩をたたいてみせるヲーレンに仁悟は呆れ顔で対抗した。そんな会話をしつつも、彼は読んでいた本が求めているものとは違うと判断すると早々にそれを閉じ、積み上げられた本の山から次を探す。

「ここに入れたのは如月に頼んだからです」

「嬢ちゃんに? ああそう言えば、あの子の父親は魔法庁のお偉いさんだったな。どうりで職員の対応が丁寧なわけだぜ」

 ヲーレンはそう言いながら天井を仰いで眼を休めている。それを横目に仁悟は仕方なく一人で本に没頭していった。

「――ゴブリン……ゴブリン……ゴ――ああこれか。ありましたよ、ナラさん」

 見つけた文章を指でなぞりながら少し声のボリュームを上げる。

「ええっと。ゴブリン、直鼻亜目ヒト亜科ゴブリン属……へえ、魔獣もちゃんと生物学的に分類されてるんですね。つーかゴブリンって猿なのか」

「魔獣ってのはようするに害獣の一種だからな。ようせいなんかはまた別だろうが」

「たしかに。で……体長は80センチ前後。二足歩行。足が短く手が長い。皮膚は緑がかった茶色、体毛は灰色で長く薄い。声帯が発達しており、極めて単純だが声によるコミュニケーションが可能。性別はオスのみでヒトを含む同科のメスと交配可能。雑食で非常に強い消化器官を持ち、人間や鳥獣の生肉を好む。――だそうです」

「長過ぎるだろ。覚えられるか」

「つっても特に目立った情報は無いですね。ノルマン語に関する記述も見当たらない」

「ううむ……、どうしたもんか」

 とそこへ、数冊の分厚い本を抱えた女性の司書がふらふらした足取りでやって来る。

「ふぅ。お探しの本はこれぐらいでしょうか」

 彼女はその本でもって机上の山を更に高く積み上げる。しかし仁悟が背表紙に目を通すと、どの本も新版などと銘打たれた真新しいものばかりだった。

 仁悟は「ありがとうございます」と言いつつも、その山には手を伸ばさずに考え込む。

「……すみません。折角持ってきてもらって悪いんですが、もっと古いやつは?」

「古い本、ですか。古文書とか?」

「ええ。それか民俗伝承みたいなやつでもいいです。そういうのは無いですかね?」

「それなら特別保管庫に有ると思いますけど――」

「じゃあそれをお願いします」

 しばらくして司書が大事そうに運んできたのは、少し大きめな平べったい木箱。表面には魔法陣。彼女はそれをおもむろに置くと、薄い手袋を仁悟とヲーレンに手渡して言った。

「状態は良いと思いますが、直接触ることは禁じられていますので」

 そうして木箱のふたを開けると、中には茶色い革表紙にエンボス加工で文字が打たれた、しっかりとした装丁の本があった。古めかしいデザインではあるものの、彼女が言うように革の油もまったく抜けておらず、ベージュ色の紙にもしわひとつ無い。

「本当だ、れいなもんですね。このタイトルはなんて書いてあるんですか?」

「たしか『モンスターの分類と生態に関する詳細な記述』という題名だったはずです。およそ800年前に書かれた本だそうですが、現在の魔獣生物学の研究のほとんどは、この本に書かれた内容の確認作業を行っているだけだとか」

「そりゃすげえ……」と仁悟は緊張しつつその本を手に取る。

「慎重に扱えよ、神島」

 ヲーレンの注意に、仁悟は言わずもがなとゆっくりその表紙をめくる。そしてはっとした表情で固まった。

「どうした神島、何が書いてある?」

「これは――全っ然、読めねえ」

 仁悟がヲーレンと顔を見合わせてから苦笑うと、ヲーレンは無言の圧力を返した。

「いや無理ですよこんなの。見たこともない文字だ。ナニゴデスカコレ」

 仁悟がそうぼやいて本を手渡すと、しかし受け取ったヲーレンはさっと目を通してから拍子抜けしたように言った。

「なんだ、こりゃ古エルフ語じゃねえか」

「古エルフ語って、なんですか?」

「昔のエルフが使ってた言葉だ。お前の嫌いな現場テープにだって書いてあるだろう」

「ああ、あれか!」と得心した様子で手を打つ仁悟。

「あれか、じゃねえよ。お前も少しは魔法勉強しとけ」

「今からそれはさすがに。ってかナラさん、それ読めるんですか?」

「発音はかねえが意味は解る。ドヴェルグ語っつう昔のドワーフが使ってた言葉と似たようなもんだからな。まあそっちは最近じゃめっきり聞かなくなっちまったが」

「へえ。ナラさんにも特技があったんですね」

「ふざけろ、俺にだってできることはある。ジジイなりの役目ってやつだぜ」

 そう言ってけんに皺を寄せながらページをにらむヲーレンの横顔を、仁悟は感心した様子で見つめていた。

「……あった。これだな。ゴブリンの生態について」

「おっ?」と仁悟がのぞき込むが、無論読めはしない。

「ゴブリンには……あー、社会性……が見られるが、群れは形成……オスのみで形成される。しかし数十……いや数万匹? に1匹という極めて低い確率で……メスが産まれる」

「メス? ゴブリンにメスがいるんですか?」

「そう書いてある。……メスのゴブリンは『ホラ・ゴブリン』と呼ばれ――」

 その言葉を聞いた仁悟は得意げな顔で指を鳴らしてみせた。

「ほら、ホラだ」

「黙って聴いてろ、続きがあるんだ。……ホラ・ゴブリンは、通常のオスのゴブリンに比べ……知能が高く……体が大きい。また群れを成さず単独で行動する。そして彼女らは誕生時に既に受胎しており、出産のため――」

 そこで言葉に詰まるヲーレン。文字が読めないわけではなく、その内容を声に出すことをためらったのだ。彼は顔を曇らせ、傍にいた女性司書を気にする素振りを見せてから、そうにせきばらいをしてそのまま続ける。

「……妊娠している人間の……子宮を食べる」

 果たしてそれを聞いてしまった司書の顔が青ざめた。

「――ただしそれは決まり……儀式に過ぎず、出産は摂食後1日から2日……だと?」

「は? 年じゃなくて日?」

「いや間違いねえ。1日から2日だ。そう書いてある」

「いやいやいや、ヤツが被害者ガイシヤったのは昨日ですよ!?」

「分かってるから静かにしろ。まだ続きがあるんだ。――しかし注意すべきは……その期間ではなく子供……産まれる子供は必ず次世代の王である」

 そこまで読み終えたヲーレンは、本をパタンと閉じて天を仰いだ。

「神島、こりゃマズいぞ」

「ですね。王っていうのはやっぱり、アレですか」

「多分、ゴブリンキングのことだろうな。実際に見たことはねえが、分類上じゃ特別危険指定種ってやつだ。ワイバーンやクラーケンと並ぶ、伝説レベルの化け物だぞ」

「マジかよ……。ナラさんこいつは――」

「ああ。まさにってるってやつだぜ」

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