第一章④

     *


 連絡を受けて依吹が駆けつけたのは、青山のがいえんまえ駅近くにある広い公園だった。植栽林の周りを、警察犬を連れた何人かの警官がうろついていて、その林の手前にあるれいな公衆トイレは、入口を黄色い規制テープでふさがれていた。

 依吹がその一枚を丁寧にがして隙間を潜り抜けると、中には先んじて到着していた神島仁悟の姿があった。

「お疲れ様です、神島さん」

「おう、お疲れ。こいつを見てくれないか」

 下に向けている仁悟の視線を依吹も目で辿たどる。白い磁器質タイルの床には赤いインクで描かれた魔法陣と、まき散らしたような大量の黒い染みがあった。死体らしきものは見当たらないものの、こびりついたまつの跡が酸化した血液であることは明白で、飛び散り方から察するにどうやら奥の個室にその原因があると推測できた。

「………………」

 嫌な予感を抱きつつも依吹がその個室をのぞいてみると、果たしてそこにあったのは男性の死体。便器に座ったまま恐怖に引きった顔で、全身をズタボロに切り裂かれていた。なかでも首の傷は頭がもげてしまいそうなほど深くえぐられている。

「うっ……」

 思わずえずいて顔を背ける彼女に、仁悟が平然とした口調で伝える。

被害者ガイシヤの身元は不明。人間なのは間違いない。年齢は20代から30代ってとこだろう。死因はけいどうみやく損傷による失血、あるいはショック死か。このきずあとからして、ったのは中型以上の魔獣だ」

「うう、殺人ですか……。たしか今朝もあったんですよね」

「青山の駐車場でな。向こうもひどかったが、こっちと関係があるかどうかは不明だ。まあそれは俺とナラさんで調べるが。それよりお前に見てもらいたいのはコレだ」

 仁悟はそう言って、足元に描かれている魔法陣をあごで示した。

「便所の落書きかと思ったが、鑑識の報告じゃの周りだけ空間の魔素量が少ない。つまりこの魔法陣が魔素を消費――機能してたって証拠だ。だが効果が分からないんだ。俺に魔法陣の知識はないんでな」

「なるほど、ちょっと見てみますね。……わ、今どき手書きなんて珍しい」

 しゃがみ込んだ依吹は気を張り直した様子で、まじまじとその魔法陣を眺める。

「かなり古い文言ですね。数世紀は前のものかも」

「そりゃこつとう品だな……。種類は判るか?」

「恐らくですが、召喚魔法です。だけどおかしいな」

 周囲を見回す依吹に対して「何がだ?」と問う仁悟。

「魔法円がどこにも見当たらないんです」

「? それがそうなんじゃないのか?」

「いえ、これは魔法陣なので。私が言ってるのは魔法円のほうです」

「魔法円? 魔法陣と何が違うんだ?」

 首を傾げる仁悟に対し、依吹は「ざっくり説明するとですね」と得意げに指を立てる。

「そもそも魔法というのはその効果をもとめる文言――つまり『じゆもん』を宣言することで起こり得る、人為的な魔素の励起現象のことです」

「それぐらいは知ってる。義務教育で習うだろ」

 馬鹿にするなと言いたげに口をとがらす仁悟に「ですよね」と笑う依吹。

「――それで、その宣言を口頭で行うものが詠唱式、文字として書き起こすタイプが記述式です。魔法陣というのは、この記述式と図形を組み合わせてより効率的に表したもののことです。一般的には外枠に円環を用いることが多いので、魔法陣と言えば丸いものを想像しがちですが、実際にはけいや三角形で構成されるものもあります」

「ああ。そういやたまに見かけるな」

「そして魔法円というのは、特定の範囲に他者を進入させないための結界。実際には円でなくとも構いませんが、原則としては交差しない1本の線に沿って書かれた記述式です。我々に身近なもので言うなら、現場の規制線がまさにそれですね」

「なるほど、魔法陣と魔法円か。ややこしい」

「召喚魔法ではその結界によって、召喚対象から術者自身を守るのが常識なんです」

「だがそれが見当たらない――本来両方あるはずのものが、ここには片方しかないってことか?」

「そういうことです。聖域である魔法円を描かなかったせいで、恐らくこの被害者は自分で呼び出した魔獣に襲われたんじゃないでしょうか」

「召喚したはいいが襲われて、慌ててトイレの個室に逃げ込んだがダメだった、ってワケだ。それで? 呼び出した魔獣の種類は判るのか?」

「そこまではちょっと……。この術式を完全に読み解くのは難しいかもしれません。かなり複雑に組まれてますし、ルーン文字以外の表記も見られます」

「しっかりしてくれよ。国立魔法大卒のエリートなんだろ?」

「古式魔法の解読は難しいんですって。今のような定型文じゃないんですから。言語学とか考古学とか、場合によっては民俗学の知識まで必要になってくるんですよ? まともに全文解析しようとしたら、専門の機関でも何カ月もかかるんです」

被害者ガイシヤが出てるんだ、そんなに待てるかよ」

 鼻息を荒くする仁悟に対して依吹は困り顔で溜め息を吐く。だが彼女はぶつぶつと何かをつぶやきながら考え込んで、

「……今読める範囲では『の者に肉と血をささげん。まかりし魂の器を』と書いてあるようです」

「それはつまり、どういう意味だ?」

「詳細は分かりませんが、かなり危険な文言です。対価を求めるものだと」

「対価?」

「はい。察するにこの魔法はいけにえを用いて執行されるものなんだと思います。当たり前ですけど魔法行使法違反ですね。というかそもそも召喚魔法が違法ですが」

「それじゃあこの男は、自分が生贄になると知らずに魔獣を召喚したってのか」

「そうなりますね。魔法円を書いていないということは、これが召喚魔法であることすら知らなかった可能性も。つまり魔法に関しては完全な素人で、被疑者であると同時に被害者でもあるということです。そして直近の問題は――」

「何を呼び出したか、だな」

「ええ」

 二人は血塗られた床と魔法陣を見つめて黙り込む。刑事としての経験から様々なおくそくが頭をよぎるが、正解に辿り着くには情報が足りない。

 しかしそうして二人が考えあぐねていたところで、突如後ろから若い男の声がした。

「随分と懐かしいものがあるじゃないか」

「っ!?」

 前触れもなく現れた気配に、仁悟がとつに振り返って身構える。しかし依吹はといえば、そこに立っていた緑色のローブの男を見て警戒とは程遠い声を上げた。

「ロッシュさん!?」

「――知り合いか? 如月」

「ええまあ……。というかさっき聴取をしていた人なんですけど」

「聴取?」

 仁悟はサジュエルから目を離さず、いぶかしんだ様子で言う。

「部外者は立ち入り禁止だ。つーかアンタ、どこから入ってきた?」

 するとサジュエルはやれやれと首を振り、

「馬鹿なのか君は。入口からに決まっているだろう」

「なに? 誰が――」

「そんなことより。君たちはその魔法陣について調べていたんじゃあないのかね?」

 その言葉に依吹がすかさず反応を示した。

「ロッシュさん、これを知ってるんですか?」

「知っているも何も、召喚魔法というのはもともと僕が考案したんだ。その式も何が召喚されたかも知っている。あとついでに教えておくが、そこの文言は『彼の者に』ではなく『彼女に』だ。しっかり読みたまえ」

「え? あ、本当だ……」

 依吹がもう一度魔法陣を確認しているうちに、仁悟は彼女とサジュエルの間に割って入った。サングラスの隙間からじろりとサジュエルをにらみ上げる。彼はサジュエルの高慢な態度が、種族格差によるおごりであると感じたのだった。

「おいアンタ、どこのエルフ様だか知らないが、部外者がしゃしゃり出てきて捜査に口を挟むんじゃない」

 しかし一方サジュエルは、そんな仁悟の姿を見て不思議そうに首を傾げた。

「君は――? そのひとみは……ライカンスロープなのか?」

「ああそうだよ、それがどうした」

「……いや別に。ただライカンスロープの衛兵なんて珍しいものだと思ったのでね」

「衛兵ってなんだよ。俺は刑事だ」

「振る舞いを見た限りでは似たようなものだろう。だが時代が変わったところでしよせん、獣は獣と言わんばかりだな。まるでしつけがなっていない。失礼極まりない」

「なんだと……」

 白いきばいてみせる仁悟に、サジュエルは顔の横で指をパチンと鳴らす。すると仁悟の目の前で淡い光がはじけた。

べつそそぎたいのなら、まずは礼儀をわきまえたまえ。

「っっっ―― ??」

 面食らった仁悟は戸惑った。勢いに任せて怒鳴ろうとしたものの、口を動かすことはできても声が出てこないのだ。

「愚者が為すべきは沈黙。賢者は語るべきを語る」

「…… !?…………!!」

「君はそうやって少し黙ることを覚えるといい」

 必死に口やのどを押さえて声を絞り出そうとする仁悟の姿に、

「どど、どうしたんですか? 神島さん!?」と焦る依吹。

「心配する必要はない。しばらくしやべれなくしただけだ。それよりも君たちは、そこの魔法陣について調べていたのではないのかね? それが何を呼び出すものなのかを」

「! そうです、ロッシュさんは本当にこれをご存じなんですか?」

 依吹が真面目な顔で問うと、サジュエルは不敵に笑ってそれに答えた。

「そんなものホラに決まっているだろう」

 堂々と言い切る彼に、依吹はきょとんとした表情のまま固まった。

「は? ……ですか?」

「しかしまあ、当面の目標がなくなってしまったのでひまつぶしに来てはみたが、どうやら僕が出る幕はなさそうだな」

 つまらなそうに手をヒラつかせてからきびすを返す。だが一歩踏み出したところで思い出したように足を止め、依然困惑したままの依吹らへと肩越しに声をかけた。

「まだ分からないならヴァイキングにでもいてみたまえ」

「ヴァイキング?」と依吹。

「それと少し急いだほうがいい。あれは君らの手には負えない可能性がある」

 謎めいた言葉を残し、堂々と立ち去るサジュエル。入口のテープは道を譲るように自然とがれ、彼が通り過ぎると再び元に戻った。それと同時に仁悟の魔法も解けたらしく、彼は水面から顔を出したかのように大きく息を吸った。

「――っ! ぷハァ……」

「大丈夫ですか? 神島さん」

「ああ、別になんともない。しかしあのエルフ野郎、偉そうに出てきたかと思えば法螺を吹いて帰るとは。何がしたかったんだ?」

「そういえば署では魔王がどうとか言ってましたけど」

「魔王? 魔王なんかとっくの昔に死んだだろ。頭がどうかしてやがるのか?」

「でも記述式をひと目で読み解くだなんて、普通はできませんよ」

「にしてもだ。エルフにはロクな奴がいないってことは確かだ」

「そういう台詞せりふ、公人としては問題発言ですよ? 神島さん」

「――なら前言撤回、あのエルフはクソ野郎だ」

「余計ひどくなってるじゃないですか……」

 これはいさめるだけ無駄だと悟った依吹は困り顔で大きくいきを吐いた。

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