とある聖女の華麗なる嫁入り物語 その四
――翌朝、私はベタつく衣服の、気持ち悪い肌触りを感じて目が覚めた。
「……んみゅ~?」
そういえば、昨夜は汗も拭かずに眠ってしまった。
その事を思い出し、慌てて身なりを整えようとするが、自身の荷物がどこにあるのか分からない事に気が付いて愕然とする。
「ど~しよう、せめて下着だけでも替えたい……」
顎に指を当てて考える。
無い物は仕方が無いので、これからどうするのかを考えないといけないのだが、名案は浮かんでこない。
いっその事、神様にお願いをしたら、汚れた衣類も新品同様にピカピカにらないかなとも思ってみたが、実際にそれを実行するのは抵抗を感じる。
「うむむむ……」
だがしかし、背に腹は代えられない。
丸一日
私は両手を組んで、神に奇跡を乞うための祈りを捧げる。
天にまします我らの神よ。
その聖なる御名の下に、我がパンツ……下着の不浄なる穢れを祓いたまえ。
願わくば、新品同様にピカピカで、お日様の光をたっぷりとその身に受けた――
などと、真剣に考えていた時の事だった。
――コンコンコン
「失礼致します」
ノックの音が聞こえ、続いて若いメイドさんが部屋の中へと入ってきた。
メイドさんは私の姿を見ると、一度深くお辞儀をして優しく微笑む。
「汚れたお召し物は、昨夜の内に洗濯しておきましたので、お返し致しますね」
……天使か!?
しかも受けとった衣類は、何の魔法がかけられているのか、新品同様にピカピカで、しかもお日様の下で乾かしたかのような匂いがするのである。
……もう一度言おう、天使か!?
「それと、あちらの浴室に今からお湯を張りますので、もし良ければご自由にお使い下さい」
そう言って、
間違いない、きっと神様が私の祈りに応えて、
それに加えてお風呂だなんて……神様、本当にありがとう!
「……それでは、私は外で控えておりますので、何かございましたら、何なりとお申し付け下さいませ」
しばらくすると、お湯を張り終えた
私の心はウッキウキのおサルさんである。
お湯で身体を拭くとばかり思っていた所へ、まさかのお風呂。
滅多に出来ない贅沢を前に心を躍らせて、何が悪いというのだ。
これはきっと、普段から良い行いを心がけている私への、神様からのご褒美なのでしょう。
私は、汗と埃に汚れた衣服を脱ぎ捨て、たっぷりのお湯が張られた浴槽に飛び込むのだった。
「…………しまった、タオルがありません!!」
――朝からお風呂に入るという贅沢を満喫し、私は身も心もリフレッシュしていた。
どうにも朝は苦手である。
特に寝起きはダメダメで、しばしば寝惚けて突飛な行動に出る事があり、危うくとんでもないお祈りを、神に捧げる所であった。
反省である。
ちなみにタオルは、呼んだら
そのまま身体を拭かれそうになったので、恥ずかしくてタオルだけ奪い取り、自分で拭いている。
……貴族って凄い。
私はふかふかのタオルで身体の水気を拭き取り、新品同様に洗濯された衣服を身に着けていく。
そういえば、昨夜は私一人で先走った後、あれからみんなに会っていない。
瀕死の赤兎族を救った事に後悔はしていないが、ポールさん達には謝らなければならないし、今後のファーゼスト領での打ち合わせもある。
それに何よりも気掛かりなのは、昨日助けた赤兎族の少年の事と、あの傍若無人なこの地の領主ゲオルグ=ファーゼスト辺境伯の事だ。
あの男は『聖女』の名に怯む事無く、それどころか、神を何とも思っていないような態度を取ったのである。
どんな思惑があったかは知らないが、あの男の行動は決して許されるものではなく、今後も気を付けなければならなさそうだ。
「あのう、すみません。ポールさん達はどちらのお部屋でしょうか――」
どちらにしても、まずはポールさん達と合流するのが先決だろう。
そう考え、私は扉越しにメイドさんを呼んで、案内してもらう事にした。
……が。
「――助けて下さい聖女様!お願いです、みんなを助けて下さい!!」
私の声は、誰かの涙交じりの叫びによって掻き消された。
「パン、そこで止まりなさい!ここは聖女様のお部屋です、それ以上近づく事は許しません!!」
「だって、このままじゃみんなが、お父さんとお母さんが死んじゃう!!」
「あ、こらっ、駄目だって言っているでしょう!!」
扉の向こうから只ならぬ気配を感じ、私は意識のスイッチを切り替えて部屋を出た。
するとそこには、昨日助けた赤兎族の少年――パンが、メイドさんに抱えられるようにして、取り押さえられていたのである。
「何事です、一体どうしたのですか?」
「お騒がせして申し訳ございません聖女様、すぐにこの者を下がらせますので……」
「――もうみんな皺くちゃになってて……このままじゃ、兄ちゃんや姉ちゃんみたいに死んじゃう!!」
メイドさんの拘束を振り払おうと、泣きながら必死にもがくパン。
「その子を放してあげて下さい、緊急事態かもしれません」
緊急事態という言葉を受けて、メイドさんは慌ててパンの拘束を解いた。
パンは急いで私に駆け寄り、矢継ぎ早に捲し立てる
「朝起きたらみんなが来てて、それで下痢が止まらなくて、みんなで看病しても全然良くならなくて、兄ちゃんや姉ちゃんの時と同じで、それで、それで…………」
「パン、もっと落ち着いて言わないと、聖女様も分からないわ」
「で、でも、早くしないとみんなが……」
言いたい事を思い付くままに告げるパンを、メイドさんは優しく
しかし、断片的な情報であっても、私にはおおよその状況が理解できていた。
「いいわ、大丈夫。とにかくみんなの所へ案内して」
「うん、こっち!」
そう言って駆け出すパンに置いていかれないように、私もローブの裾をたくし上げながら走り出した。
パンの言う症状は、ラヴァールの病魔に取り憑かれた者の典型的な例である。
しかも末期のそれであるため、至急対応しないと命を落とす可能性が非常に高い。
……でも、まだ間に合うはず、命の火さえ消えていなければ、私が間に合わせてみせる!
もう……もう、私の目の前で死なせたりするもんですか!!
パンは私の前を走り、長い廊下を右へ左へと曲がり抜けていく。
そして、しばらくその後ろを追いかけていくと、一旦屋敷の外へ出て、なんとなく見覚えのある建物の前へとやってきた。
そこは、昨夜、赤兎族の少年少女が収容されていた医療棟。
「お願いです聖女様!みんなを助けて下さい!!」
そんなの、パンに頼まれるまでもなく治すつもりである。
聖女の名に懸けて、誰一人として欠ける事無く、病魔を追い払ってみせるわ!!
そう意気込んで医療棟に足を踏み入れる私だったが、そこは想像以上の修羅場だった。
そこかしこから聞こえてくるうめき声。
ベッドの患者は力なく横たわっており、皆、まるで病魔に寿命を吸い取られたかのような、老人みたいに皺くちゃな顔をしていた。
「うおぇぇぇぇっ!!」
思わず耳を塞ぎたくなるような誰かの嘔吐。
部屋に充満する汚物と吐瀉物の臭い。
立ち籠める死の気配。
それらが私の脳を揺らし、鼻を蝕み、淀んだ空気がぬるりと肌に
だが、そんはものは私の行動の妨げ足り得ない。
嫌悪の感情などとうの昔に克服したし、誰かの命が
しかし、私は部屋の入口で立ち竦んでしまった。
目の前に広がる光景に、足が止まってしまっていた。
念のため、それをもう一度確認してみるが、やはり間違いではないようである。
三〇人。
それが、ベッドに横たわる赤兎族の人数だった。
……私が一日に完治させられる患者の上限は二五人で、通常通り治していたのでは、全員を助ける事ができない。
どうすれば……どうすれば、全員を救う事ができるの!?
私は現状を打破するために、必死になって考える。
患者は三〇人で、すぐにでも対処を行わなければ、数時間から半日程度で命を落としてしまう。
私が行使出来る奇跡の回数は、一日におよそ一〇〇回。
一人を完治させるために必要な奇跡の回数は四回分。
そのため、一日に完治させられる人数の上限は二五人まで。
本当はもう少し奇跡を起こせるけれど、どんなに頑張っても一二〇回もの奇跡を起こすのは到底無理。
……いや、何も私一人で対処する必要は無いわ。
ここファーゼストは優秀な人材が多く集まる地として有名だ。
なら、他の治癒術師と協力して対処に当たれば、なんとかなるかもしれない!
そう考えて、医療棟の担当者に協力を仰ぐが、返ってきた言葉は期待するものではなかった。
曰く、ファーゼストの治癒術師の多くはラヴァールへと出向しており、現在屋敷に動かせる人員は少ないのだとか。
また、その少ない人員も、ポールさん達と一緒に屋敷中の人間へ『
とてもではないが、目の前の患者に対処する余裕は無いそうだ。
そう答える医療棟の担当者の表情は苦渋に満ちており、リソースが限られている中、断腸の思いで赤兎族を切り捨てる決断をした事が窺える。
決して納得できる話では無かったが、赤兎族一人を救うために、他の幾人もの命が危険に晒される事を考えれば、仕方が無い決断なのかもしれない。
この赤兎族達が、ファーゼスト家の線引きの外側に居ると言うだけの話である。
思い通りにならない現実に歯噛みし、やり場の無い感情が胸にのしかかってくる。
――ダメ、今は嘆いている場合じゃない!
とにかく、他の人間は頼りに出来ない……いや、ポールさん達が頑張ってくれているおかげで、今、私は目の前の赤兎族だけに集中する事が出来ているのだ。
本来なら、私のリソースの全てを目の前に注ぎ込む事なんて出来ないのだから、私が病魔に打ち勝つ
そう自分に渇を入れ、もう一度、医療棟の患者達と向き合って考える。
前提条件を洗い出し、変える事の出来る事象と変える事の出来ない事象に分け、私自身が出来る事、出来ない事を整理しながら思考を巡らしていく。
そして、気が付いた。
目的が『赤兎族の患者全員の生存』である事に。
何も、今すぐ全員を完治させる必要は無い。
この病の死亡率は約八割なのだから、逆を言えば約二割は治るという事である。
なら、その命を繋ぐ事さえできれば、最終的には全員が病魔に打ち勝つ事ができるのではないだろうか。
その事に気が付いた私は、全ての患者を今日中に治す事を諦めた。
さて、無計画に奇跡を使用していたのでは、回数が足りなくなるかもしれないので、その内訳を考えなければいけない。
通常、完治させるために必要な奇跡の内訳はこうだ。
・『
・『
・『
だけど、この中で『
勿論、重症者や、体力の少ない子供や老人といった者は『
「――という事で宜しいでしょうか?」
「全て、聖女様にお任せ致します」
私がその事を伝えると、病人の看護をしていた赤兎族の長老が代表して答えてくれた。
「では、重症者と、子供と老人をこちらへ……」
そこから先は、ひたすら神に祈りを捧げていくだけである。
祈りを捧げ、奇跡を起こし、病魔を祓い、毒を打ち消し、病を癒す。
一つまた一つと奇跡の光が顕現し、一人また一人と患者が病から解放されていく。
……果たしてどれだけの時間、祈っていただろうか。
気が付けば、私は最後の患者に奇跡を唱えていた。
完治人数、七人。
『
奇跡の使用回数、九七回。
かなりギリギリではあったが、なんとか三〇人全員が山場を越える事ができ、そこで私の緊張の糸が切れた。
ふと窓の外を見てみれば、高く昇った太陽が昼の時刻を教えてくれている。
……眠たい……おなか減った…………
相変わらず、祈りが届くまでにいつも以上に時間がかかっており、その上一〇〇回近い奇跡の行使を連続で行ったため、全身を倦怠感が包んで疲労を告げている。
「後の事は私達で大丈夫ですので、聖女様はもう休んで下さい」
そんなに酷い顔をしていたのだろうか?
医療棟の担当者が、私の顔を心配そうに窺っていた。
部屋の中を見回せば、完治した者はすでに医療棟を去っており、『
そのため、この場にいる必要性は低いと判断し、私はその言葉に甘える事にした。
「では、お言葉に甘えて失礼させて頂きますね」
「……聖女様、我らを救って頂き、誠に感謝致します」
去り際に、赤兎族の長老から感謝の言葉を述べられたので、有り難くそれを受け取り、代わりに笑顔を返した。
救われた気持ちなのは、私も同じである。
病魔を前にして、一人の死者も出す事無く終える事が出来たのだから。
重たい身体とは対照的に、軽い心を弾ませながら、私は医療棟を後にした。
と、そこで私はある事に気が付いてしまう。
「…………しまった、自分の部屋が分かりません」
昨夜もそうだけど、今日も誰かの後ろに付いて移動しただけなので、私自身は道順を全く把握していないのである。
そのため、迷路のような貴族の屋敷の中から、自力で部屋を探さなければならない。
そう考えると、それがとても大変な冒険のように思えてくる。
「…………あっ、ちょっと楽しそうかも」
未知の探索を前に、私の心はちょっとだけワクワクしていた。
「くすくす、聖女様のお部屋はこっちだよ、僕が案内するね!」
すると、私の背後から声がかけられ、小さな人影が私の前に躍り出た。
兎の耳を有した赤兎族の少年、パンである。
たぶん私の独り言を聞いていたのだろう、パンはくすくすと笑い声を上げながら、上機嫌で私の前を先導する。
……は、恥ずかしいぃぃ。
折角、聖女らしいキリッとした所を見せたのに、これではダメな子だと思われるじゃありませんか!
「聖女様ってもっと遠い存在かと思っていたけど、なんか普通の女の子みたいだね。くすくす」
ち、違うんです、本当の私はもっとビシッとした、出来る女なんですよ!?
「でも、僕やみんなを、あっという間に治しちゃうんだから、本当に凄いね!」
「そうでしょ、そうでしょ!!」
「くすくす、うん!本当にありがとう!!」
うん、なんていい子なんでしょうか。
よし、お姉さんが撫で撫でしてあげましょう。
「ひゃっ、何するんだよ!」
あっ、耳のあたりは毛皮みたいになっているのね。
ちょっと、この手触り癖になりそうかも……
「ちょっ、くすぐったい。やめて、ねぇ聖女様やめてったら!」
そうして私は、無事に部屋に辿り着く事ができたのだった。
部屋に着くと、メイドさんが食事を用意してくれていたので栄養を補給し、その後もう一度お風呂に入って身を清めると、私はベッドに飛び込んでそのまま寝入ってしまう。
限界近い奇跡の行使は身体に大きな負担を与えており、更に祈る時間が通常時の二倍以上も必要となれば、想像以上の疲労が溜まっていてもおかしくはない。
まだ昼過ぎではあったが、私の意識は静かに沈んでいった。
――ゴンゴンゴン!
「せ、聖女様、急患です!どうか……どうか、お力をお貸し頂けないでしょうか!!」
そして、慌ただしい屋敷の喧騒によって起こされる事になるのだった。
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