悪徳領主の調教

 太陽の光が燦々さんさんと降り注ぐ中、一台の馬車が屋敷から去っていくのを見つめる。

 王都からやって来た法衣貴族であるロバート殿の見送りだ。


 どうやら、紹介した少女の母親もお気に召したらしく、昨夜はずいぶんとだったようで、朝はずいぶんと遅かった。

 あの様子なら、の値段はまだまだ吊り上げられそうだ。


 昨日纏まった話の大きさに、思わず口元が緩む。


 そんな事を考えていると、ロバート殿の乗った馬車は小さくなっていき、やがて見えなくなる。

 それを確認してから、私は屋敷の中へと戻った。


 さて、大きな案件が一つ片付いた。

 子細はヨーゼフに任せておけばいいとして、しばらくは予定は何も無い。

 久し振りに羽を伸ばすとでもしよう。


 そうだ、長旅でストレスも溜まっている事だし、今日はレーツェルと思いっきり楽しんで、発散でもするか。


 そう思い、準備をしてからレーツェルが繋がれている部屋へと足を運んだ。


「ふふふ、良い子にしてたかい?」


 扉を開けて中に入り、声を掛ける。


 すると、レーツェルは嬉しそうな声を上げ、甘えるように顔を擦り付けてきた。

 私もそれに応えるように、レーツェルの頭を撫でる。


 可愛いヤツだ。


 今でこそ私に懐いているが、初めて出会った時は、誰にも心を許さない孤高の存在だった。

 レーツェルが私の物になって、もう十年以上になるか。


 私は、少し物思いに耽りながら、レーツェルの上に跨がる。

 すると、下から嬉しそうな声が上がり、私はいつものように優しく、その首筋をなぞった。










 あれは、私が成人してから間もない頃の話だ。

 学園の長期休暇で帰省していた私は、ふと魔の領域に行くことを思い付いた。


 当時、学園では、ウィリアムとかいうクソ生意気な平民がでかい顔をしており、ヤツを地に這わせるために、腕を鍛え直す必要があったからだ。


 魔の領域は、荒れ地ばかりのファーゼスト領とは異なり、鬱蒼とした森に覆われた自然豊かな領域だ。

 また、色濃い魔に犯されているため、狂暴な動植物が多数棲息しており、その過酷な自然環境も相まって、修業をするのに絶好の場所なのだ。


 そうして、魔の領域で魔物を屠って回っていた時の事だ。

 その日は、何故か魔物の姿が見えず、魔の領域をウロウロと歩き回るだけだったのだが、一息付くためにと、近くの泉に寄ろうとしたのだ。


 茂みを掻き分けていき、視界が開けると泉の畔にソレはいた。


 木洩れ日を受け、煌めく毛並みは漆黒。

 その身体は引き締まった筋肉に覆われ、体躯を支える四肢はスラリと長く、靭やかでありながら力強さを感じさせる。

 黒く艶やかなたてがみを風に揺らされながら、横たわる姿は、さながら一枚の名画のよう。


 泉を挟んだ向こう側には、その圧倒的な存在感を放つ、一匹のの姿があった。


 それは、どこか御柱様から感じる存在感に通じる物があり、私は、相手が人の手の届かぬ領域の存在であると悟る。

 もし、アレがその気になれば、私の小さな命など、一息で消し飛んでしまうだろう。


 だが、私の心を支配したのは、生命の危険による恐怖ではなく、圧倒的な存在に対する憧憬であった。


「美しい………………」


 星一つ見えない夜空を思わせる、その黒き毛並み。

 魔の領域で鍛え上げられたのであろう、その引き締まった体躯。

 そして何より、何者にも屈しないその気高き姿。


「まるで夜の化身…………さしずめ月の女神といったところだろうか…………」


 どれだけの時間、魅入っていただろうか。

 まるで時が止まってしまったかと錯覚する程の濃密な時間が過ぎ、気が付けば、森の黒き姫君は目の前から去って行った。


 ふと我に返ると、体が震えている事に気付く。


 恐怖が、今になってやって来たのだろうか。

 いや違う、これは歓喜だ。

 あのような存在に出逢えた事に、魂が歓びの声を上げているのだ。

 神秘……そう、あれは正に神秘そのもの。


 きっと、また近い内に逢える事だろう。

 何となくではあるが、縁があるような気がするのだ。


 その日から、森の中で遭遇した神秘レーツェルが、私の心を埋め尽くすようになった。


 私は、どうにかして森の神秘レーツェルとお近付きになりたいと考えたのだが、そこで一つの懸念が持ち上がる。

 それは、私には長期休暇というタイムリミットがあるという事だ。


 神秘レーツェルは、ここ最近は、森の浅部まで顔を覗かせているが、次の長期休暇の時も同じとは限らない。

 あのような存在は、普通はもっと魔の濃い深部を棲みかとしているため、むしろ、この機会を逃せば、再び会うことは無いだろう。

 なので、私は、この短期間であの黒き姫君にお近付きにならなければいけないのだ。


 だがしかし、あのような高貴な存在を前にして、どうのようにして気を惹けば良いのか見当もつかない。

 …………ふむ、ここは一つ、先人達の知恵を借りるとしよう。


 何も知らない若造が一人で考え込むより、よっぽど建設的な意見が出るだろう。

 そう思い、私は屋敷の者達に、どうやって気を惹けば良いのかを聞いて回ることにした。




【サンプルその一】

 三十代男性・厩番・既婚・子供三人


「良いですか若様、こういう時は徐々に距離を詰めるんです、焦っちゃぁなりません。こう、何気無い風を装って、相手の警戒が薄まるのを待つんです」


 成る程、確かに何処の誰とも知らない人間が、急に接近してくれば警戒もするだろう。

 少しずつお互いの距離を詰める……参考になった。


「…………………………そうすりゃぁ、ほらっ、ウチの赤子も…………って、ありゃ?もう行っちまいやしたか……」




【サンプルそのニ】

 十代女性・侍女・未婚・意中の男性有り


「えっ、あの、機嫌の取り方……ですか?…………あ、そうだ、頭を撫でてはどうでしょうか……目を細めて喜びますし、耳の後ろなんかも気持ちいいみたいですよ」


 ふむふむ、頭を撫でると……

 年頃の女性の意見である、これも参考にさせて貰おう。


「あそこにいる猫は、人懐っこいので、近寄っても大丈夫…………って、あら?ルドルフ様?……どちらへ?」



【サンプルその三】

 二十代男性・侍従・未婚・童#(文字化け)


「えっ!?俺ッスか!?いやいやいや、他の人に聞きましょうよ…………えっ、いいから言えって?……わ、分かりましたから、怒らないで下さい!う~ん、俺の読んでる本なんかだと…………え~っと、相手の耳元で想いを囁いたり……後ろから抱き締めたり、何度も名前を呼んだり……とかですかね?」


 書物の知識か、これは盲点だったな。

 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶとも言うからな、これは是非とも実践させて貰うとしよう。




 こうして、万全の態勢を整えた私は、長期休暇の間、毎日のように魔の領域へと赴いた。


 途中、屋敷の者にその事がバレて引き留められたり、護衛を付けられたりするという事もあったが、森の神秘レーツェルに逢いに行くのに、供をぞろぞろ引き連れては無粋であろうと、護衛は全て道中で撒いた。


 そして、やはりというか、赴く先々で、私は森の神秘レーツェルと巡り合う事ができた。

 きっと、運命を司る御柱様の思し召しであろう。


 だが、だからといって焦りは禁物。

 ゆっくりと、相手の警戒を解くために少しずつ距離を縮めるのだ。


 毎日、飽きもせずに姫君を探しては、その姿に見惚れ、そして時間が経てば、森の奥へ帰っていくの見送る。

 何回もそれを繰り返し、少しずつ、少しずつ、それこそ一日に数歩といった距離を詰めていく。


 そして、とうとうその日がやってきた。

 奇しくもそれは、初めて出会ったあの泉の畔での事だった。


 これまでの成果か、私と神秘レーツェルの距離はかなり縮まっており、あと数歩もすれば直接手の届くまでになっていた。


 そこから更に一歩踏み出す。


 神秘レーツェルは、一瞬だけ目を開いてこちらの様子を伺うと、また目を閉じて、いつものように木に体重を預けて、穏やかな呼吸を繰り返す。


 …………やはり美しい。

 身体には無駄な部分は一切無く、生きるための機能美があり、こうして手の届く距離で見ると、それが一層伝わってくる。


 気が付けば、私は更に一歩踏み込み、神秘レーツェルへと手を伸ばしていた。


 魔の領域という過酷な自然が作り上げた、一粒の宝石。

 それが欲しい、我が物にしたいと強烈に意識してしまったためだ。


 だが、目の前の存在は、私ごときに、どうにかできる存在ではない。

 その事に思い至り、差し出した手をどうしたらいいか分からず迷っていると、ふと、ある言葉を思い出す。


『えっ、あの機嫌の取り方……ですか?…………あ、そうだ、頭を撫でて見てはどうでしょうか……目を細めて喜びますし、耳の後ろなんかも気持ちいいみたいですよ』


 ふむ、機嫌を取る、か……悪くはないな。


 見れば、その見事な鬣は黒く艶やかで、触り心地も良さそうである。

 私は、行き場を無くした手をそのまま伸ばし、その絹のごとき滑らかな感触を味わった。


 私の手が触れると、神秘レーツェルは驚いたように目を開けるが、特に害意が無いと分かると気持ち良さそうに目を細める。

 しばらく、その手触りを堪能すると、今度は耳の後ろの辺りを撫で、時には優しく掻くように手を動かす。

 すると神秘レーツェルは、少しくすぐったいのか、耳をピクピクと震わせるが、それ以上は何もせず私の為すがままとなっている。


 な、なんと!あの侍女の言った通りではないか!?


 直に手で触れているというのに、全く警戒する素振りさえ見せない。

 厩番の言っていた通り、焦らず、少しずつ信頼関係を構築したお陰だろう。


 ふむ、ならば次はどうすれば良いだろうか……

 確か、あの侍従が言うには、耳元で想いを囁くのだったな。


 ……だが、何と言えば良いのだろうか?

 こう言っては何だが、私はレディの扱いに関しては疎い所がある。

 目の前の姫君に対して、気の利いた事が言えるだろうか。

 とにかく、ここは正直に私の想いを告げるとしよう。


 私は、神秘レーツェルの耳の後ろをコショコショと掻きながら、顔を近付け、そっと呟いた。


「……レーツェルよ、私の物になれ」


 ……………………正直に言い過ぎた。

 これではまるで、下僕になれと言っているようではないか。

 ……私は何を言っているのだ。


 この一言で、嫌われてしまったのではないかと心配になり、神秘レーツェルの顔色を伺ったのだが、どうにも様子がおかしい。

 先程、甲高く一声鳴いたかと思うと、ブルリと震えて、それから微動だにしない。


 ……………………ドクン!


 ん?一体どうしたというのだ?


 不意に心臓が高鳴ったかと思うと、体中の魔力が昂ってくるのが分かる。

 その上、神秘レーツェルが何を考えているのかが、何となく分かるようだ。


 …………これは、服従の意志?


 漠然と流れてくる、神秘レーツェルの思考からは、私に従いたいという意志と、それに抗うような意志が感じられる。

 どちらかというと、従いたいという意志の方が強いように感じられるのだが……これは一体どういう事だろうか。

 神秘レーツェル程の存在が、誰かに従いたいと願うなど、考えられない。


 だが、実際に神秘レーツェルからは、強い服従の意志が感じられる。

 これは一体…………はっ、まさか!……いや、そんな馬鹿な…………だかしかし、そう考えれば納得がいく!!


 もしも……もしも神秘レーツェルがあるとすれば、今のこの状態も説明がつく。

『私の物になれ』と言った事で、相手の意志が分かる程に心を開いてくれたのだ、そうであったとして、何も変ではない。


 誰かに支配されたいと願いつつも、孤高の存在故に、他者のそれ受け入れられない。

 きっと、そんな葛藤が、神秘レーツェルの中に渦巻いているに違いない。


 フハハハハハ!

 ならば、その想いを、このルドルフ=ファーゼストが受け止めてやろう!!


 ふむ、確かこの後は、後ろから抱き締めるのだったな……


 呆然とする神秘レーツェルに手を掛けて、勢いを付けてその背に跨がると、首に手を回しながらもう一度呟いた。


「もう一度言う、私の物になれ!」


 すると神秘レーツェルは、今まで呆然としていたのが嘘のように我を取り戻して、暴れだした。


 急な事に驚き、私も鬣を掴んで何とか踏ん張るが、振り落とされる程ではない。


 やはり、神秘レーツェルは私に支配されたがっている。

 もしも神秘レーツェルが本気であれば、私程度をどうにかするなど容易なはずで、こうして背に跨がっていられる事自体が、その証。


 あと一歩。

 あと一歩で、神秘レーツェルの想いを理解できる気がする。


 何か無いか、何かこう、神秘レーツェルとの心を繋ぐ決め手は無いか…………


『何度も名前を呼んだり……とかですかね?』


 ……はっ、そうだ。

 あの侍従が言っていたではないか。

 後ろから抱き締めたら、その後は名前を呼ばなければならないのだ。

 ……くっ、何故私はその事を忘れていたのだ。


 しがみつく手に力を込め、私は叫んだ。


 泉の畔で出逢った黒き姫君の名を。

 私の心を奪った、月の女神の名を。

 気高き、夜の化身の名を。

 魔の領域が作り出した、一粒の宝石の名を。


 ありったけの力を振り絞り、吼えるようにして叫んだ。


 君の名は…………


「レーツェル!!」


 ………………ドクン!


 その瞬間、心臓がもう一度高鳴り、体中の魔力が目まぐるしく回ったかと思うと、レーツェルとの間に、魔力で作られた確固たる絆が出来上がった。


 先程以上に、レーツェルの思っている事が分かるようになり、私の意思に従順な事も分かる。


「ふふふ、良い子だ」


 そう声を掛けると、どこか心安らいだ気持ちが伝わってくる。

 どうやら、私の考えは間違っていなかったようだ。


「今日からお前はレーツェル、私がお前の主だ」


 馬とは、本来群れで生きる、臆病で寂しがり屋な生物だ。

 それが、自身の存在の高さ故に、魔の領域で独りで生きてきたに違いない。

 きっと、心の何処かでは主を求めていたのであろう。


「ふふふ、そう怖がる事はない。じきに慣れる。……そう、じきにね」


 誰かに支配されるというのは、慣れない環境なのであろう。

 不安そうな気持ちが伝わってきたので、レーツェルの首を一撫でして、私はそのまま屋敷まで連れて帰ることにした。


 こうして、レーツェルは我が家にやってきたのだった。








 そんな昔の事を思い出しながら、レーツェルと一緒に、ファーゼストに広がる荒れ地を駆け抜ける。

 レーツェルの上下に揺れる体の動きに合わせ、走る邪魔にならないように、自身の体を上下させる。


 名馬など比べ物にならない程の、速度と持久力でもって走り続け、通り抜ける風が、火照った体に心地良い。


 そうしてしばらく走り続けると、溜まった物も発散され、レーツェルも満足したようで、近くの水場で少し休憩を取ることにした。


 レーツェルの背から降り、水を飲まそうとするが、レーツェルは私に顔を擦り付けるばかりで、水を飲もうとしない。


 ふふふ、どうやらバレているようだ。

 私は、遠乗りに出る前に厨房に寄り、ありったけの人参を持って来ていたのだ。


 その数、十本。

 私が、何も手を打たねば、それらは確実に夕飯の一品となっていた事であろう。


 それらを、レーツェルに与えると、喜びの感情が伝わってくる。

 昔から、レーツェルは人参が大好きなのだ。

 どれくらい好きかと言うと、レーツェルと一緒に食事を取っていると、私の分の人参まで奪っていくぐらい大好物だ。

 ……………決して他意は無い。


 そうして、レーツェルは全ての人参を食べ尽すと、ようやく水を飲み始める。


 私は、レーツェルの首を撫でながら、空を見上げた。


 ああ、今日も空が高い………………

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