囚われた黒姫の華麗なる一日
あるところに、それはそれは美しい姫がおりました。
黒く艶やかな御髪(おぐし)を風になびかせ、月光に照らされて物憂げに空を見上げる姿は、月の女神もかくやとばかりの美しさでした。
そのあまりにもの美しさに、言い寄る男は数知れず。
けれども姫は、その全てを袖にします。
姫は、どうして男達の求婚に応えないのでしょうか?
それは、姫が魔物の姫だったからです。
姫は、自身よりも弱い者と
一人、また一人と男達は玉砕され、とうとう姫に求婚する者の姿はなくなってしまいました。
けれども、姫は何とも思いません。
何故なら、それこそが姫の力の証明だからであり、また姫の寿命は人のそれより遥かに長いため、急いで番を探す必要がなかったからです。
しかしある日、姫はある人物と運命の出会いを果たします。
襲い掛かってくる緑色の
ある者は、そのあまりにもの威力に頭をひしゃげさせ、またある者は、蹴り飛ばされた勢いのまま木々に体を打ち付け、息絶える。
気が付けば、見える範囲に生き物の気配は存在せず、十を越える緑の死体が辺りに散らかっていた。
やれやれ、久し振りに、拙者に挑む
最近は、拙者と契りを結ぼうとする腕自慢が現れず、退屈な毎日を送っていた。
そこで、気晴らしに散歩に来てみたのだが、
拙者を手籠めにしようとする、強者の襲撃かと期待したのだが、蓋を開けてみれば、相手の力も推し測れない、最下級の魔物の類いであった。
期待していた『闘争』の二文字は無く、ただの害虫駆除を行っただけだ。
ふん、気分が悪い……
折角気晴らしに来たのに、鼻の曲がる血臭を嗅ぐ羽目になり、一層機嫌が悪くなる。
確かこのままもう少し歩けば、綺麗な水が湧く泉があったはずだ。
今日はその
拙者は、鼻をつく死の臭いを振り払い、歩を進める事にした。
柔らかな木漏れ日の中、水の流れる音を子守唄にして、うとうとと微睡んでいた。
先程まで不機嫌だったのが嘘のように、穏やかな気持ちで船を漕ぐ。
何も考えずに昼寝をするのは、心地良い物でござる。
番になりたければ、拙者よりも強き事を証明せよと公言し、挑戦してくる雄共と闘いに明け暮れる日々を送っていたが、ここ最近は挑んでくる者がめっきり現れなくなってしまった。
全く軟弱者ばかりでござる。
一度や二度蹴り飛ばされたからと言って諦めるようでは、その熱意の程が知れるという物でござる。
もっとこう、何度敗れても立ち向かうような、不屈の闘志を燃やす
そうであれば、拙者の心も多少は動くでござろうに……
はぁ……
そういえば、最後の挑戦者を蹴り飛ばしてから、どれだけ日にちが経ったでござろうか?
昼寝は確かに気持ちが良いが、やはり拙者は、血沸き肉踊る闘争の中にあってこそ、生きる充足を感じるでござる。
どこかに、拙者を求める強者はおらぬものか…………
ピクピク
そんな祈りが届いたのか、この泉へと近付く存在の気配を察知し、耳が反応する。
薄目を開けて、気配の方向へと視線を向けると、泉の反対側にある茂みから一人の少年が姿を現した。
拙者と同じ、黒髪を有した少年だ。
少年は拙者の姿を見ると、驚いたように固まった。
反面、拙者は現れた存在の小ささに落胆する。
久し振りの挑戦者がやって来たかと思ったが、現れたのは森の外で生きる脆弱な人族。
群れる事と、その狡猾さを武器に、魔の領域の外でひっそりと生存する臆病な種族だ。
中には魔の領域で暴れる剛の者もいるが、深部で闘争を繰り広げる拙者の敵ではござらぬ。
ふん、このまま去るなら見逃してやろう。
そう思い視線を外して、昼寝を続けようとすると、ぽつりと漏れた少年の言葉が聞こえてきた。
「美しい………………」
その呟きに、思わず目を向ける。
てっきり、恐怖で動けずにいるのかと思っていたが、どうやらそれは違うようだ。
「まるで夜の化身…………さしずめ月の女神といったところだろうか…………」
ふむ、魔物の姫として、その美しさを知らしめてきた拙者であるが、どうやら人族にもそれは通用するらしい。
それに、拙者を見て、恐怖も覚えず見惚れるとは、中々見所のある少年でござる。
実に気分が良い、今日の所は見逃してやるでござる。
そう思い、拙者は泉から立ち去る事にした。
そして、姿が見えなくなるまで、少年の視線が途切れる事はなかった。
だが、それからというもの、森の浅い部分にやって来ると、かなりの確率で、黒髪の少年と遭遇する事になった。
どうやって探しているのか全く分からないが、私が訪れると、どこからともなく姿を現すのだ。
特に、初めて出会ったあの泉に出向くと、少年は必ずやって来る。
初めて出会った時は、泉を挟んだ向かい側だったが、今では少し歩けば手が触れるという距離にまで、近付いてきていた。
この泉に来ないという選択肢は、この少年から逃げているように思え、強者としてのプライドが許さず、かといって害意を持たない弱者を痛め付ける事も、これまた強者としてのプライドが許さなかった。
そして、その結果がこの距離である。
少年が見惚れ、しばらくしてから拙者が立ち去るというのが、ここ最近のルーチンワークだ。
今日は、昨日よりもまた一歩近い。
そして、一歩、更にまた踏み込んでくる。
…………ふん、まあいい。所詮は脆弱な種族だ、拙者に危害を加える事は出来まい。
そう考え、強者としての余裕を持って、泰然とする。
そして、そのままいつものように、木に体重を預けたまま昼寝を続けようと目を細める。
ふわり。
余程気を許していたらしい。
気が付けば、少年が拙者の髪を優しく撫でているではないか。
少し驚いて、少年に目を向けるが、少年は髪を撫で続ける。
特に害意は感じられない。
まぁ、何かあったとしても、その瞬間にこの者を蹴飛ばせば済む事だ。
そのまま、少年の気が済むまで髪を撫でさせる。
……………………それが、間違いだったという事にも気が付かずに。
少年は髪を撫でる手つきのまま、耳の辺りまで手を伸ばす。
正直、くすぐったいでござる。
しかし、その事を悟られるわけにはいかない。
拙者にもプライドというものがあるでござる。
だが、少年はそのまま顔を近付け、拙者の耳元でボソリと呟く。
「……レーツェルよ、私の物になれ」
ひゃいッ!!
あまりにものくすぐったさに思わず、反応してしまった。
今まで知らなかったが、拙者はどうやら耳が弱かったようでござる……
……………………ドクン!
急に、心臓から巡る魔力の奔流に飲まれる。
何……でござる……か?……一体……何が?
身体を巡る異常に戸惑っていると、不意に背中に気配を感じた。
先程まで耳元に顔を寄せていた少年が、いつの間にか拙者の背部に回り込んでいたのだ。
「もう一度言う、私の物になれ!」
そのまま、髪を掴み上げられ、羽交い締めにされる。
油断したでござる!
この少年は、拙者が心に隙間を作るのを虎視眈々と狙っていたのだ。
人族は狡猾だと知っていたはずなのに、なんたる不覚でござろうか。
必死になって、振りほどこうとするが、少年も首と髪を掴み上げる手に力を込め、放そうとしない。
「レーツェル!!」
………………ドクン!
その名を呼ばれた瞬間、急に力が失われる。
「ふふふ、良い子だ」
それどころか、少年の声に安らぎすら感じてしまう。
一体何故!?
どうして少年の声に逆らえないでござるか!?
まさか……まさか、あの時か!
拙者の身体に異変が起きたのは、少年が拙者を『レーツェル』と呼び『私の物になれ』と言った時だ。
あの時、拙者はあまりにものくすぐったさに反応してしまった。
古来より、名前とは特別な物。
真名を知られれば、存在の全てを知られる事となり、支配する事すら可能となる。
それが魔の者であれば、尚更である。
だが、拙者は真名を知られたわけではない。
では何故、少年の呪に掛かってしまったのか。
あの時、拙者は少年の名付けと問いかけに対して、応じてしまった。
つまり、『レーツェル』と言う名前を自ら認め、『私の物になれ』という問いかけに自ら応えてしまったのだ。
「今日からお前はレーツェル、私がお前の主だ」
自ら隷属の契約書にサインをした魔の者に、それを破棄する事は出来ない。
脆弱な人族の虜となろうとは、なんたる屈辱!
数多の
くっ、殺せ!いっその事殺せ!!
「ふふふ、そう怖がる事はない。じきに慣れる。……そう、じきにね」
少年はそう言って、拙者を魔の領域から連れ出した。
そうして、しばらく歩みを進めると、人の営みが見えてくる。
初めて見る人の世界は全てが未知の物で、隷属さえしていなければ、拙者は目を輝かせていた事でござろう。
どうやら、この少年は人の群れの中でも、かなりの上位に君臨する群れのボスらしい。
ボスの所有物となれば、そこまで粗略に扱われる事はないだろうが、そもそも人間に隷属した事自体が業腹だ。
「そう怯えなくて良い、皆私の所有物だ。レーツェルに危害は加えさせない」
だが、少年にそう言われて頭を撫でられると、心が落ち着いてきてしまう。
耳の近くを触られると、くすぐったくて声を上げてしまいそうになるし、指先が首を這えば背中に痺れるような刺激が走るのだ。
ああ、拙者は本当にこの少年の物になってしまったようでござる。
そう、心の奥底では分かっているのだ。
魔物としての本能が、この少年の力を認めているのだ。
この少年は、数多の雄がついぞ叶えられなかった事を成し遂げた。
見事、拙者という存在を屈服せしめ、物事成すという力を知らしめたのだ。
相手を組み伏すだけが強さではない。
それとは違う強さを少年は持っていた、それも並々ならぬ強大な力をだ。
でなければ、拙者はこうして少年に
………………トクン。
そう考えると、この少年の物になるのも悪くないと思えてくる。
ふふふ、どんな相手に手籠めにされるかと思うておったが、矮小な人間の物になろうとは、さすがに想像すらしなかったでござるな……
そう考えながら歩いていると、一際大きい建物にやって来た。
どうやらここが、この少年の
そして、その脇にある少し小さめの建物の中へと連れていかれ、その中の一室に繋がれる。
「今日から、ここがレーツェルの家だ。いいな?」
そう優しく諭されると、何も言えない。
少年は最後に拙者の頭を一撫ですると、部屋から去っていく。
部屋に繋がれた拙者には、もはやどうする事もできない。
これから、この部屋が拙者の棲みかとなるようでござる。
やがて月日が流れ、拙者は虜囚としての生活にも慣れてしまった。
悔しい事に、少年の言った通りに、生活には、すぐに慣れてしまったのである。
拙者が少年の事を、心の底では認めていたという事もあるだろうが、少年が甲斐甲斐しく世話をしてくれた事もその一因でござろう。
……決して食べ物に釣られた訳ではござらぬ。
武士は食わねど高楊枝。
拙者の誇りと食事は無関係でござる。
だから、時々少年がこっそり持ってくる、赤色をした植物の根は無関係なのでござる。
何と言っただろうか……にん……えっと、にん…………えぇい、思い出せないでござる。
まあ良い、とにかくそれは無関係なのでござる。
あれ以来少年は、時折、拙者の身体に跨がるようになった。
今も拙者の身体に合わせて、上下運動を繰り返している。
だが、拙者はそれが嫌ではない、むしろ快感であると感じてしまっている。
やはり、優れた雄に従うのは、雌としての本能なのでござろうか。
拙者は、もう魔物の姫ではござらぬ。
この少年を
ああ、今日も空が高い………………
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