村人ハンナの華麗なる一日
私の名はハンナ、辺境に住むただの村人だ。
私の住むこの地ファーゼストでの生活は非常に厳しい。
農作業は辛い割に作物はろくに育たないし、おまけに魔の領域からはいつ魔物が襲ってくるか分からない。
この地に来てから十年近くとなるが、王都で暮らしていた時の事に思いを馳せる事もある。
だからと言って不幸かと言われれば、断じて違うと言いたい。
娘のアンナがいるからだ。
娘のアンナが生まれる前まで、私は王都のとある御屋敷に奉公していた。
と言っても大した役職に就いていたわけではなく、ただの下働きだ。
それでも真面目に勤め上げていたおかげか、ご当主様を始め、家の人にも顔を覚えて頂いていた。
その事は今でも私の誇りである。
そんな中、私はとある人と恋に落ちてしまった。
その相手とは、奉公先のご嫡男だ。
恋は盲目というもので、お互いの立場など一切目に入らず恋の炎は燃え上がった。
お互いに何度も愛を確かめ合い……そして気付いた時はすでに遅く、私のお腹の中には一つの命が宿っていた。
喜んだのも束の間、そのことは、すぐさまご当主様やその奥方様のお耳に届いた。
そして私は、僅かな手切れ金を手に、御屋敷を追い出されてしまったのだ。
……彼とはお別れの言葉も交わせなかった。
私の両親はすでに他界しており、頼るべき伴侶はいない。
お腹に子供がいるのに住む所もなく、途方に暮れていた私を救ってくれたのは、違う御屋敷で働いていた
私はその伝手を頼り、伯父と伯母の住むこの辺境の地ファーゼストへとやってきたのだった。
辺境での生活は、都会の生活とは勝手が違い、なかなか慣れることができず厳しいことばかり。
出産・育児・そして日々の生活と忙しい毎日を送っていく内に、気がつけばもう十年程が過ぎようとしている。
娘のアンナも、もう八歳。
すくすくと元気に育って来ており、辺境の子供らしい逞しさを、すっかり身に着けていた。
さて、ここファーゼスト領だが、実は王国一の辺境と言われている。
他の辺境よりも魔の領域の濃さは比較にならず、必然的に魔物も強力な個体ばかり。
取れる資源はほとんどなく、土も痩せており碌な作物も取れない非常に厳しい土地である。
だがしかし、厳しい土地ではあるが、決して貧しい土地ではない。
最低限食べていけるだけの収穫はあるし、餓死者なんて聞いたことがない。
行商人だって結構な頻度でやってくるし、現金もそこそこあるのであまり不便を感じることはない。
魔物の襲来だって滅多にあるわけではないらしい。
(少なくとも、私が移り住んでからは一度も聞いた事がない。)
それもこれも、この地を治めるルドルフ様の手腕のおかげだ。
そもそもファーゼスト領は、魔の領域の色濃い難治の領地。
他の者では統治不可能と言われるほどの土地だ。
代々それを治めるファーゼスト家の当主達は皆、天才・鬼才ばかりで、中でも今代の当主ルドルフ様は、先代当主に「ファーゼスト家の歴代を見てもこれほどの才はない、まさに麒麟児」と言わせしめ、若くしてその跡を継いだ。
そんなルドルフ様が莫大な稼ぎを上げるから、私達が暮らせていると言っても過言ではないのだ。
実は、辺境に住む人々の間では、そんなルドルフ様に仕える事が憧れの的だったりする。
ファーゼスト家は、昔から才能のある子供を屋敷で教育するという事業を行っており、教育された子供は世に出て経験を積み、領地に戻ってきては今度は次世代を教育するというサイクルで、優秀な人材を育成しているのだ。
そして、ファーゼスト家に見出された人々は、例外なく大成している。
国政の中枢を担っていたり、大貴族の家中を取り仕切っていたり、正妻ではないものの王族の伴侶となったりする等、枚挙に暇がない。
ファーゼスト家に見込まれれば、人生は成功したも同然。
ファーゼストの地で生きる者にとって、それはまさしく夢なのである。
「そこの女!ハンナと言ったか。お前の娘を私の家で預かることにした」
だから私は、その時、一体何を言われているのか理解できなかった。
バシン!
頬を張られた衝撃で地面に崩れ落ちるが、まるで現実感がない。
「返事はどうした!?」
顔を上げるとそこには、ご領主様の顔があった。
「ル、ルドルフ様!?…………え?……あの、私の娘が…………一体どういう事でしょうか?」
思考がはっきりしない。
これは夢であろうか?……いや違う、頬の痛みがこれが現実だと訴えかけてくる。
「もう一度だけ言うぞ。よく聞け、貴様の娘を我がファーゼスト家で召抱える、光栄に思え」
ルドルフ様は、そうはっきりと断言なされた。
「ル、ルドルフ様……それはつまり…………」
言葉の意味が徐々に現実の物となってくるにつれ、胸の奥から熱い物が込み上げてくる。
娘を育てるのはそれは大変だった。
嫌になることもあった。
王都の生活を思い出し、涙する夜もあった。
アンナだって、父親が居ないのは寂しかったに違いない。
しかし、娘の……アンナの将来はルドルフ様によって祝福された。
アンナの未来は、ルドルフ様によって約束されたのだ。
親としてこんなに嬉しい事はない。
「返事は!?」
「……はい…………娘を、アンナを宜しくお願い致します」
込み上げてくる感情で言葉にならず、必死になって声を絞り出す。
頭を下げた拍子に、溢れ出た滴が地面を濡らすが、一度流れてしまうと次から次へと零れ落ちていく。
「フンッ、では明日から来させろ。……村長、視察は以上だ!」
そう言って去っていくルドルフ様に、私はいつまでも頭を下げ続けるのだった。
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