★イスファン・ライオッドの恋心
ひと雫の涙を流した少女を、狂おしいほどに抱きしめたいと思った。
こんな感情を誰かに抱いたのは、はじめてのことだった――。
シュビラウツ夫妻の葬儀が終わり、俺は彼女に会いにいった。
元は、葬儀に参列したらすぐに国に戻るつもりだった。しかし、彼女――リエリア・シュビラウツを目の当たりにして、ひと言でもいいから彼女と言葉を交わしたいと思った。
彼女は葬儀が終わるとすぐに立ち去ってしまい、俺は後を追うようにしてシュビラウツ家を訪ねた。
しかし、出迎えてくれたマルニードは、彼女とは会えないと首を横に振る。
マルニードとは面識があった。貿易関係の仕事で幾度かまみえたこともあるし、非情に有能な彼は貿易業務にも関わっており、一定の信頼関係は築けていた。
だから、マルニードは強引に俺を帰すことなどせず、リエリアと会えない理由まで教えてくれたのだろう。
どうやら、彼女は葬儀から帰るなり、部屋に籠もってしまったということだった。その際、彼女が自ら出て来るまで、部屋には誰も入れないようにと言いつけられているという。
『ショックが大きいんだろうな。葬儀では気丈に見えたが、やはりまだ十七の少女だ』
『とても仲の良いご家族でしたから。当主様と奥様をいっぺんに亡くされたものですから……』
それ以上はなんと言っていいのか、言葉が見つからなかった。
マルニードとの間に沈黙が落ちる。
『今日のところは帰るよ。また明日来る』
そう言って、いったん宿に戻った。
戻って俺が一番最初にやったことは、明日までだった宿の予約を十日に延ばしたことだ。それほどに、俺は彼女のことを知りたいと思ったのだ。
『明日、彼女に会えたら何から話そうか……いや、きっと悲しみで憔悴しているだろうから、自分のことを話すよりも彼女の想いを聞いたほうがいいな。少しでも彼女野中の悲しみが消化されると良いんだが』
彼女には今寄り添う者が必要だろう。
幸い自分には、彼女がシュビラウツ家ごと寄りかかってくれても、守れるだけの力がある。
『確か、彼女にはまだ婚約者がいなかったはず。伯爵からはそんな話聞いたことなかったし。葬儀にもそれらしき影はなかったな……って、だからどうしたって話だよな』
ただ、胸の内が微かに安堵を覚えているのは確かだった。
◆
翌日、再びシュビラウツ家を訪ねた。しかし、彼女はまだ部屋に籠もったきりだった。その翌日も訪ねたが同じで、俺は不安を抱えながら宿に帰るしかなかった。
そして三日目、その日も訪ねたら、まだ籠もっていると伝えられた。
『さすがに心配だ。悪いが、今日は屋敷で待たせてもらうぞ』
『恐れ入ります』
そうして応接室でマルニードと、懐かしい話しに花を咲かせていた時だった。
『失礼』と言って、突然マルニードが席を外した。彼はシュビラウツ家の家令なのだし、自分だけに時間を割くわけにはいかないのだろうと、俺も手を上げてどうぞと見送る。
ひとりになってしまったし、どうやって時間を潰そうか、本でも借りようかと考えていたら、先ほど出て行ったばかりのマルニードが戻ってきた。それだけでも驚きだったのだが、彼が連れてきた者を見てさらに俺は驚くこととなった。
会えるまで待つつもりだった。
出てきてほしいと願っていた。
しかし、いざ目の当たりにすると、言葉が出てこないのだ。
実に三日も部屋に籠もりきりだったというのに、彼女の顔に悲壮さはなかった。てっきり悲しみに暮れ憔悴しているのかと思っていたが、まったくの予想を裏切る登場だった。
背に流れる黒い髪は上質なベルベットのように輝き、ヴァイレット色の瞳が実に蠱惑的だった。先日は横顔しか見ることができなかったが、こうして正面から向かい合ってみると……彼女の双眸が自分をまっすぐに捉えているのを自覚した途端、頭の中が真っ白になった。
彼女の表情からするに、俺に向けられた感情は良いものではなかったはずなのに、それでも彼女の瞳に、ようやく映ることができたのが嬉しくて……。
しかし、すぐに立場を思い出し挨拶をする。
相手は女神でもなければ女王陛下でもないというのに、挨拶するだけでこれほどに緊張したことはなかった。
彼女が向けてくる目には警戒が宿っていた。
それがまた胸を高鳴らせる。彼女は若くして両親を亡くした憐れな少女などではなく、すでに新当主としての勤めを果たしている。気丈なものだ。
自己紹介をかねて過去に会っている旨も伝えると、明らかに彼女のまとう空気が緩み、下から地の彼女が顔を出した。
安堵が自分に向けられている――彼女に一歩近づけたようで、その事実がどうしようもなく嬉しかった。
毎日訪ねてきていたことに驚きく表情も、マルニードを叱責する声音も、彼には非がないと分かった途端、素直に謝罪する姿も、そのどれもが俺の心に充足感をもたらしてくれる。
――ああ……好きだな……。
さも、当前のことのように、そう思った。
想像以上に、彼女に抱いた好意が心地好い。
部屋から出てきたばかりだし、長居するわけにはいかないと、俺は暇を告げた。
しかし、すぐに彼女に引き留められる。
夕食をと誘われたが宿のことがあり、心の底から残念だったが泣く泣く断ったら、なんと彼女はマルニードに実に的確な指示を出し、あっという間に俺の宿をシュビラウツ家へと変えてしまった。
彼女とほんの僅か時を共にしただけで、彼女の印象はコロコロと変わった。
最初に葬儀の時、彼女に抱いた印象は、静淑な凜然さだった。
次に彼女が部屋に籠もっていると聞いて抱いたのは、支えてやらなければと思わせる儚さだった。
そして、彼女と相対して、新当主としての矜持の高さと気丈さを知り――。
『~っそ、それは光栄ですわ、殿下』
と、指先への口づけごときで、顔を真っ赤にして背ける彼女に、くすぐられる愛らしさを覚えた。
もっと彼女の表情を崩したくて、俺に戸惑わされている姿が見たくて、意地悪がしたくなる。
殿下などという他人行儀な呼び方ではなく、名前で呼んでほしいと伝えれば、彼女は目を丸くして息をのんだ。
その、駆け引きも何もない率直な反応がまた可愛くて……。
――はじめて会ったような男が、君のことを抱き潰したいほどに愛しいと思っているなんて、微塵も気付いてないんだろうな。
七つも下の子に何をやってるんだと、冷静になる自分もどこかにはいたが、彼女が控えめに『イスファン様』と呼ぶ声を聞けば、そんな大人ぶった冷静さなど一瞬にしてどこか遠くへ飛んでいってしまった。
きっと、この先シュビラウツの当主となった彼女の元には、多くの蟻がこぞって寄ってくるだろう。
――悪いが、彼女を誰かに渡すつもりはないな。
隣で彼女の腰を抱くのは、自分以外あってはならない。
彼女を支えるのは自分だ。
そう思っていたのに……。
「――え? 別に、悲しみに暮れて部屋に籠もっていたわけではありませんよ?」
「は?」
楽しい夕食の時間を過ごし、他愛のない雑談に花を咲かせ、互いに距離を感じなくなった時。
彼女に頼ってほしくて、酒が入っていたこともあり、俺は彼女に「三日も籠もるほどの悲しみはすぐには癒えないでしょう。どうか私に支えさせてください。あなたになら私はこの身を捧げても良い」と、好意がダダ漏れの本音を伝えたのだが……。
その時返ってきた返事が、先ほどの、実にあっけらかんとしたものだ。
「確かに悲しかったですが、泣いてばかりでは先に進みませんもの。私にはやるべきことがありますから」
「あ、ああ……新当主として、やらねばならないことは多いですからね。しかし、貿易のことでしたら、私もお手伝いできると思うのですが」
もう次を見据えて行動していたとは、恐れ入った。
「まあ、ありがとうございます。ではそちらのことは、ご助力をお願いすることもあるかもしれませんね。その時はよろしくお願いしますわ」
しかし、彼女は実に持って回った言い方をする。
「そちらのこと? 他にも何か……新たな事業でも始められるとか……?」
「いえいえ、そんな大それたことではなくて……」
遠慮に苦笑を浮かべながら彼女が発した次の言葉に、俺は言葉を失った。
おそらく、こういうのを絶句というのだろう。
「ちょっと復讐をしようと思っているんです」
充分に彼女の様々な表情を見たと思っていたが、まだまだ俺は甘かったようだ。
リエリア・シュビラウツ――予想の枠に収まってくれない彼女は、つくづく刺激的なレディだった。
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