第6話 ロードデール王国の商人イース①
男がシュビラウツ家の屋敷から、精気の抜けたトボトボとした足取りで出てきた青年に声を掛ければ、ビクッと肩を揺らして振り向かれた。
「悪い悪い。君があまりにも亡霊みたいな顔して、普通のことを呟いてたもんだから。少し興味が出てしまってね」
「……普通のことって……ていうか、あなた誰ですか」
青年が男を上から下まで、じっくりと品定めするように眺める。
男はニッと並びの良い歯を見せて笑うと、腰を折った。
着ているものは商人のそれだが、指の運びや腰の折り方などひとつひとつの動作は気品が漂っていた。首後ろで結われた銀色の細い長髪が、腰を曲げた際に肩にかかる。毛先までつやつやで、金持ちだろうことが窺える。
「これは失礼した。俺はロードデールの商人でイースっていう者だ。シュビラウツ家には取引のことで訪ねたんだが……」
「……僕は記者のハイネです――って、ロードデールの商人!?」
たちまちハイネの顔が精気を取り戻し、水を得た魚のように生き生きしだす。
「あのっ! ロードデールでのシュビラウツ家の評判ってどうなんですか! やっぱり自国を裏切っていったんだから、相当に嫌われてるんじゃ――」
「おいおい、いきなり元気だな」
ペンとメモを取り出し、飛びかかるようにして近付くハイネを、イースは手で落ち着けと制する。
「あ、すみません。つい……」
イースは苦笑しつつ、いいよと流す。
「そうだな。シュビラウツ家なあ……確かにファルザスに行った当初はそれなりに叩かれてたみたいだな。裏切りだとか、ファルザスと一緒にロードデールを手に入れるためだとか」
「やっぱり!」
ハイネのペンがすらすらと走る。
「だが、それもすぐに国王がなだめたんだったか。そこで事情を話して、全ての国民の知るところになったみたいだ。だから、今こうして俺たちはシュビラウツ家と取引してるんだからな」
分かりやすいほどに、ハイネのペンが鈍くなった。
どうやらこの取材熱心な青年は、内心がペン先に宿るらしい。何を期待していたのかばればれで、この先記者としてやっていけるのか他人ながら心配になってしまう。
「にしても、五代条項を知らなかったのか? 君だけか?」
「五代条項?」
「停戦協定における条件は全て、五代先までのものっていう……」
「え、どうだろう? 上の方々は分かりませんが、多分平民は間違いなく知りませんよ。それどころか、僕たちが知っていたシュビラウツ家の話も少し……違ったみたいですし。あ、ていうか当主が亡くなっても、取引って続けられるものなんですか!?」
必死に話題を変えようとしているのが実に微笑ましく、イースは下瞼を持ち上げた。
「シュビラウツ家とロードデール側の取引は長いからな。当主不在くらいで滞るような取引の仕方はしていないよ」
「それもそうですね……」
とうとうハイネは、メモの間にペンを挟んで閉じてしまった。
「ありがとうございました。すみません、足止めしてしまって」
「いやいや、気にしないでくれ」
「それじゃあ」
「ああ」
ペコッと腰を折りながら去って行くハイネに、イースは片手を上げて応じた。
「……どうか真実にたどり着くことを祈るよ」
◆
「こんにちは。さっき、そこで面白い記者に会ったよ、マルニード」
「いらっしゃいませ、イース様。それはおそらくルーマーというゴシップ誌の記者様でしょう。先ほどまで当家についての話を聞かれて行かれました」
やってきたイースを、マルニードは応接室ではなく、先代当主の執務室であった部屋へと連れて行く。イースも慣れたように、当たりをキョロキョロとすることもなく実に堂々と後ろをついて歩く。
「ゴシップか、なるほど。だからあんな亡霊みたいな気落ちの仕方をしてたのか。ゴシップは他人の不幸が最高の飯の種だからな。書かれる対象は悪ければ悪いほど良くて、しかもそこの悪徳貴族が首を吊ったともなれば、最高のエンターテイメントだ。自国の王子の失態なんか霞むくらいの」
「むしろ、『それなら仕方ない』と自国の王子を擁護する理由になるのですから、皆様喜んでゴシップ誌を買うでしょうし、吹聴するでしょうな」
そうして二人は、黒い金庫が置いてあるだけの白い部屋へと躊躇なく踏み込んだ。しかし、そこで歩みを止めずにさらに進み、右奥の壁をマルニードの手が強く押すと、壁だった一部がガコンと音を立てて開く。
マルニードは当然だが、イースも同じく、まっさらな壁が開いたというのに驚く様子はない。奥に広がっていたのは、それこそ『執務室』と言うに相応しく、本棚に入りきらなかったものが床の上にも浸食した、紙類にあふれた部屋だった。
山積みにされた本に埋もれるようにして置かれたソファに、イースが腰掛け「ふう」と息を吐く。
マルニードは向かいに立ったままだ。
「――まあ、記事が書ければだけどな」
イースとマルニードは視線を合わせると、互いに片眉だけを上げて同意とした。
「そういえば、どうだ? あの遺言状に反応を示した者はどれくらいいる」
「当初は平民など国民の大多数が反応しましたが、それも今では落ち着き、実際に動かれているのはナディウス殿下と、従兄のハルバート様です。わたくしが確認できた限りは、ですが。もしかすると、水面下で動いている貴族の方がおられるかも知れませんが、印章でおそらく全員足踏みされているのでしょう」
そのサインと共に印章を用いるのは、ロードデールにはないファルザス特有の文化らしい。
ロードデールにも家紋や印章はあるが、それは封蝋に押印したりするもので、書類はもっぱらサインのみだ。
「サインだけ真似れば、ということがなくなるし、もしかすると印章文化は良いのかも知れないな。検討してみるか……」
「お仕事熱心なようで安心しました」
ふっ、とイースが片口を上げた。
「だがまあ、今回のように印章の在処が分からないと一苦労だな。それに盗まれたら、それこと大事になりかねない」
「善し悪しですな」
お互いに肩をすくめると、イースはソファの背もたれにのっしりと身体を預ける。
天井をあおぎ、比較的新しい染みひとつないそこに、ひとりの女性を思い浮かべた。
「……彼女は初めて会った頃から賢かったな」
「先代当主様がまだご存命の時は、智将と言われたカウフ様の血を、色濃く受け継いでいるのはリエリア様かもしれないと、よく仰っておいででした」
「俺が初めて会った時……俺が十七だったかな。彼女は先代様の背中に隠れた少女でしかなかったのに……」
「イース様は今おいくつに?」
「二十七だ……そうか、十年も前になるのか」
「リエリア様が十歳ですか。確かに、その頃はまだあまり人慣れされておりませんでしたね。そのため少しでも人に慣れるようにと、先代当主様が商取引の際は一緒に連れて行かれておりました」
マルニードは詳しく『人慣れしていない理由』については話さなかったが、イースも特にそこを聞こうとは思わなかった。
大体、予想はできる。
そこら中で囁かれている噂を耳にすれば、シュビラウツ家に向けられる目がどのようなものか想像に難くない。
商人であるイースもやはり、どのような情報でも常に神経を尖らせ収集している。
「それで、二度目に会ったのは先代様の葬儀の時だったが……。驚いたよ、あまりの代わりぶりに」
天井に描きだされた十七歳の彼女は、隠れる背中を失ったというのに、堂々とひとりで立っていた。涙も流さず、少し色あせた唇を引き結んで、棺が土に覆われるのをじっと見つめていた。
涙は流していなかったが、きっと泣いてはいたのだろう。
こすりすぎたのか、ヴァイオレットの瞳だけでなく、目の周りまで赤くなっていた。
日焼けしていない白い肌と、真っ黒なドレスと真っ黒な髪。黙祷によって彼女の瞳が隠されれば、白と黒だけになった彼女は誰よりもその場に相応しかったと思う。
死が彼女を取り巻いていた。
最後に彼女の頬に流れた雫の軌跡は、震えそうになるくらいに美しかった。
そして次にヴァイオレットが自分に向けられた時、きっとその時全てを彼女に持って行かれたのだと思う。
「……俺は彼女の意思を尊重するだけだ」
天井に描いた彼女の姿に向かって手を伸ばす。しかし、それはふっと霞となって消える。
彼女はいない。
「だから勝手に決めた。俺もこの遺言状に参戦しよう」
マルニードが静かに目を見開いた。
「やっぱり、彼女の全てを手にするのは俺でいたい」
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