第3話 王子ナディウス①
「マルニード、久しいな」
「ご無沙汰をしております、ナディウス殿下」
シュビラウツ伯爵家を訪ねれば、迎えてくれたのは家令のマルニードだった。
応接室に通される中、幾人かの使用人の姿が見えた。
「……まだ、使用人達も屋敷を使っているのか」
主人もいないのに、勝手な。
そんな、蔑む感情が声音ににじんでいたのか、マルニードはまるで心の中を読んだように言った。
「遺言状はもうひとつ、わたくし共使用人にあてたものもありまして……わたくしどもの処遇は配偶者の方に任せるという。ですので、その〝配偶者〟が決まるまではここでお屋敷を守っているのですよ」
管財人ですから、とマルニードは柔和に笑ったのだが、目が笑っていないのが丸わかりだ。隠す気すらなさそうだ。
まあ、それもそうだろう。
自分は、彼らの主を裏切った人間なのだから。
好意的な出迎えを期待できるはずがない。
それでも笑顔で対応してくれているというのは、一応自国の王子だからだろうか。
応接室のソファに身体を預けると、マルニードは分かったように対面のソファの脇に立つ。
主がいなくとも使用人の分はわきまえているようだ。存外、シュビラウツは使用人への教育は上手かったらしい。
「マルニード……」
「はい、殿下」
「その……今更もう遅いとは分かっているが、結婚式の件は悪かった」
「…………」
「あっ、あの時は結婚することが怖くなったというか……その、昔の女が会いに来てくれて気持ちが昂ぶったというか……リエリアには申し訳ないことをしたと思っている。しかし、こうして彼女を失って気付いたんだ……っ! 僕が一番愛していたのはリエリアだと!」
「左様でございますか。しかし、わたくしに言われましても……」
「――っそ、それも……そう、だな」
なぜ自分がこんな思いをしなくてはならないのか、とナディウスは伏せた顔の下で唇を噛んだ。
裏切り貴族の分際で、この国の王子である自分の婚約者になれただけでも幸福で、むしろ泣いて感謝すべきだというのに。それどころか、本来自分には以前よりの婚約者がいた。それを国王が、三年前突然リエリアを婚約者にすると言い出したのだ。
一体どんな手を使ったのか。
もしかすると、当主になったとたん、その有り余るほどの財力で父を買収したのかもしれない。あり得る話だ。
「それで本日はどのようなご用件でしょうか、殿下?」
ナディウスは一瞬、言いにくそうに口をまごつかせた。
「あ、あれを……借りに来た」
「あれ、と申しますと?」
「――っあれだよ、印章だ! シュビラウツ家の家紋が入った印章! お前が持ってるんだろう!?」
王家と貴族家は、それぞれに家紋が入った印章を持つ。
印章は、貴族として迎え入れられた際に貴族院から与えられるものであり、一家にひとつしか授与されない貴重なものだ。代々の当主が受け継ぎ、印章の保持は当主である証となり、押印は一家の総意とみなされる。
ゆえに、当主は決して印章の在処を他者に漏洩しない。
印章の形状も各家で異なっており、指輪型の家もあれば、印判型のものもあるという。これによりさらに、他者から印章の存在を分かりにくくしている。
それほどに印章の力は、大きく責任あるものなのだ。
「シュビラウツ家の血は途絶えた。しかし、貴族院から印章が返還されたとは聞かなかった。ならばマルニード、管財人であるお前が預かっているはずだ」
彼女の両親のような不慮の事故ならば、行方知らずということもあるだろうが、あいにくリエリアは自死だ。
「皇統紀211年9月10日――それが遺言状が書かれた日だった。つまり、彼女が当主になったばかりの時に書かれたものだ。当主になって真っ先に遺言状を書くような者が、自死に際して印章を放置するはずがない」
「申し訳ありませんが、わたくしめは主よりお預かりしておりません」
そんなはずがない。
「じゃあ、印章を探して持ってくるんだ!」
「できません。わたくしめは使用人。主不在の中での勝手は許されておりません。わたくしに許されたのは、この屋敷の最低限の維持のみ」
「マルニード……ッ!」
膝の上でいつの間にか握っていた拳がギッと軋んだ音をたてた。
この食えない老人は嘘を吐いている。
「僕以外の男が、彼女の伴侶として記されてもいいのか! 結婚式で待っていてくれた彼女を、今度こそ僕が迎えに行きたいんだ!」
自分でも、よくこんな台詞がすらすらと言えるなと笑いそうになる。
「彼女を終生弔うと誓うよ、マルニード。どこの馬の骨ともしれない貴族に墓参りをされるより、この三年間、婚約者だった僕が弔った方が、彼女も喜ぶと思うが……」
「では、是非そうなさってくださいませ。わたくしに言えるのはそれだけです」
「だから――っ! そうするためにも、印章がいると言ってるだろう! 貴族や王族同士の婚姻書には、サインの他に印章の押印が必要だと、お前も充分知っているはずだ!」
どうして王子である自分が、たかがいち貴族の使用人風情に、ここまで頼み込まなければならないのか。いい加減にしろ。
マルニードの沼に杭の態度に、とうとうナディウスの堪忍袋の緒も切れた。
膝の上に固定されていた拳が、とうとう応接テーブルに叩きつけられた。分厚い木製天板のテーブルは、低く重鈍な音を立てて僅かに揺れた。
しかし、マルニードの表情は些かも揺れない。
彼は、密かな溜息を俯きながら吐いた際に落ちた前髪を、後頭部に撫でつけ言った。
「ひとつ、わたくしに言えることがあるとするのなら……」
相変わらずマルニードの顔には薄い笑みが張り付いている。
「お嬢様……いえ、ご当主様は、いつも印章を身につけられておりました」
「いつも……?」
「ええ。最期の最期まで、でございます」
「さい、ご…………って、まさか――!?」
マルニードの目が初めて笑った。
印章も、土の下だ。
◆
その男は、ちょうどマルニードとナディウスのいた応接室の窓の下にいた。
声が大きく筒抜けになった会話に、男――テオは眉を上げた。
「やーっぱりねぇ。そんなことだろうと思ったよ」
あれだけ教会に男達が殺到していたというのに、司祭達は出された婚姻書を一瞥して突き返して、を繰り返してあっという間に男達を散らしてしまった。
皆なぜ突き返されたのか、釈然としない顔をしていた。
見ていた自分ですら首をひねったものだ。
婚姻書が使えないなら、結婚できないのだから手立てがない。
だから、シュビラウツ家の全てに一番近い者――ナディウスの後を付けて一攫千金のチャンスを窺っていたのだが、思わぬ収穫を得た。
「どうりで貴族達がまったく動かないはずだ」
貴族達は印章が必要だと分かっていたから動かなかったのだろう。いや、動けなかったというほうが正しいか。
「にしても、ここにまた忍び込むことになるなんてねえ。なんの因果かね」
テオは、赤茶色の外壁や、屋敷を囲むように植えられた木々を眺め、肩をすくめた。
そして、頭上の窓に向かって口の動きだけで「どーも」と言うと、音もなくシュビラウツ家から姿を消した。
――――――――――
明日からはまたいつもの時間に1話ずつ上げていきます
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