特別な今日

佐倉有栖

特別な今日

 奈央が空を見上げたのは、偶然だった。

 いつもは起きるのが遅く、大慌てで支度をして朝食用のロールパンを一つ掴んで食べながら登校しているため、上を見る余裕などないのだ。

 それが今日はどういうわけか、目覚ましが鳴るよりも早くに目が覚めた。

 昨日もバッチリ夜更かしをしたのに、これほどスッキリ起きられるとは思いもよらなかった。

 時間をかけて朝ご飯を楽しみ、身支度もしっかりと整えると、余裕を持って家を出た。

 いつもは駆け抜ける通学路を興味深く眺める。

 ショーウィンドウに並ぶ焼き立てのパンに、どこからか漂ってくる煮物の匂い。早朝から開いている八百屋の威勢の良い呼び込みの声に、花屋の店頭に並んだ色とりどりの鉢植え。店員がジョウロで水をまき、小さな虹がかかる。

 普段は見ることのできない町の様子をあれこれと見ていた時、ふと顔を上げた。

 空から何か降って来たとか、何かの気配を感じたとか、そう言うわけではなかった。ただ何となく、奈央は顔を上げた。

 真っ青に澄んだ空には和紙のように薄い雲がいくつも浮かんでいた。雲から透ける空を見ていると、そのうちの一つにオレンジ色が混じっているのに気付いた。

 太陽のどこか黄色がかった色とは違う、ミカンのように鮮やかな色だった。

 何だろうと目を凝らすと、それは雲を突き抜けて真っすぐに奈央のほうへ向かってきているのが分かった。

 野球のボールくらいの大きさの玉は、避ける間もなく奈央にぶつかった。

 痛みはなかった。ただ、何かが体を通過した感覚と浮遊感があっただけだった。

 咄嗟に瞑っていた目を開ける。

 視界の先には見慣れた通学路はなく、澄んだ水色の世界が広がっていた。

 クルクルと周囲を見渡せば、何人かの人と目があった。近くにいたスーツ姿の男性が、困ったように足元を見下ろしては首を傾げている。


「そこの君、これはどういうことだかわかるかい?」


 急に話しかけられて、奈央はモジモジしながら首を振った。人見知りなので、知らない人から声をかけられると緊張してしまうのだ。


「水色の光る物体に当たったと思ったら、いつの間にかこんなところにいて」

「わ、わた、私はオレンジでした。ミカンみたいなので……」


 一生懸命そう説明するが、色はどうでも良いとばかりに男性が肩をすくめる。


「ここはどこなんだろうか? どうも、空のような気がするんだが……」


 足元を見れば、薄い雲がいくつも漂っている。さらに目を凝らせば、その下には町のようなものも見て取れる。

 飛行機が飛ぶくらいの高さだろうか。飛行機なんて、九州のおばあちゃん家に行くときに数度乗ったことのある程度だが、窓から見える世界はこんな感じだった気がする。

 訳も分からないまま空中に静止して数分、突然頭の中でガタゴトと何かが倒れる音が聞こえ、マイクがハウリングするような甲高い音が響いた。

 隣の男性にも聞こえているのか、眉根を寄せて耳を押さえている。


『えぇっと、失礼。初めてこのマイクを使うので少々手間取ってしまって……。気を取り直しまして、初めまして人間の皆さん。私たちは、あなたたちが天使と呼んでいる者です』


 鈴の音のように澄んだ声は、天使と言われれば納得してしまうほどに美しかったが、話の入り方は妙に人間じみていた。


『実は天界で少々問題がありまして、数百万の天使が人間界に落下してしまったんです。そのまま地面に落下すると消えてしまうため、近場にいた人の体に入り込んだんですが、元の人が逆に押し出される形になってしまいまして……』


 男性と目を合わせる。おそらく、その押し出された結果が空中に静止している状態なのだろう。


『今は空中に浮いている状態なのですが、もう少ししたら落下を始めます。それで、その……誰かが受け止めてくれると、その人の中に入ることができるのですが、誰も受け止めてくれないと……なんと言うか……地面に叩きつけられて死にます。跡形もなく消滅します』


 奈央は喉の奥で小さな悲鳴を上げた。

 これから落下をして、その先に誰もいなかったとしたら、このまま死んでしまうのだ。

 隣の男性もパニックになっており、住宅ローンや生命保険のことをブツブツと呟いている。


『魂は人に引き寄せられるため、必ず周囲に人がいる場所に落ちます。でも、その人が落ちてくる人を助けるかどうかは、私たちにはわかりません』


 人間がおなじ“人間”を助けるのかどうかは、天使には分からないのだと素っ気なく告げる。


『落ちた天使を引き上げるまでに、そちらの時間で約十五から十六時間ほどかかる見込みです。引き揚げ準備が完了次第、再度アナウンスをさせていただきます。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします』


 やけに事務的な挨拶を最後に、天使の声は聞こえなくなった。

 男性がこちらを見て何かを言おうとした瞬間、フワリと下方から風が起きた。はためくスカートを押さえて下を見る。薄い雲を突き抜け、徐々に近づいてくる地上に、自身が落下していることを知る。

 重力を感じることはない。ただ、強く吹く風がスカートや髪をはためかせ、胸元のリボンが顔に当たる。

 奈央はクルリと反転すると、頭を下に向けた。こうすれば、スカートやリボンが気にならない。

 隣にいたはずの男性の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。落下している最中にはぐれてしまったのだろう。

 近づいてくる緑の大地に、不安が強くなっていく。天使は、人が近くにいる場所に落ちると言っていた。奈央は都市部に落ちるとばかり思っていたのだが、眼下に広がるのは草原だった。

 確かによく目を凝らせば木の家が点在しているのが分かるが、家同士の間隔は広い。

 もしもこのまま地面に叩きつけられてしまったら。

 恐怖にギュっと胸のリボンを掴んだとき、草原を走る小さな影に気が付いた。

 それが人だと気付いたとき、大人たちと一緒になって走っていた小さな少年と目が合った。まだ十歳前後であろうその子は、臆することなく両手を広げると奈央を受け止めた。

 何かがぶつかった軽い衝撃に、バランスを崩して尻もちをつく。


「大丈夫?」


 すぐ目の前にいた少女が、奈央に手を伸ばす。

 聞きなれない言葉だったが、何を言っているのかは理解できた。


「だ、大丈夫……」

「天使の言っていることが正しいなら、いま弟の体に入ってるのは、空から落ちてきた女の子よね? どこの国の子? 名前は?」

「あの……私は日本人で、奈央って言います。ここは……?」

「ここはマレーシアよ。私の名前はアイシャ。あなたが入っている体は、アイダンって言う男の子」


 アイシャの言葉が言い終わるやいなや、再び周囲がざわめく。

 見上げれば、水色に輝く人影が空から落ちてきていた。


「悠長に話している暇はないわね。あの人を助けるわよ!」


 手を引っ張られ、奈央は走り出した。空から落ちてきているのは、若い男性だった。水色に輝いているためよくは見えないが、彫の深い顔立ちをしている。

 男性は真っ直ぐにアイシャにぶつかると、彼女の体が弾かれたように後ろに倒れた。


「だ、大丈夫……ですか?」


 先ほどアイシャにしてもらったように、彼女に手を伸ばす。


「大丈夫だ。すまないが、ここがどこか教えてくれないか?」

「こ、ここはマレーシアで……あなたはアイシャって言う女の子です。私はアイダンって男の子で、アイシャの弟で、でも本当は日本人で、奈央って名前なんです」


 状況をうまく説明しようとするが、話しているうちに自分でも混乱してしまう。そもそも、人と話すことが苦手なのだ。


「あー、理解した。私はミロシュ。セルビア人だ」

「セルビア……」


 そこはどこにあるのだろうかと考えこむ暇もなく、再び空に光がともる。淡い桃色に発光する長い髪の女性を、今度は奈央が受け止めた。

 再び空に打ち上げられた奈央は、暗い夜の空を見下ろしながら、先ほどの男性が言っていた国のことを考えていた。


 次に奈央が落ちたのは、アメリカだった。誰かがフィラデルフィアだと言っていた気がするが、すぐに次の人を受け止めたため、よく覚えていない。

 何度か人を受け止めるうちに、奈央は日本に帰って来ていた。


「みなさん、この数時間を乗り越えれば、もう人は落ちてこなくなるはずです。誰一人として落とさないよう、頑張りましょう!」


 街頭ビジョンに映る総理大臣は、画面に向かってそう力強く演説をすると、マイクを放り出して走っていった。カメラが追う先で、金色に発光する少年を受け止めると尻もちをついた。

 暫くは困惑したようにカメラを見ていた総理だったが、すぐに立ち上がると走り出した。その視線の先には、緑色に輝く年配の男性の姿があった。




 空から落ちてくる人は老若男女様々で、どこの国のどんな人なのかは分からない。

 しかし、落ちてくる人は等しく全員、誰かを救っているのだ。

 自分がどの国にいて、誰になっているのかもわからない。ただひたすら、空を見上げて落ちてくる人に向かって走り続けた。

 諸所の理由から落下する人を受け止めることができない人々は、それでも何かをしたいと考えて独自に動き始めた。

 ある人は家の前で無料の食事処を作り、ある人はひたすら水を配った。この事件を後世に残すためにカメラを回す人も、誰一人落ちませんようにと祈り続けた人もいた。

 見知らぬ街で、見知らぬ人からお菓子を手渡された。次に飛んだ先は寒い場所で、震えていると温かなスープを手渡された。

 食べたことのない料理を食べ、見たことのない町を走る。自分が奈央だと言うことすら忘れかけてきた頃、ドンと何かに押されるような衝撃の後で視界がグルリと一回転した。

 訳も分からず尻もちをついた先は、懐かしい国の見知らぬ場所で、近くにいる人々も困惑したように周りを見渡している。


『あーあー、お待たせしました人間の皆さん』


 キーンと言う甲高いハウリングの音とともに、美しい天使の声が聞こえてきた。


『先ほど無事に天使の引き上げが終わりました。大変ご迷惑をおかけしましたことを心よりお詫び申し上げます』


 やはり天使の言い方は事務的だった。誰かが鼻で笑うが、続く言葉に緊張が走った。


『ちなみに、今回のことで残念ながら亡くなられた人は……』


 焦らすように切られ、思わずゴクリと喉が鳴る。無意識に胸の前で手を合わせてしまうが、周りの人も祈るように手を重ねていた。


『いませんでした! 人間の皆さんの素晴らしさに、天使一同感動いたしました』


 やはり天使の言葉は無機質で、パチパチとやる気のない拍手の音まで聞こえてきたが、わぁっと上がった歓声にかき消されてしまった。

 奈央も隣にいた見知らぬ女性と手を取り合って喜び「やりましたね!」と健闘をたたえ合った。

 お祭り騒ぎのように湧き上がる歓声は止む気配はなく、熱狂的な興奮に包まれていった。奈央もしばらくはその輪に加わっていたが、やがて重たい体を引きずるようにして人ごみから離れた。

 ここがどこなのか知りたくてスマホを取り出そうとするが、肩にかけていたはずのバッグはどこにもない。


「落とし物は警察署で管理していますので、持ち物が無くなっている場合は自分が最初にいた場所の近くの交番まで行ってください」


 制服の警官がメガホンを片手にそんなアナウンスをしている。


「コンビニやスーパーでは飲食物の無料配布をしています。ビジネスホテルも無料で部屋を貸し出していますので、帰宅が困難な方はぜひご活用ください」


 奈央は近くにあったコンビニに入り、ここがどこなのかを理解すると、おにぎりとお茶を貰ってビジネスホテルに泊まることにした。

 ここから自宅まではかなり遠く、今から帰ったのでは時間がかかってしまう。それに、この疲れ切った体では家まで持ちそうになかった。

 クタクタに疲れた体は、誰かが誰かを助けるために奔走した証だ。人影を追いかけて、いろんな人が走り回ったのだろう。

 自分が誰なのか、相手が誰なのか、分からなくてもを救うために人は走れる。

 奈央は自分が助けようと手を伸ばした人たちの顔を、自分を助けようと手を広げた人たちの顔を思い出しながら、ベッドに横になった。

 特別な今日が終わっても、明日は今日の続きだ。

 だからきっと、今日世界に満ちた善意は明日にも続いていく。


(明日も良い日になりますように)


 奈央は心の中でそっと呟くと、目を閉じた。

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