〈九〉罪過

「何かあれば声をかけてくださいと言ったでしょう!」


 人気ひとけのない森の静寂を、グレイルードの怒声が貫く。それでも大声とは言い難い声量なのは、俺達が身を隠しているからだ。



 § § §



『――アガァアアア!?』


 動物のような悲鳴が聞こえたと思ったら、大量の液体が降ってきた。温かく、赤い……血液だ。

 突然起こった出来事に俺も、俺を囲んでいた者達も驚きで言葉を失っていた。


『すぐに治療すれば助かりますよ。怪我人が一人のうちは』


 低い声。首を押さえる男の背後から現れたのはグレイルードだった。その落ち着いた声に周りの者達は正気を取り戻したのか、一斉にざわめき出した。


『そいつの仲間……ッ、ひ!?』


 銃声が誰かの言葉を止める。止まった声と同じ音の悲鳴にそちらを見れば、声の主と思しき男が耳から血を流していた。


『この町の医者は、一体何人までだったら助けられるんでしょうね』


 そう男に語りかけるグレイルードの手には、硝煙を上げる拳銃があった。


『我々を行かせてくれますか? それとも……――全員怪我人になってみます?』


 穏やかな口調だったのに、その場にいた者達が息を呑んだのが分かった。勿論、すぐには全員首を縦に振らない。だが誰かが何かを言うたびにグレイルードが怪我人を増やしていくものだから、最初から数えて六回目の銃声が聞こえた頃には、誰も何も言わなくなっていた。


『追いたければどうぞご自由に。ですが怪我で済ますのは町の中までです。軍に通報しても構いませんが、この方が誰だか分かった上でやったのなら……罰せられるのはどちらか、分かりますよね?』


 銃に弾を込めながらグレイルードが問う。一見すれば隙だらけなのに、誰も動かない。

 動けないのだ。動いてはいけないと、もう町の連中は頭に刻み込まれてしまった。そんな奴らにグレイルードの言葉の真偽を考える余裕などあるわけがない。

 こいつが今言ったことには嘘も含まれているのに、誰も疑問を発しなかった。グレイルードが俺を担いでもそれは同じ。顔を強張らせた連中は俺達が見えなくなるまで、そこから動くはなかった。



 § § §



「――聞いてらっしゃいますか、イリス殿下」


 グレイルードの鋭い声が、思考に沈む俺を引き戻す。痩せ細った身体に包帯を巻き付けながら、グレイルードは灰色の目で俺を睨みつけた。


「今のあなたは万全じゃないんです。普段なら問題のない些細な怪我でも命取りになりうる。まだ死ぬわけにはいかないのでしょう? あなたにまで死なれてしまったら、私は……っ」


 悲痛なその声に、身体が一気に熱くなった。


「お前がそれを言うのか!!」


 思い切り大声を張り上げれば、グレイルードは狼狽えたように顔を歪めた。殴られた腹が軋む。転んだ時に負った擦り傷が、しくしくと痛みを増す。


 だが、そんなことはまるで気にならなかった。


「姉上を死なせたお前が、何故俺に向かってそんなことが言える!?」


 違う、そうじゃない。こんなことが言いたいんじゃないんだ――そう思うのに、動き出した口は止まらない。


「どうしてその身体で動けるのに姉上の時は何もしなかった!? どうしてお前がいたのに姉上は病に罹った!? どうして……!! どうして俺はお前に、姉上を任せてしまったんだ……!」


 俺がグレイルードを護衛騎士にしなければ、姉上は今もきっと生きていた。生きて、笑ってくれていたはずだ。


「ずっと護れていたんだ……それなのにどうして、最後の最後で俺は間違えた……? 俺がお前に姉上を預けなければあんなことにはならなかったのに!」


 ドンッ、とグレイルードの胸に拳を叩きつける。「殿下……」そう呟くだけで避けもしないことが腹立たしくて、何度も何度もその胸を殴り続ける。


「薬のことだってそうだ……俺が優先順位を間違えなければ間に合っていたかもしれない。そもそも最初から予備の薬も一緒に手配すればよかったんだ! 俺が全部間違えたから……俺のせいで姉上は――」

「イリス殿下!」


 強い声と共に両肩が大きな手で掴まれた。乱暴に揺らされて、俯いた顔が強制的に上を向く。そうして視界に入ったグレイルードは睨むように俺を見ていて、「聞いて下さい」と言われれば、俺は目を逸らすことができなくなった。


「あの方のことは私の失態です。あなたは何も間違えていない。あの時私が引き下がらなければ、あの方は病に罹らずに済んだ……他でもない私が、あの方を死に至らしめたんです」

「ッ……」


 そうじゃないだろう――言いたい言葉は思い浮かぶのに、口が動かない。


「責めるなら私を責めてください。私は、それだけのことをしてしまったんです」


 有無を言わさない声だった。まるで俺がそれ以外の考えを持つことを阻むように、グレイルードが俺に語りかける。


 否定しなければいけない。お前のせいじゃないのだと、お前がいたから姉上は幸せでいられたのだと伝えなければならない。

 悪いのは全て俺で、お前じゃない――たったそれだけなのに、腹の中で渦巻く激情が俺の思考をめちゃくちゃにするせいで、一つも言葉にすることができない。


 わけが分からなかった。自分の感情なのに全く理解ができない。俺が悪いのに、誰かのせいにしたくて。だが誰かのせいすることで、自分の罪が軽くなったように思えてしまう。グレイルードが自分の責任だと言えば言うほど、俺の手からこの罪が消えていってしまう気がする。

 だが、そんなのは道理に合わない。姉上はグレイルードを責めていない。ならこいつに罪を擦り付けるのはやはりおかしいのだ。それなのに、グレイルードの言葉が俺から罪を奪い取ろうとする。


「なんなんだ、お前は……なんで……俺が悪いのに……俺が姉上を殺したのに……」

「それは違うと言っているでしょう!」

「違わない……違わないんだ……俺が、何もできなかったから……」


 グレイルードの視線から逃れようとすれば、ふと奴の腰の剣が目に入った。そうだ、最初からこうすればよかった。あの時鏡の破片で、こんなふうに迷うことなんてなかったのだ。


「ッ、馬鹿なことはやめてください!」


 腕を掴まれて、そこでやっと俺は自分がその剣に手を伸ばしていたのだと知った。

 ギリ、と強い力で握られるせいで骨が軋む。腕が痺れる。手のひらから、剣が落ちる。


「あの方を虐げた人間を全員殺すんでしょう!? なのに何故こんなことをなさるんですか! 今ここで死んでしまえば罪人は皆のうのうと生き延びるんですよ? それにあの方だって、いつもあなたのことを案じておられてた……どうか、自分で自分を傷つけることだけはやめてください……!」


 グレイルードの言葉が、俺の首を締め付ける。まるで姉上に叱責されているかのような感覚に、自分は彼女の望みを踏みにじろうとしたのだという罪悪感が募る。

 そうだ、姉上はを大事にしてくれていた。そのを殺すことは、彼女の想いに背を向けることと同じ。彼女の想いを尊重するためには、俺はを殺してはならない。


 だけど辛いんだ。姉上を殺してしまった罪の中で、俺だけが生き続けるのは。


「あなたが憎むべきは私です。あなた自身じゃない」


 悲痛な面持ちでグレイルードが繰り返す。少し前まで否定しなければと思っていたその言葉が、今度はどういうわけか、すんなりと俺の中に染み込んでいった。

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