〈八〉価値
森の中で薪を拾いながら、少し離れたところにいるグレイルードの様子を盗み見た。軍人らしくいつもきびきびと動いていたあいつは、最近立ち止まる時間が増えたように思う。座り込むことまではしないが、本当はそうしたいのだろうということは知っていた。
何故なら俺も同じだからだ。国を出て二週間近く、氷の病の進行状況を考えれば無理もない。
『治療薬は、製薬施設以外からでは買えないんですか?』
数日前、グレイルードが聞いてきた。それがやけに真剣な目だったのは、俺がいつまでも治療薬に関する指示を出さなかったからだろう。……いや、もしかしたら、そうしない理由に気付いていたからかもしれない。
だが俺は素知らぬ顔を作って、『基本的には無理だろう』と知っている情報を返した。
『だが銀狼という、治療薬を運ぶ
『予約みたいなものですか。その銀狼を探しても?』
グレイルードが俺に許可を取るのは当然のことだ。俺はこいつの主で、こいつは俺の命令に従う。だから俺の意思を無視して勝手に動くことはできない。
だが薬に関しては、本来ならこいつは俺に許可を取る必要はない。何故なら国の連中を皆殺しにすることが俺の目的だからだ。病を治さないまま死ねばそれは叶わなくなる。つまり治療薬を得ようとすることは、俺の目的を果たすための必須事項。そんなことをわざわざ尋ねてくるような奴は俺は嫌いだし、グレイルードもそれは知っている。
だから普段のこいつなら俺にこんなことを聞くはずがないのに。そういった小さな行動の一つひとつが、気付いているぞと俺を責め立ててくる気がする。
『好きにしろ』
感じたものを隠して許可を与えれば、グレイルードは翌日からすぐに動き出した。
しかし、俺を巻き込むことはなかった。まるで師かのようなここ最近の振る舞いであれば俺にあれこれさせてもおかしくはないのに、あいつは俺の前では治療薬の話をほとんど出さなかった。……俺からも、聞こうとは思わなかった。
だが、今はほんの少しだけ気になっている。体質の違いのせいか、明らかに俺よりもグレイルードの方が病の進行が早い。
薬は間に合うのだろうか――殺したい相手を案じている自分に気が付いて、俺は咄嗟に奴から目を逸らした。
§ § §
銀狼を追い始めて更に数日が経った。いつからかグレイルードは俺の前でも熟睡するようになった。と言っても小一時間ほどの短い睡眠だ。もしかしたらこいつの病の進行が早いのはこのせいかもしれない。国を出てからずっと気を張り続けて、睡眠は細切れにしか取っていないだろう。そのせいで体力がすり減り続け、病への抵抗力も落ちているのかもしれない。
だがそのお陰で、俺は一人で町に下りることができていた。いつもであれば絶対にグレイルードが共に来るし、隙を突こうにもその隙がない。
しかし、今は違う。まだ真夜中と言うには早い時間なのに、食事を終えたグレイルードは焚き火の前で寝入っていた。俺が荷物を漁って手持ちの食糧を確認しても、その場から立ち上がってみても、死人のようなその顔がこちらを向くことはなかった。
一人で歩く町は、やけに静かだった。この町は地下道があまり発達していないようで、人の姿をちらほらと見かける。だから物音もあるのに、まるで異界に迷い込んでしまったかのような錯覚が俺を襲う。
目的地は食料品店。金はある。小さな金額の紙幣ばかり持ってきたせいでやけに分厚いが、全額は大したことはない。
町を歩いていると、不意に建物のガラスに映る自分の姿が目に入った。三週間近く放浪しているせいで酷く汚らしい。とはいえこの辺りではそう珍しくない格好だ。服装だって、グレイルードがどこからか持ってきた庶民のもの。これだけ見たら、そこらへんにいるゴロツキと区別は付かない。
それなのにグレイルードはいつも俺に顔を隠すように言った。言葉遣いも、イントネーションに気を付けろと言われる。大陸共通語はローゼスタットとジガルトで大差ないが、ローゼスタットの上流階級の人間特有の音運びが、ジガルト人に違和感を与えることがあるらしい。悪事に手を染めている者は、それを目印に標的を選ぶこともあるそうだ。何度も指摘されるうちにほとんど出なくなっていたが、まだ無意識に使ってしまうこともあるかもしれない。
グレイルードは、俺を生かそうとしている――この三週間ずっと目を逸らし続けた現実が、今の俺を形作っている。
奴が求めているのはただ氷の病を克服することではない。俺が復讐を遂げたその先を、あいつはいつも見据えている。
そしてそこにはきっと、グレイルードはいないのだろう。あいつが俺に教えていることは、一人で生きていく術が中心だ。俺の復讐対象に自分も入っているから、俺が目的を果たした時には自分はいないものだと思っている。
なんて馬鹿馬鹿しい。王や評議会を殺せば俺だって生きて城を出られるはずがないのに、あいつは俺が生き残るものだと信じているのだ。
そのために自分の命を削って、俺を生かそうとする。俺の護衛でもないくせに、本来は姉上にすべきだったそれを俺に向けている。
腹立たしかった。俺でやり直すなと叫びたくなる。それなのに何故か目が熱くなった。
「ッ……」
頭の中の思考を追い出して、外気で目元を冷やす。すっかり静まった感情に一つ息を吐き、すぐそこに見えていた店に足を踏み入れる。重たい二重扉をどうにか開ければ、暖かい空気が俺の身体を包みこんだ。
「いらっしゃい。何に……――」
柔和な顔つきの店主が、俺の姿を見て眉を顰めた。その視線は俺の全身を這い、「金がない奴には売れないよ」と俺に客ではないとの評価を下す。
「金ならある」
そう言って札束をカウンターに置けば、店主はすっと表情を元に戻した。
「ああ! すまないね、てっきり浮浪者かと思ったんだ。この辺りは金もないのにメシをくれっていう乞食共が多いからさ」
取り繕うような笑みで店主が言う。「さあ、見てってくれ」言いながらさり気なく俺を覗き込むようにした店主は、すぐにまた顔に怪訝を浮かべた。
「……あんた、顔色が悪くないか?」
目元しか出ていないのに、そこだけを見て店主が警戒を滲ませる。
「少し疲れてるんだ」
「……それだけか? 酷い隈だぞ。それにさっき入ってくる時ふらついてただろ。それだけ体調の悪い奴がわざわざ買い物に来るか?」
「食い物がなくなったんだから仕方がない。休む前に食糧の確保をしておきたいと思うのは当然だろう?」
「なら今日の宿は決まってるんだな?」
「ああ」
俺が答えた瞬間、店主は目を吊り上げた。
「お前、氷の病か!」
突然の言葉に反応が遅れる。何故気付かれた? 何故疑われた? ――考えようとしても、この場を切り抜けることの方にばかり気が行って頭が回らない。
「この町の宿はどこもメシを出すんだよ! 食事姿で患者を見つけるためだ!」
店主がカウンターから猟銃を取り出す。迷いなく銃口を俺に向ける。その過剰な反応に、ここは氷の病への差別が強い町なのだと悟った。
だが、もう遅い。
「出ていけ! この町に二度と来るな!!」
「ッ……」
銃身で胸を押される。その銃を奪ってやろうかと思ったものの、まともに走る体力すらないことを思い出してぐっと堪えた。
出口に向かう間も、銃口が俺から逸れることはなかった。俺が内側の扉に手をかければ、店主は空いている手で近くにあったマスクをつけ、俺が外側の扉を開けると再び銃で俺の身体を強く押した。
「――!?」
よろめいた身体が地面に崩れ落ちる。俺の口元を覆っていたマフラーがずれる。それを直しながら店主を睨みつければ、「必要ないだろ」と歪な笑みを向けられた。
「氷の病に罹った人間が俺の店で物を買えると思うなよ! お前らなんか疫病神だ、さっさと消えろ! 死ぬならどっか遠くで死んじまえ!!」
騒ぎに気付いたのか、周りの建物から次々と住民が顔を覗かせた。俺がふらつきながらも立ち上がれば、ドンッと背中に衝撃が走って、何かが砕ける音がした。
陶器だった。おそらくは花瓶。それが俺の背に投げつけられて、そして割れたのだ。
「貴様ら誰に向かって……!」
怒りを隠さず周囲を睨みつける。するとその中の一人が、「あ?」と訝しげに呟いた。
「その訛り……お前、貴族か何かか!」
それを皮切りに、周りの悪意が一気に大きくなった。
「見ろよ、あの目付き! お偉方みたいな俺達を見下す目だ! なんだこいつ、金持ちのくせにこんなとこふらついてんのか!」
「いつも偉そうなくせに世話ねぇなぁ! 弱って、みすぼらしくて、その辺の浮浪者と同じじゃないか! お前なんかに生きてる価値なんてねぇよ!」
「俺達が払った税金返せ! どうせ薬は買えなくてもそれなりの金は持ってるんだろ!?」
暴言と共に、色々な物が投げつけられる。花瓶に食器、食べ残しのゴミ。いつしか脅すような銃声も加わっていた。
俺はといえば、投げつけられるそれらが頭に当たらないよう腕で守ることしかできなかった。ここはジガルトで、ローゼスタットじゃない。それなのに他人に向けられるはずの憎悪が全部俺に向けられるものだから、顔を上げることすらできない。
だから、近付く足音にも気付かなかった。
「さっさと消えろ!」
ドンッ、と背中を突き飛ばされる。咄嗟に足を出して倒れることを防ぐ。そしてそのまま自分を突き飛ばした奴を見ようと後ろを見れば、「生意気だな……!」と顔を覆うマフラーが引ったくられた。
「いつまでも人間のふりなんてしてるなよ! こんなもの必要ないだろ? どうせ死ぬなら全部置いて……――」
男の言葉が、不自然に止まる。その隙にマフラーを取り返そうとすれば、俺の動きが鈍かったのか、逆に頭を捕まれ背中から地面に押し倒された。
「お前、女か?」
「ッ、触るな!!」
男が俺の身体をまさぐる。マントもコートも無理矢理剥がされ、その中にあった肌が外気に触れる。
「ああ、やっぱ男か。それにしちゃ綺麗な顔してるな」
男の目元が嫌らしい弧を描く。「そういう趣味かぁ?」遠くから男をからかうような声が上がる。それに男は「違ぇよ」と返すと、「ま、どっちでもいけそうか」と下品な笑い声を漏らし、周囲に目を向けた。
「なあ、確か南に人買いしてる連中がいただろ。そいつらに売ればいい金になるんじゃないか? 今のままでもこんな顔してるんだ、ちょっと化粧で顔色誤魔化せば気付かれやしないだろ」
名案とばかりに俺を押し倒す男が言えば、周りはどっと歓喜に沸いた。
「そうだよ、こんなところにいるくらいだからこいつを探してる奴なんていない。きっと家にも見限られたんだ!」
「そんな奴を売ったところで誰も困らない。俺達の罪にはならない」
「しかもいい相手に買われれば死ぬまで食いっぱぐれることはないだろ。人助けだよ、人助け」
好き勝手言う連中に寒気がした。このままここにいたらいけない。そう思って押さえつけてくる腕からどうにか抜け出そうとすれば、「大人しくしろ!」と顔を強かに殴られた。
「おい、顔はやめとけ! 値が下がるかもしれないだろ!」
その声に相手が動きを止めたのを見て、再び脱出を試みる。だが、駄目だった。力がろくに入らない。それどころか相手の怒りを買ったらしく、今度は腹に強い衝撃が襲った。
「ッ……!」
「だから大人しくしろって言ってるだろ!!」
男の苛立ちが、その声を震わせる。腹に、背に、何度も何度も痛みが走る。
「薄汚い金持ちが! 抵抗を! するな!」
細切れの言葉と共に浴びせられる打撃に、相手が間違っているぞと言うことすらできない。
……いや、間違っていないのかもしれない。この国の人間のことは知らないが、結局どこも同じなのだ。俺が知らないだけで、きっとローゼスタットの国民も同じように感じているのだろう。
庶民から金を巻き上げるだけの連中なら可愛げがある。だが俺は違う。俺は俺の目的のために国民の命を蔑ろにしてきた。キノクトベルのことだって、後から聞いた報告によれば無関係の住民が大勢命を落としたらしい。
俺が直接手を下したわけではなくとも、彼らを殺したのは俺だ。姉の命と比べて、傾きかけた天秤を壊してまで彼女の命を優先したのだ。
そして結局、姉上は死んだ。守れなかった。守るべき他の命を虐げてまで彼女を選んだのに、俺は何の成果も挙げられなかった。
こんな無能には、確かに生きている価値などない。
このまま終わってしまえばいいのに――そう思って、襲いかかる暴力に身を委ねる。思考が虚無の中に落ちていく。だが痛みだけは変わらずこの身を苛み続けていて、完全には逃げられないと俺に思い知らせてくる。
これでいい、と思った。これくらいがちょうどいい。俺みたいな人間が、安らかに最期を迎えるだなんて不条理もいいところだから。
やっと終わるのだと、安堵が広がる。その時だった。
俺を殴りつけていた男が、突如けたたましい悲鳴を上げた。
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