〈七〉浮遊
結局誰も殺さないまま、俺はグレイルードと共に国を出た。呆気ないほど簡単に出られた。姉上達のために用意しておいた通行証が、俺をこの国から逃がした。
そこに何か感じそうになって、慌てて現実に目を向けた。
雪の降り積もる森の中、焚き火の光が夜闇を照らす。ゆらゆらと揺らめくその光は、じっと見続けるには些か強すぎる。
それでも目を逸らそうとは思わなかった。視界に光の残像が散らばり、黒と赤の世界を醜く彩る。焚き火以外のものが見えづらい。眩しいのに、そこから視線をずらせば残像が邪魔をするからそらせない。そして何より、グレイルードの姿が目に入るのが不快だった。
何故こいつは俺と一緒にいるのだろう。何故俺はこいつから離れないのだろう。こいつの顔を見ていると、姉上の死を思い知らされるというのに。
だが、何も感じない。彼女に死をもたらしたことへの怒りや憎しみといった感情があるはずなのに、何も感じないのはおかしい。
……そうだ、おかしいのだ。俺はこいつを憎まなければならない。彼女を殺したこいつを、誰よりも強く厭悪し続けなければならない。
「――殺意はもう少し抑えた方がいいですよ」
不意に声が聞こえて、思わず視線を動かした。強い色の残像が邪魔をしてその先をうまく見ることができない。それが気持ち悪くて焚き火に目を戻せば、グレイルードが「殺したいんでしょう? 私を」と言葉を続けた。
「抵抗する気はありません。ですがそんなに殺意を垂れ流されると、いくら意識していても身体が勝手に動いてしまいかねないので」
「無意識の行動で俺をどうにかできると?」
「できますよ。なんだったらうっかり殺してしまうかもしれません」
否定する気は起きなかった。それが現実だと知っているからだ。
「そんな奴が、どうして……」
知らず知らずのうちに唇が動く。そんな奴がどうして姉上を病に罹らせたのか――そう自分が言いそうになったと気付くと、何故だか咄嗟に口を止めた。
「私が聞きたいですよ。……どうしてケイラ様の意思を優先してしまったのか」
「ッ、お前があの人の名を呼ぶな!」
悲鳴のような声だった。情けない自分の反応を隠すように頭を抱える。俯いて、両手で頭を掻き乱して、込み上げた感情をやり過ごす。
胸から熱が消える。しかし、「……そうですね」と小声で呟かれたそれを聞いた途端、今度は罪悪感が俺から呼吸を奪った。
「彼女を殺した私に、その資格はありません」
ゆっくりと、言い聞かせるようにグレイルードが言う。余計に息が苦しくなる。
違う、そうじゃない――そんな言葉が浮かびかけて、思い切り髪を握り締める。引き攣れた皮膚の痛みが、俺の呼吸を少しだけ楽にした。
「もし、私を殺すなら――」
低いグレイルードの声が、耳朶を打つ。
「――必ず真正面から来てください。そうすれば、絶対に抵抗しないので」
地面を見つめる俺にその表情は見えないはずなのに、脳裏には困ったように微笑う顔が過った。
§ § §
「近くに兎がいますね」
そう言って、グレイルードは雪の上に落ちた小枝を指差した。
国を出てからというもの、野営をすることは珍しくなかった。宝石類も含め十分すぎる金を持って出てきたが、いくら国外とはいえあまり人目に付く場所に行かない方が良いというグレイルードの考えがあったからだ。
野営中の食糧は町で買うが、念の為と言ってグレイルードは狩りをすることが多かった。そしてそういう時は一人では出かけず、必ず俺を連れて行く。こうしてわざわざ説明するように俺に話しかけてくるこいつの意図には、気付かないふりをした。
「――この毛皮は今度町で売りましょうか」
その日の夜、俺の手の中にある毛皮を見てグレイルードが言った。思わず止めてしまいそうになった作業を意識して続ける。捕らえた兎の毛皮を丁寧に剥げと言うからそうしていたが、売るつもりだとは思っていなかったのだ。
「金ならあるだろ」
「だからと言って好き放題使う一方ではすぐになくなりますよ。それに生きるためとはいえ命を奪ったんです。捨てて無駄にするのはよくありません」
諭すような言い方に、軍学校にいた頃を思い出した。ギリアムの名前を借りて通っていた時、こいつには講師として様々なことを教わった。身体的に未熟な生徒達には、戦闘技術の指導はあれど実地訓練はほとんどない。それなのにこいつは個人的に教えを請うた俺に、実際にはどのような場面で使い得るか、講義よりも更に詳しく教えた。
まるでその内容をなぞっているようだ――抱いた印象は間違っていないだろう。こうして新しいことを教えようとしてくる時もあるが、大体はかつてこいつから教わった内容の実践だ。軍学校にいた頃にはできなかったことを、こいつは俺にやらせようとしている。
憎らしかった。そうやって過ごすことで、自分の中にあった混乱が少しずつ収まってきたのを感じているから。
グレイルードはきっと意図してやっているのだろう。そう思うと、こいつにあやされているかのように思えて酷く腹立たしい。
だが俺にはまだ、そんなグレイルードに抗う余裕は戻っていなかった。
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