〈六〉沈殿
キノクトベルで強硬手段を取った結果、多数の死傷者が出た。砦へ向かう時も、そして薬を持って帰って来る時も。争いとは無縁そうな住民の死体が、俺の背を睨みつけていた。
しかし後悔はなかった。誰かが俺をおかしいと言う声が聞こえたが、それもまるで気にならない。住民や自軍の兵達が俺を軽蔑と恐れの混ざった眼差しで見てきたが、生憎そんなものに後ろめたさを感じる心は持ち合わせていない。
俺の望みは、一つだけ。……だが、それは叶わなかった。
『ジル、グレイ……私ね、あなたたちといられてよかった』
まるで死を確信していたかのような姉上の言葉が、耳から離れない。
どうにか薬を持ち帰ったのに姉上は助からなかった。国民と姉上一人の命を天秤にかけ、自分の立場なら選ぶべき方を蔑ろにして。
そこまでしたのに、姉上を助けられなかった。
もう、どうでも良かった。死に際の彼女を目の前にして、自分を守る行動を取らなかったのもそのためだ。この人が死ぬのなら、その毒を吸って俺も終わってしまえばいい――だから何もしなかった。何もできなかった。
俺には何かできるはずだったのに。できる力も、金もあったはずなのに。
『あなたは頭が良い。勝算のない賭けなどされない。そのあなたが我々に頭を垂れたとて、一体どうして裏がないと信じることができましょう?』
下卑た声が耳の奥にこびりつく。お前は無能だと、いくら力を持っていても使えなければ意味がないのだと、頭の中で狸共が嘲笑う。
その声を振り払おうと頭を振れば、ふと私室の鏡に映る自分の姿が目に入った。愚図で役立たずな、忌まわしい存在だ。
「ッ!!」
思わず近くにあった花瓶を投げつけた。甲高い音を立てて鏡が砕ける。いびつな破片の鏡面が、尚も俺を映す。それが耐えられなくて、手の届く場所にあったものを何でも力いっぱい鏡に叩きつけた。燭台も、本も、椅子も。
それでも足りなくて手を伸ばしたのに。近くにはもう、何もなかった。
「……足りない」
自分の姿を粉々に砕いても。どれだけ感情を物にぶつけても。
ならばこの皮を裂いてしまえと、近くにあった破片を握る。と同時に手のひらに走った痛みに、ふと正気に戻された。
「足りない」
そうだ、足りないのだ。こんなことをしたところで無意味だ。この身をいくら切り刻んだところで何も変わらない。ただこの部屋の床が赤く汚れるだけで、それ以上の意味などない。
「足りない」
俺一人の命では。
姉上の死に関わった者全員に償わせなければ、到底この喪失感は癒えやしない。
§ § §
父、母、弟。評議員、王宮で働く者達――一人ひとりの顔を頭の中に思い浮かべる。罪の過多なんてもうどうでもいい。全員殺してしまえ。姉上を軽んじ、その死を悼みもしない奴らなんて生きている価値はない。
武器庫からありったけの銃火器を執務室に持ち込む。手伝いを申し出る者達を追い払い、お前達を殺すためのものだと内心で嗤う。
名前も知らない奴らだった。だが関係ない。傍観だって罪なのだ。たとえ姉上の悪評を一度も口にしたことがなかったとしても、それを受け入れるこの場所で働いて食いつないでいるのであれば他の連中と同じ。
そいつらも一人残らず全員殺してやろうと考えながら準備を進めていると、執務室にグレイルードがやってきた。
「殿下……これは一体、何を……!」
「決まってるだろ。父上も母上も、評議会も、全員殺してやる」
俺の言葉に、グレイルードはこれでもかというくらい顔を驚愕に染めた。
「何を仰ってるんですか!? ケイラ様の死に他の人間は関係ないでしょう!? それなのに全員殺すだなんて――」
「なら何故姉上が事故死なんだ!!」
力いっぱい声を張り上げる。こんな大声、今まで出したことがない。
だが、そうしなければおかしくなりそうだった。姉上の身に起きたこと全部がおかしいから。それらを全て声に出して確認しなければ、自分の認識すら塗り替えられてしまいそうなくらいに現実が歪められているから。
「連中は姉上から母を奪い、地位を奪い、国益だけのために嫁ぎ先を選んで……挙句の果てがこれだ! 一度も見舞わなかったくせに! 姉上が氷の病だとわかった途端離れに閉じ込めたくせに! それを事故死だと? もっとマシな言い訳があるだろう!!」
姉上の死の原因を捻じ曲げることで、自分達は悪くないと吹聴しているようだった。彼女はこの一ヶ月病と戦い続けたのに。それどころか今までずっと、連中によって作られた悪評の中で戦い続けていたのに。
それら全てをなかったことにされた。それが耐え難いほど、悔しい。
「誰も異を唱えなかった……俺がどれだけ頭を下げても誰も薬の調達に協力すらしなかった……。薬が届くのに時間がかかったのが俺のせいだとしても、もっとできたことがあるはずなのに……!」
何もできなかった自分が憎い。彼女を護りたかったのに、これまでの驕りのせいで失敗した自分を殺したくてたまらない。
「そんな奴らを皆殺しにして何が悪い。姉上の苦しみをあいつらも思い知ればいい。お前もだ、グレイルード。姉上を護れなかったお前だって八つ裂きにしてやる……!!」
そうして最後は俺も――そう込めて言えば、グレイルードは少しだけ考えるように視線を落として、やがて「お手伝いします」と予想していなかった言葉を放った。
「は……?」
「お一人ですべて成し遂げるのは難しいでしょう。何せ陛下達には腕利きの護衛がいる。評議会も狙うのであれば、一度で片付けることもできない」
こいつが何を言っているのか分からなかった。たった今自分を殺すと言った俺の手伝いをする――何の企みもなしにそんなことが言えるとは思えない。
「……命乞いか?」
「まさか。――私をお使いください、イリス殿下。このグレイルード・モリナージェ、身命を賭してあなた様の剣となることを誓いましょう。どれほど残虐なことでも、どれだけ薄汚いことでも、殿下のお望みとあらばすべて叶えます。そして……私以外の者全員が片付いた暁には、その手で私を始末してください」
グレイルードが言葉を発するごとに、自分の愚かさが暴かれていく気がした。
こいつの言っていることは間違ってはいない。全員殺そうとするならば、俺一人がどれだけ武器をかき集めたところで最後まで果たせないだろう。
だが、この男ならばそれを実現できる――どれだけ残虐なことでも、どれだけ汚れにまみれたことでも。俺が命じれば、こいつなら必ずやり遂げる。何故ならこいつはそういう仕事を何度もしてきたからだ。そういう部分を買って、俺はこいつを軍から引き抜いたのだから。
それでいいのか? この男を、またそちらに引き戻しても。
「ッ……」
想像した瞬間、姉上までもが汚れた気がした。そんなはずはない。この男と彼女は別なのに、どうしてこの男に汚れ仕事をさせると姉上までもが汚れるのか。
こんなのただの錯覚だと思いたいのに、考えれば考えるほど頭の中で姉上の存在が薄汚れたものになっていく。
「……ふざけるな」
馬鹿な考えを持つ自分に腹が立つ。それなのに、今すぐにその考えを払拭できないことが酷くもどかしい。それらを追い払うように小さく息を吸えば、感情が凪いでいくのを感じた。
そして、無に。感情を伴わない思考が、淡々と現実を俺に教える。
「確かに今ここで考えなしに突っ込んだところで、皆殺しどころか精々一人二人が殺すのが関の山……それはお前一人が増えたところで大して変わらない」
そう、これが現実だ。だから俺はそれを変える方法を考えなければならないのに、何も考えることができなかった。頭が働かない。いや、考えたくないのだ。
少しでも何か考えようとすれば、あの姉上の姿が浮かぶから。汚れてしまった姉上は俺の想像でしかないはずなのに、何度も見れば見るほど元の彼女を思い出せなくなる気がした。
「国を出ましょう、ここは空気が悪すぎる。私に言われて気付くだなんてあなたらしくない。少し休んで、それから確実に全員始末する方法を考えましょう。私一人が増えたところであまり変わらないでしょうが、あなたがその腕を磨いてくだされば少し違ってきます。そうでしょう?」
諭すような落ち着いた声に、ただ耳を傾けることしかできなかった。
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