〈五〉齟齬
追加の薬が調達できないことが決定し、とうとうクラヤから薬を運び入れるしか方法がなくなった。
そのためには道を塞いでいるキノクトベルの問題を解決しなければならない。何故ならクラヤから戻るにはドラストを通らなければならないが、そのドラストとこの国とを繋ぐルアバスク砦がキノクトベルの治安悪化のせいで封鎖されているからだ。
封鎖中はその砦からの出入国が制限される。それはクラヤから戻ろうとする騎士団でも同じだ。混乱を悪化させるかもしれないと、いかなる者であっても入国は許されていない。
だから封鎖されている中をローゼスタットに再入国するには、それこそ密入国という手段を取るしかなかった。
『私にお任せください、イリス殿下。問題を片付けるか、それとも治療薬を運んでくるか……どちらかは現地での判断になりますが、私が行って対処してきます』
俺の話で名乗りを上げたグレイルードもそれは分かっていただろう。その上であいつは、自分ならやってみせると言ったのだ。
俺も、この男ならできるとどこかで期待していた。それを自覚したのはあいつのこの言葉を聞いた時だ。
そして同時に、自分の浅はかさを思い知った。
『お前が行けば解決できるかもしれないが、代わりに十中八九犯罪者として扱われることになる。これからお前は姉上を護っていかなければならないのに、少しでもその障害となることはすべきじゃない』
これは本心だった。だがグレイルードなら多少障害が増えたところで仕事はやりきるだろう。だから俺はきっと、グレイルードにそれを期待していたのだ。
この男なら自分の懸念を全て払拭してくれるだろう、と。そんなふうに他人の能力に甘えて、全て押し付けようとした。それも無意識のうちに相手を操ってそうしようとしていたのだ。なんて狡くて幼稚なのか。そんな自分が嫌でしょうがなかった。
『あなたは頭が良い。勝算のない賭けなどされない。そのあなたが我々に頭を垂れたとて、一体どうして裏がないと信じることができましょう?』
姉上を護ることを阻んでいるのは他でもない俺だった。俺のこれまでの行いが、評議会の連中を警戒させたのだ。
その行いと同じことを繰り返そうとする自分が、そうすることしかできない自分が、この足を引っ張っている――その落胆と苛立ちが、俺に決意させた。
「――ここからは俺が本件の解決に当たる」
キノクトベルに作られた、臨時の作戦本部。今は会議の時間ではなかったのか、そこにいたのは責任者とたった一人の兵士だけ。そんな場所にやってくるなり俺がそう告げれば、責任者――アルノーは驚いた顔をした。
「兄上が……? しかし、この件は僕に一任されたはずでは……!」
「結果を出せていない奴にいつまでも任せておくとでも?」
俺の言葉に、アルノーの顔が悔しげに歪む。久しぶりに見た素の弟の姿に溜飲を下げかけて、ただの八つ当たりをした自分に吐き気がした。
「状況を説明しろ。当初の見立てではここまで
最初に受けた報せでは、キノクトベルの町の住民の中にドラストに付いた者が出ただけだった。そいつらが鉱山労働者を人質に、銃火器を持って砦へ門の開放を求めたという。
しかしこの程度であれば砦を守る軍が簡単に制圧できる。今回アルノーが現地へ派遣されたのは鎮圧後の問題解決のためだ。ドラスト側に提示された条件や他の関係者、その他諸々の情報を収集、精査し、今後のドラストとの付き合いに影響を及ぼすものがないか確認する――要するに事後処理だ。だから俺は自分ではなくアルノーに行かせた。まだ十三という年齢ではあるが、他の者よりも弟の方がよっぽど有能だと知っているからだ。それに弟の性格から考えても、こういったことは上手いだろうと思えた。
だが今、アルノーは本来の自分の仕事をできていない。事後処理のために来たのに、その〝事後〟が一向に訪れないからだ。
「兄上の仰るとおり、最初のドラスト派の制圧は僕が到着する前に終わっていました。問題が起こったのは、拘束された彼らに話を聞こうとした時です」
「何があった」
「最初に行動を起こしたのは全員じゃなかったんです。残った者達は裏で住民を唆し続け、同時に各地で小さないざこざが起き始めました。主にドラスト派の住民と、平和を望む者達の対立です」
アルノーの話では、一つひとつは些細な問題だったという。まず、双方が自分達の意見を主張するために、鉱山への道の封鎖や不買活動、その他嫌がらせのようなことを繰り返したそうだ。これらの行為自体はそれぞれの主張とは何ら関係がないが、相手に自分の話を聞かせるための手段が他に思い付かなかったのだろう。
相手の嫌がることをして、無理矢理自分の方を向かせる。当然、揉め事が起こる。はじめの頃は口論だけで済んでいたが、やがて武器を取る者が現れた。とはいえ目的は殺し合いなどではなく、ただの喧嘩のようなものだ。
しかし殺傷能力の高い武器が使われたこともあり、軍が事態の鎮圧に向かわなければならなくなった。すると今度は別の場所で同じようなことが起こり、砦警備の者達が周辺に駆り出されることになってしまったらしい。
それが、何度も。一つ解決しそうになったら、また別の場所で問題が起こる。繰り返される騒ぎのせいで砦を守る人員が平時よりも少なくなり、更に砦を攻撃しようとする者達の中にはただの人質まで紛れ込まされているものだから、軍は下手に手出しができず膠着状態が続いているのだそうだ。
一連の話を聞いて、俺は呆れて言葉を失いかけた。
「そんなことで影響を受けるほどこの国の軍は無能じゃないだろう? それでも振り回されているならこれはもう偶然じゃない、誰かが仕組んでいることだ。さっさとそいつを見つけ出せ」
「僕もそう考えて捜索させています。しかし未だ尻尾が掴めず……」
「それでここまで酷くなったと?」
俺が問えば、アルノーはおずおずと頷いた。そしてそんな弟を、近くにいた兵士が心配そうに見つめている。
それらを視界から追い出すように周囲を見れば、確かに誰かを追っていると思しき資料が目に入った。至る所を塗り潰された地図は捜索した場所を示しているのだろう。それだけ見ても、アルノーの言葉が嘘ではないということは分かった。
しかし納得はできなかった。それはアルノーの話の内容じゃない、この状況だ。ドラストの手口の汚さは周辺諸国でも有名だが、今までとは明らかにやり方が違う。
あの国ならもっと悲惨な状況を作り出す。そんなことができるほどの人数をこの国に送り込めるかという問題はあるが、連中は暴力で相手を脅すことを好むのだ。こんなふうに、少しずつほころびを作っていくやり方は性に合わないだろう。
まるでヒルデルみたいだ――ふとそんな考えが浮かんだが、それはないだろう、とすぐに頭から振り払った。
奴らは武器を売るために国同士の緊張を高める工作をすることがある。この国だって例外じゃない。だが、今この土地で争いごとを起こしてヒルデルに得があるとは思えなかった。この国の採掘技術を欲しがっているのは知っているが、それとこれとは関係がない。少しドラスト側に有利になるよう連中が働きかけたとしても、それでこの国が、俺があの技術を差し出すだなんてことは有り得ないことくらい、ヒルデルなら分かっているだろう。
まさか治療薬の輸送を阻んでいるのか――脳裏を過った被害妄想に、自分の心境を悟って嘲笑いたくなった。
ヒルデルが治療薬の輸送を阻んでいるなど、それこそ有り得ない。そうならないようにヒルデル傘下ではない製薬施設を選んでいるし、もし仮に連中が全ての発注記録を把握していたとしても、本気でそんなことをするのであれば俺に直接取引を求めてくるはずだ。
しかしヒルデルにそんな動きはない。だからやはり、ヒルデルは関係がない。
そう思って視線を上げた時、弟の姿が目に入った。アルノーなら――浮かびかけた考えに、そんなはずはないと首を振る。
「アル」
俺が名前を呼べば、アルノーはびくりと肩を揺らした。
「本気でやっているんだよな?」
じっと、弟の顔を見つめる。父親に似たその顔で、アルノーは「勿論です」と力強く頷いた。
途端、安堵が広がる。頭の片隅にあった考えのせいだ。それが否定されたことで、少しだけ肩の力が抜ける。「なら何故こんなことになった?」いつもどおりに問えば、「僕が手を抜いたからだと?」と心外だと言わんばかりに返ってくる。しかしアルノーはすぐに不満を抑え、自分の潔白を主張するかのように背筋を正した。
「兄上に任された仕事で手を抜くだなんて絶対にありません。それにこの件を仕組んだ人間はまるで遊んでいるかのようです。ここまで馬鹿にされて何も感じないわけがない」
「だったら何故未だ事態が改善しない? まさかそいつを追うのに夢中で、砦への攻撃の対処を忘れているわけじゃないよな」
「……僕が甘いせいです」
「お前が?」
想定外の言葉に問い返せば、アルノーは思い詰めた顔で「ええ」と頷いた。
「国民に犠牲を出し、かつ復旧に時間を要する作戦は避けるべし――これまで軍のその方針に従ってやってきました。普段のように対処すべき目標が明らかであれば問題ありませんが、今この状況ではいたずらに解決までの時間を延ばすだけ……ならば、決断をしなければなりません」
アルノーが俺を見据える。その先の言葉を想像して、俺の背にも少しだけ力が入る。
「橋を破壊しましょう。そうすれば、これ以上砦への攻撃の手が強まることはありません」
予想どおりの言葉だった。そして、落胆した。
アルノーの言う橋とは、町と砦の間を流れる大きな河を跨ぐ橋のことだ。迂回路はいくつかあるが、近くの橋は住民達の争いの場ともなってしまっている。だからアルノーの言うとおり、ここを落とせば実質的に町と砦を繋ぐ道がなくなり、町からドラスト派の援軍は来られなくなるだろう。
そういう意味では、この方法も確かに有効だ。しかし同時に失うものが大きすぎる。それなのにアルノーがこれしかないとばかりにこの案を出してきたことが、俺の弟に対する情を一気に奪った。
「駄目だ」
「何故ですか!?」
アルノーが声を荒らげる。そんな弟を見て、また一つ、落胆を感じた。
「橋を落とせば道がなくなる。あの河の氷は人間が通れるほど厚くはない」
「ですが小舟でもなんでも使えば通れるはずです!」
「船なんて格好の的だ。遠くにいる人間にだって攻撃できるし、そもそも氷が邪魔をしてろくに進むことすらできないだろう。もたついている間に殺してくれと言っているようなものだ」
「だからってこのまま膠着状態を続けるんですか? その分この地の争いが長引きます! 早く解決したいからいらっしゃったのでしょう!?」
必死な様子でアルノーが俺に訴えかける。「まるで他人事だな」と俺が言えば、アルノーは声を詰まらせた。
「俺が解決を急ぐ理由をお前は知っているはずだ。そしてそれは本来、お前にとっても他人事じゃないはず……それなのによくこの方法で問題ないと思えるな?」
「それは……」
この橋がなくなれば鉱山方面までの迂回が必要になる。一日二日で済む距離ならいいが、軍用列車も通れない地形が行く手を阻むため、迂回には数日かかるだろう。他に問題が起これば、一週間以上かかってしまうかもしれない。
姉上にはもう、二週間しか残されていないのだ。そんな時間なんてかけていられない。
「軍に通達しろ。明朝以降、軍に敵対意思を見せた者は立場を問わず攻撃を許可すると」
「ッ、それは住民を殺すということですか!? ドラスト派と分かるのは砦を攻撃している者達だけです! そんな通達をすれば、ドラスト派と揉めているだけの住民まで攻撃対象になりかねませんよ!?」
「そうしろと言っているんだ」
「そんな……!」
俺の言葉に、アルノーだけでなく、それまで聞き手に徹していた兵士までもが表情を歪めた。
「下手に住民の命を守ろうとするから被害が大きくなる。結果として犠牲となる者が増える。何も今すぐ適用するわけじゃない、事前に住民には知らせる。避難するための時間だって与える。それでもなお武装解除しない者だけを対象にしろと言っているんだ」
「ですが身を守るために武器を手放せない人々もいるとは考えないんですか!? これだけ騒ぎが大きくなっているんです、避難するにしても丸腰では無理でしょう!?」
アルノーの言っていることは正論だ。たとえ今回の騒ぎには関与していなくとも、武装した者達と軍との争いの中を抜けるには、どうしたってその住民にも身を守る方法が必要となる。この通達をしてしまえば、その者達も軍の攻撃対象になりうるだろう。
だが――
「こんなことになったのはお前の責任でもあるだろう」
俺が言えば、アルノーは顔を強張らせた。
全てがアルノーの責任だとは思わない。それでも、その一端くらいはある。そのことを指した俺の言葉に、アルノーは唇を小さく震わせた。
「兄上は……道を、開きたいだけなんじゃないですか……?」
「ああ」
「ッ、そんなことのために! たった一人のために国民を犠牲にする気ですか!? そんなことをすれば兄上の責任問題は免れませんよ!?」
悲鳴のようなアルノーの言葉に、酷く気持ちが白けるのを感じた。
やはりこいつは全て理解しているのだ。姉上には時間がないと、そうと理解した上で時間のかかる手段を提案し、逆に最短の案を拒絶しようとしている。口では国民の犠牲がどうと言っているが、こいつがそんなことを本当に気にしているとは思えない。
こいつはただ自分の心配をしているだけだ。ここの指揮官はアルノーで、俺がこれからそれを奪うにしても、その結果問題が起こればこいつの責任になる。だからこいつは安全策を取りたいだけだ。それ以外に、きっと他意はない。
「全ての責任は俺が持つ。だから三日間だけ俺の言うとおりにしろ。その後は軍への通達も解除して構わない」
お前に悪影響はないと込めて言えば、アルノーは愕然とした面持ちを浮かべた。
「三日……? そんな短期間で砦の封鎖は解除できませんよ? それこそ兄上がご自分で行かなければ……」
「分かっているならいちいち説明させるな」
軍が強硬手段を取れるようにしたところで、封鎖された砦はすぐには開放されないだろう。この砦は国境検問所だ、内側だけでなく外側の安全も確認しなければならない。ドラスト国内で待機している騎士団が、たった三日で入国できるようになる可能性は低い。
だが、俺なら違う。砦の封鎖中でも王族だけは例外的に入国できる。外国に待機させたまま、敵の手に落ちる方が国益を損なうという考えがあるからだ。その分出国は阻まれるだろうが、それはどうにかなるだろう。
明朝から砦付近にいる敵を一掃して道を開ければ、安全に砦まで辿り着ける。その混乱をうまく利用すれば出国も不可能じゃない。
とはいえ無事に出国したとしても、砦の外側がどうなっているかは分からなかった。しかし少なくとも出国時、それからドラストから帰ってくる時も、砦の内側が安全であるということは大きな意味を持つ。
「――恐れながら殿下、それは承服いたしかねます」
言葉を失うアルノーを見かねてか、それまで黙っていた兵士が口を挟んできた。
「殿下がお一人で砦の外に出られるのは危険でしかありません。もしドラスト側に知られて身柄を拘束されたらどうなります? これまでの戦いは全て無駄になり、殿下をお助けするために国はいらぬ犠牲を払わなければならなくなるかもしれません」
諌めるようなその言葉は、恐らく口にするまでに相当葛藤があっただろう。名前すら知らないような階級の奴が、俺達の会話に横槍を入れるというのはそういうことだ。
普段だったら、その気概を面白く思っていたかもしれない。しかし今は鬱陶しさしか感じなかった。何故ならこいつは姉上の状況を知らないからだ。俺とアルノーが何を念頭に置いて話しているか分かっていない奴の言葉なんて何の価値もない。
「誰が口を開いていいと言った?」
不快感を隠さず言えば、兵士が一瞬だけたじろいだ。
「……出過ぎた真似だとは理解しております。殿下に意見したことへの懲罰でしたら喜んで受けましょう。ですが私は自分が間違ったことを言っているとは思いません」
強い目で兵士が俺を見る。確かにこの男は自分の言葉に自信があるのだろう。俺だって、それが正論だということくらい分かっている。
だが、今は正論なんていらない。
「外せ」
「は? しかし、」
「出ていけと言っているんだ。弟と二人だけで話がしたい」
俺が命じると、兵士は渋々と部屋を出ていった。すぐ外にその気配を感じながら、「アル」と弟に向き直る。
「俺を助ける必要はない。もし俺に何かあれば捨て置け」
「そんなことできるはずがありません! 下手すれば兄上の命が……!」
血相を変えたアルノーに、もはや何の情も湧かなかった。ドラストで俺の身が拘束されるということは、薬も手に入らなくなるということ。それなのに俺一人のことしか言及しない弟に、こいつの中に姉上はいないのだと思い知らされる。
「俺に何かあった時の責任を気にしているのか?」
「違います! 僕は兄上ご自身のことを……!」
「どうしてその情を姉上に向けてやれない?」
その問いに、アルノーの勢いが一気に萎んだ。
「姉上はお前に何もしていない。むしろお前と向き合おうと努力していた。だがお前は周りに言われるがまま姉上をお荷物と決めつけ蔑んだ。俺を兄として思える感覚があるのなら、姉上のことだって姉弟だと思ってもいいはずだ」
「…………」
アルノーが視線を落とす。わなないた唇が、「兄上は……」と声を発する。
「兄上は、もし……もし今苦しんでいるのが姉上ではなく僕だったら……同じことをしてくれましたか?」
縋るような表情だった。素の、こいつの表情だ。今にも泣きそうなその瞳が、真っ直ぐに俺を映す。
「いや」
「ッ……」
「お前が同じ状況になったら、国を挙げて最善を尽くすだろう。ならこんなことにはならない。お前と違って姉上には味方が少ない」
「…………」
「姉上の味方は、俺しかいない」
だから彼女のためならば、俺はなんだってやる――言葉にはしなかった。そんな決意をこいつに聞かせたところで、何の意味もないと思ったからだ。
「お前に俺は必要ない。その仮定は無意味だ」
そこまで言うと、俺は「三日だ」と念押しして出口へと向かった。部屋の外にいた兵士が気まずそうに俺を見送る。
「それでも僕には、兄上だけが……――」
微かに聞こえた声を無視して、俺はその場を後にした。
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