〈四〉慢心
姉上が氷の病に罹って二週間近く。発症を知った後すぐに手配した薬はまだ届かない。距離を考えるとローゼスタット国内、そうでなくてもジガルト東部の製薬施設から買いたかったが、在庫の関係で交通の便の悪い隣国のクラヤから取り寄せなければならなくなったせいだ。
王都からクラヤの製薬施設までは、軍用列車を使っても一週間近くかかる。薬の安全な輸送のために派遣した王族警護の騎士団からは、確かに一週間前に薬を受け取ったと連絡があった。ならばもうそろそろここまで届いても良い頃合い。しかし、未だ騎士団がローゼスタットに入国したという報せはない。
「――これはどういうことですかな、イリス王子」
評議員の面々が俺を見つめる。今は彼らとの臨時会議の場。本来であれば最近キノクトベルで起こっている紛争関連の話し合いだけを進めるはずだったが、それが終わった直後にした俺の発言が連中を怒らせたことは明らかだった。
「言ったとおりだ。
直前の発言を繰り返せば、評議員達がこれ見よがしにどよめいてみせた。
「私が伺っているのはその理由です。先日一本発注したはずでしょう? 王族方の中にあと二名も患者がいらっしゃるのですか?」
わざとらしい問いに嫌気が差す。こいつらは説明せずとも状況を把握しているはずだ。それなのに建設的な意見を出さず、厭味ったらしく無駄な質問しかしない。
だがその不満を出すわけにはいかなかった。治療薬を買うためには評議会の承認が必要だからだ。俺が個人的に買うこともできるが、問題は薬の代金ではなくその輸送方法。安全かつ迅速に運ぶためには軍や騎士団の力が必要になる。
そして国の組織を動かすのに王の承認だけでは足りないのがこの国だ。国王――父親一人ならどうにか説き伏せられるが、評議会相手ではそうもいかない。
「キノクトベルの治安悪化のせいで、クラヤからの薬が間に合うか分からない。だから同時に別の製薬施設からも取り寄せられるよう手配する」
俺が言えば、その答えを知っていたであろう狸共はあからさまに嫌そうな顔をした。
クラヤは西側にあるこの国だけでなく、南はドラストとも国境を接している。そしてそのドラストとはしょっちゅう領地の取り合いをしていた。その関係で現在、ローゼスタットとクラヤを直接繋ぐ関所はない。かつてはあったその関所は、数年前からドラストの領地になってしまっているからだ。だからクラヤとこの国を行き来するには、どうしてもドラストを通らなければならない。
しかし今この国では、砦に近いキノクトベルでドラストとの小競り合いが起きている。だからクラヤに送った騎士団は帰国できない。キノクトベルの紛争がいつまで長引くか分からない以上、別の場所から薬を調達する算段をつけねばならないのだ。……とはいえ、未だ近くに在庫のある製薬施設は見つかっていないが。
ヒルデルの製薬施設なら、もしかしたら在庫があるかもしれない。だがそこを頼るわけにはいかなかった。どこの製薬施設から薬を買うにしても、必ず代金を支払えるという保証が必要だからだ。直接製薬施設に出向いて現金を見せれば簡単だが、それができない場合は身分を証明して治療薬を取り置かせる必要がある。すぐに行ける距離の製薬施設相手でなければ、大抵はこの方法を取らなければならない。
つまり製薬施設相手に名を明かさなければならないのだ。今のヒルデルとの関係で俺の名前を出せば渋られることは明らかだったし、偽名を使おうにも、〝代金を支払う能力がある〟とヒルデルが認める身分でなければならない。上手くやらなければ薬が発注できないどころか、俺の使う偽名をヒルデルに、レヴァスに知られることになる。
だから調達先の製薬施設が限られる。結局ヒルデルにも発注することになるかもしれないが、まずは評議会の承認が先だ。その時になって許可が出ないんじゃ笑い話にもならないから、今ここで評議会に治療薬を追加購入を認めさせる必要があった。
「クラヤの保険ということは、全て一人の患者のためだと? 三本とも届いたらこの二本は無駄になるでしょう。あなたは二〇万ルゼもの大金をドブに捨てるおつもりか」
俺の考えが分からないはずがないのに、評議員の一人が吐き捨てるように言った。
「余った分は私が買い取る。それで問題ないだろう」
「問題があるから具申しているのです。ケイラ王女の薬代にかかる計三〇万、更に輸送にも金をかければ軽く一〇万以上は増える……これらは本来であれば必要のなかったものです。このような大金を湯水の如く使われては困ります。騎士団にしても、王族警護の者達をそのようなことに使うなど……」
「煩雑な処理を通せばそれだけ時間がかかる。輸送も
「予算を本来の目的とは異なるものに使うことが問題なのです。それではケイラ王女の婚礼に関わる一切を取り仕切ってきた者達から反発を――」
「お前達が気に食わないだけだろう!?」
思わず声を荒らげれば、評議員の爺共は気圧されたようにたじろいだ。
評議会の考えは真っ当なものだ。既に姉上の治療費は臨時の支出として承認しているのに、その上更に〝念の為〟という理由で俺が金を使いたがるのだから嫌がるのも当然だ。婚礼担当者からの反発、それも分かる。いくら緊急時だろうと、下の者の意思を無下にし続ければ組織は立ち行かなくなることくらい分かっている。
だが同時に、こいつらがそういった規律のみを重んじてこの発言をしているわけではないということも明らかだった。
「お前達が姉上を疎んでいることは知っている。イングリット様に何をしたかも、それがそう遠くない過去のことだということも全て知っている」
「なッ……」
前王妃の幽閉のことを指して言えば、俺に知られていると思わなかったのか、老人達の顔が一斉に強張った。
「お前達はもう、姉上から十分奪ったじゃないか。どうせ快癒したところでこの国から追い出すんだろう? だったら最後くらい与えてやってくれ。俺を蹴落としたいなら構わない。父上にそうしたように、姉上の無事と引き換えに欲しい物をくれてやったっていい。だから阻まないくれ……姉上を死なせたくないんだ……」
その言葉と共に頭を下げれば、そこにいた全員が狼狽するのが分かった。
俺がこうして連中に頭を垂れるのは初めてだ。姉上を無視して俺を王の長子として扱うこいつらは、基本的に俺の機嫌を損ねるようなことはしない。姉上に関わることでない限り、いつだって俺を持ち上げ、自分達の印象を良くしようとしてきた。だから俺も、こんなことをする必要はなかった。こいつらを納得させられる理由さえ用意できれば、反対されることなど滅多にないのだ。
たとえ反対されようとも、俺が全責任を持つと言えば自らの保身を最優先とする評議会はすぐに折れる。自分達を従順に見せかけて、俺が自分達の言うことを聞く王となるように仕向ける――それが、こいつらのやり方だからだ。
だから評議会と俺の関係性を決定づけるこれを、連中が利用しないはずがない。
「あなたを敵には回したくない」
「なら……!」
聞こえてきた声に顔を上げる。これでいい。俺が評議会に下ることを引き換えに、姉上を助けられる――そう、思った。
だが、その希望はすぐに打ち砕かれた。
「結論は変わりません。陛下と同じ取引をするにはあなたは少々賢すぎる。いずれこちらが食われると分かりきった取引など不要」
狸共の顔の皺が深くなる。嫌らしく持ち上がったそれは、酷く醜い。
「貴様らッ……!」
小声で零せば、連中の顔は更に醜悪になった。
「あなたは頭が良い。勝算のない賭けなどされない。そのあなたが我々に頭を垂れたとて、一体どうして裏がないと信じることができましょう?」
「ッ……」
「さて、他に話はありますかな?」
勝ち誇ったように周囲が嗤う。俺の目論見をへし折ってやったとでも言いたげな彼らの表情を見て、俺は自分の過ちを知った。何故ならこの状況は俺のこれまでの行いのせいだからだ。
だが、何も言葉が浮かばなかった。否定しようがなかった。俺がこいつらを駒としか見做していなかったのは事実だから。
そして、こうして連中に頼み事をするのは手段の一つだということも。ほとぼりが冷めたらまた駒に戻そうと、そうできると考えた上で俺はこいつらに頭を下げたのだ。
俺が評議会を信じていないように、評議会もまた俺を信じていない。俺達の間に信頼関係はない。それが、姉上を救うことを阻んでいるのだ。
だから俺は何も言えないまま、負け犬のようにその場を去ることしかできなかった。
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