〈三〉罪報
グレイルードが姉上の護衛騎士になって一年半。姉上は以前よりも笑うようになった。元々よく笑う人ではあったが、それまでの護衛騎士とは談笑を楽しんでいた様子はない。だから彼女の部屋に行くといつも静かだったが、グレイルードが来てからは扉を開けた瞬間から和やかな空気が伝わってくるようになった。
そこまで求めてグレイルードを姉上の護衛にしたわけではないのに、想定外に彼女が幸せそうで嬉しく思う。姉上がグレイルードに好意を抱いていると知った時は少し頭を抱えたくなったが、婚姻に影響が出なければ、と短い期間の幸せのためにその背を押した。結局二人は護衛騎士と主という関係を選んだようだが、それで気まずくなる様子もなく過ごしていることに安堵していた。
こんな日々が、ずっと続けばいいと思っていた。たとえ期限付きの幸せでも、姉上がこれから先を生きる糧になるのであれば十分だ。
そう、思っていたのに。
『――お前がいて何故こんなことになるんだ!!』
姉上が氷の病を発症したと聞いて、目の前が真っ暗になった気がした。命の危険もそうだが、仮に治ったとしてもルーデシアとの婚姻が駄目になれば姉上はこの国に居場所がなくなる。そうなれば彼女に待つのは辛い未来のみ。
だから姉上から未来を奪ったグレイルードに怒りを覚えた。しかし同時に俺の頭は勝手にこれからのことを考えていて、それによって浮かんだ別の未来に不思議と安堵してしまったのも事実だ。
だが、それを簡単に受け入れるわけにはいかない。俺は打ちひしがれるグレイルードを執務室に残し、逃げるように姉上の元へと向かった。
§ § §
「――グレイを責めないで、ジル」
「ですが……!」
予想どおりの姉上の言葉に、咄嗟に反論を口にする。だが否定語以外に発せられなかったのは、こうなってよかったとどこかで思う自分がいたからだ。
それはまだ姉上が元気そうなのも影響しているだろう。ベッドにも入らず、部屋のソファに座る彼女はまだそれほど厚着すらしていない。
「私ね、実は嬉しいの」
姉上が言葉を続ける。その理由が理解できてしまうせいで、俺は何も返すことができない。
「こんなことになって、たくさんの人に迷惑をかけるんだって分かってる。だけど……知らない人に嫁がなくていいんだって思ったら、凄く安心したの」
そうだろうな、とは思っても言えなかった。政略結婚に前向きになれる人間もいるだろうが、姉上は別だとどこかで分かっていた。だが彼女はそうしないとこの国で生きていけない。駒にすらならないと判断されれば、今よりもずっと酷い扱いが待っている。
だから俺は、相手を選びこそすれ政略結婚自体は止めなかった。なるべく姉上に負担にならないような相手を――それだけを考えて、結果、成人前の少年を見つけたのだ。
しかしそれを姉上は知らない。彼女からしたら相手が誰でも同じだ。だから知ったところで意味はないと、伝えようと思ったことすらない。
そんなことを考えながら姉上の言葉の続きを待っていると、「ジルが私の結婚相手のことで頑張ってくれたことは知ってる」と、予想していなかった言葉が聞こえてきた。
「評議会が選ぶお相手はこの国に利益をもたらすけれど、どの方も随分とお年を召されていたって聞いたことがあるわ。そうでなくても愛人同然の側室だったりね。それをジルが周りを説得して、ルーデシアに嫁げるようにしてくれたんでしょう?」
「何故それを……」
「昔からここって不思議なことが起こるのよ。私にとって良いことが起きた時は、同時にジルを悪く言う人が増えるの」
困ったように姉上が笑う。人の口に戸は立てられないとはよく言ったものだ。俺が姉上に伝える気がなくとも、そして周りが彼女にわざわざ伝えようと思わずとも。人がたくさんいるこの場所では、箝口令を敷いていない情報はどこからか漏れ出てしまうらしい。
「…………」
いや、それくらい知っていた。知っていて何も手を打たなかったのは俺自身だ。本当に姉上に教えたくないのであれば、他のこと――彼女の母の死の真相のように隠すことはできる。
それなのにそうしてこなかったのは、後ろめたさがあったからだ。彼女を取り巻くものから彼女自身を完全に切り離してしまうのは、まるで他の連中と同じような行動に感じてしまったから。
改めて思い知らされた自分の小狡さに辟易する。姉上を守るためだと、彼女に対して誠実であるためだと言い聞かせて、実際は自分のことを守りたいだけだったのだ。完全に情報を遮断すれば、姉上が自分の婚姻に関して俺が手を尽くしたと知ることはなかったのに。知らなければ、こんな笑い方をさせることはなかったのに。
『変に逃げ道を塞いじゃ駄目よ?』
いつか姉上に言われたことを思い出す。彼女がそう言えたのは、俺がそういうことをすると知っていたからだ。他でもない彼女の逃げ道を俺が塞いできたと知っていたからだ。
それなのに姉上は申し訳なさそうな顔をすると、すっと俺の頬に手を当てた。
「ジルがずっと私を護ってきてくれたことは分かってる。あなたはとても優しい、自慢の弟よ。最後にとんでもない迷惑をかけてしまうけれど、これでもうあなたが悪く言われることはなくなるわ。そういう意味でも、私は凄くほっとしているの」
「姉上……」
この人は敏い。確かに勉学は苦手だが、人間のこと、特に人間の不完全さはよく理解している。
だから自分の身にこれから何が起こるのか、きっと分かっているのだろう。たとえ病を克服しても、その先はもうこれまでと同じではいられないことを。
「私、意外とたくましいのよ? 孤児院に通ったお陰で街の暮らしは分かってる。これでも一人で買い物をする時、世間話どころか値切ることだってできるんだからね。グレイなんかこんなに目をぱちくりさせて驚いていたのよ」
そう話しながら指で自分の目を広げる彼女は、とてもではないが王族の一人とは思えなかった。貴族の娘だってこんなことはしないだろう。恐らくは孤児院で子供達と関わるうちに身に付いた仕草だ。庶民のようなその振る舞いはこれからのことを考えると俺に安心感を与えたが、彼女に関する事実がそこに暗く影を落とす。
評議会にとっては邪魔者でしかないということもそうだが、姉上の容姿はこの王宮内ですら皆讃える。美しい貴族の女性に見慣れた者達が、姉上自身を悪く思った上でそこだけは認めているのだ。彼女が一人で外に出れば、どんな輩に目を付けられるか分かったものではない。
「ですがそういった街での行動は、護衛によって安全が確保されているからできるんですよ? 本当に一人になったら不要な揉め事に巻き込まれるかもしれません。第一、街で暮らすには買い物以外にも必要なことが数え切れないほどあるんです。今は物珍しくて楽しめても、日常の中に組み込まれれば面倒に思うこともあるでしょう。どう考えたって楽しいことばかりではないのに、どうしてそんな……」
楽観的でいられるのか――最後の一言は、どういうわけか口に出すのは憚られた。
だが姉上には伝わったはずだ。それに、彼女が俺の言いたいことを理解していないとは思えない。
それなのに姉上は笑った。いつもの天真爛漫な笑顔ではなく、大人のような笑い方だ。
「っ……」
見たことのない表情に俺の息が詰まる。まるで彼女が知らない人間に見えて、漠然と不安を覚えた。
「私、ここにいて幸せだったわ。だけどジルやグレイに気を揉ませてしまうことだけがいつも辛かった。それがなくなるのよ? あなた達を憂えさせるものがなくなるの。これを喜ばないでどうするのよ?」
初めて聞く姉上の本音に、自分の愚かさを思い知る。護れていると思っていた。姉上には何の憂いもなく過ごして欲しいと考え、そうしてきたつもりだった。
しかし違ったのだ。彼女はずっと、そんな俺やグレイのことを案じていた。気遣われていると理解して、そうさせている自分に引け目に感じていたのだ。
それをずっと子供のような笑顔で隠し、逆に俺達を気遣っていた――初めて知った事実に情けなくなる。目の前にいる大人びた女性は、庇護されるだけのか弱い存在ではない。間違いなく俺の姉だ。俺が姉上を護っているつもりでいたのに、彼女は俺にそう思わせると同時に、彼女なりに俺のことを護ろうとしてくれていたのだ。
「……それだけでいいんですか?」
敵わないな――そう思いながら俺が問いかければ、姉上は「え?」と首を傾げた。
「姉上はこれまで辛い思いをされてきました。不当な扱いも受けてこられた。それなのにたったそれだけを喜んでいていいんですか? もっと欲しいものがあるなら言ってください。あなたにはその権利がある」
「十分よ。欲張り過ぎたらバチが当たりそう」
そう困ったように言う姉上は、本当に十分だと思っていそうだった。だがそんなはずはない。姉上がこれまで受けてきた苦痛は、恨みとして周りに向けたっていいくらいのものだ。
こんな時くらい、いや、俺にくらいはもっと欲を見せてくれてもいいのに――言いようのない感情が湧き上がった時、姉上が「ああ、でも」と思い出したような声を発した。
「グレイを罰しないって約束はして欲しいわ。今回のことだって完全に私の我儘のせいだもの」
彼女の欲を聞けると浮き立った心は、その内容にせいで一気に沈んだ。
「それはできません」
「ジル……」
自分のことではなく、他人のことを気遣ってどうする。よりにもよってあの男のことなんて――幼い嫉妬心が俺の口元に力を入れる。しかしその幼さを見せたくなくて、俺は真剣な表情を作って姉上を見据えた。
「グレイルードは身分を剥奪します」
「ッ、ジル!」
「ですが、代わりにある仕事をさせます」
「……ある仕事?」
姉上が不安げに俺を見る。当然だ、俺は今グレイルードを罰する話をしているのだから。あの男も周囲の認識では貴族の一人。そんな人間が身分を剥奪されるというのは、この国では死罪に近いものを意味する。
だが今は、それでいい。グレイルードも姉上も全部捨てなければならない。彼らの持っているものは、決して彼らを守るものではないのだ。
「言ったでしょう? 姉上には護衛がいないと駄目だと。危険なのは市井の者達だけではありません、評議会もです。王族が一人で街にいると知られれば、悪用しようと考える人間は絶対に現れます。そうなるくらいだったらと、評議会は秘密裏に姉上を害そうとするかもしれません。だから彼らからあなたを護れる人間が必要なんです」
そのためにグレイルードには、全てを捨てさせて姉上の護衛をさせる――そう込めて言えば、姉上は狼狽したように視線を彷徨わせた。
「そんなこと……彼から全てを奪って、その上で私の護衛をさせるの……? そんなの酷すぎるわ! 彼の人生を潰してしまうようなものじゃない!」
「そうですよ。グレイルードは既に姉上の人生を潰しました。これくらいでないと見合わない」
「でも……!」
こんなふうに声を荒らげる姉上は初めて見た。本気でグレイルードを案じているのだと分かるその様子に悔しさが募る。
「奴がこの措置をどう思うかは知りません。そんなもの僕には関係がない。ですが姉上には違うのでしょう?」
「そうよ。だって私のせいじゃない。私の我儘を優先してくれたから、グレイは……」
「確かに、グレイルードは姉上を恨むかもしれません。一生あなたの傍にいなければならなくなるんですから」
「っ、それって……」
驚く姉上から顔を背ける。左耳が拾った息を呑む音に、彼女の表情が自然と思い浮かぶ。
「でも……それで都合が良いのは私だけじゃないの? 私はグレイと一緒にいたいけれど、こんな……こんなふうに、彼から選択肢を奪った状態で……」
「言ったでしょう、恨まれるかもしれないと。姉上は今回のことを自分の責任だと言う。ということは、奴にとって自分が全部失うのは姉上のせいだということになります」
「ッ……」
「どうしますか? 僕は罰を考え直した方がいいでしょうか」
そう問いかけることで、俺はやっと姉上の方を見ることができた。我ながら意地が悪いと思う。聞き方も、このタイミングで気持ちが軽くなるところも。
グレイルードに恨まれるというのは、姉上にとっては耐え難いことだろう。それを回避したいかというこの問いは、頷けば自分のせいだという彼女のこれまでの発言を覆すことになる。聞き方を変えたところで事実は変わらなくとも、わざわざ口に出した自分を内心で嘲笑った。
「……いいえ、ジルの言うとおりよ。私も、自分のしでかしたことの責任を取らなくちゃ」
大人の顔で姉上が言う。自分の知らない彼女の存在を何度も見せつけられて、グレイルードに怒りが湧く。
「グレイは私を恨むかもしれない……顔も見たくないって思うかもしれない……。だけど私は、全部奪ってしまうからこそ、彼の残りの人生を少しでも良いものにしなくちゃいけない。せめて『意外と悪くなかった』って思ってくれる程度にはね」
そう笑う姉上は自信がなさそうだった。そんなことはない、という言葉は飲み込む。正直あの男の反応は予想できていたが、それを伝えるのはこの口じゃない。
「姉上達がこの国を出たら、僕はもう一切助けられません。結果がどうなるかを確認できないのは残念ですが、どうか僕に姉上達の存在を感じさせないでください」
最後まで逃げ切れと込めて言えば、姉上はやっといつもの笑顔に戻った。
「ジル、ありがとう」
姉上が席を立って俺の身体を抱き締める。久しぶりにされた抱擁に居心地の悪さを感じながらも、彼女を押し退ける気は起きない。
「……姉上を護るための最善の方法を取るだけです。僕があいつを許せないことには変わりありません」
くつくつと姉上が肩を揺らす。俺はこれから起こるであろうことを頭の外へと追い出して、その揺れに身を委ねていた。
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