〈二〉不和

 ある日のことだった。姉上の部屋から自分の執務室に戻ると、扉の前でアルノーが待っていた。

 珍しくもないことだから、弟の前を通り過ぎて扉を開ける。そのまま俺が執務室に入ると、アルノーは「失礼します」と軽く頭を下げて、当たり前のように俺の後に続いた。


「また姉上のところですか?」


 俺が椅子に座るのを待ち構えたかのように、アルノーが口を開く。何度聞いたか分からないその問いにうんざりしたものを感じながら、俺は「だったら何だ」と仕事を始めた。


「最近多すぎませんか? ただでさえ先日の護衛騎士解任の件が問題になってるんですよ? 姉上の嫁ぎ先がルーデシアに変わったことも、兄上が手を回したのだと誰もが知っています。その上新しい護衛騎士にモリナージェの疎まれ子を軍から引き抜くなんて……ご自分の立場がどれだけ危うくなっているかご存知でしょう?」


 幼い顔にうんと険しい表情を浮かべ、アルノーがこちらを窺うように見る。しかしこの表情や声が作られたものだということは知っていた。俺より二つ下ではあるが、こいつも既に自分自身を道具として使うことを覚えている。そんな意味のないものを見る必要すらないと、俺は手元の書類から目を離さないまま「そんなことか」と応対した。


「俺が駄目ならお前が国を継げばいい。陛下もその方が喜ばれる」

「父上が望んでおられるのは兄上が更生することです。仕事だけでなく私生活も長子としての自覚を、」

「長子は姉上だろう」


 ゆっくりと視線をアルノーに移せば、その顔には狼狽が浮かんだ。

 更生、長子――アルノーの選んだ言葉に腹が立つ。周りの影響か、それともこいつの意思か。考える間もなく後者の方だと悟ると、その意図を思って自然と目元に力が入った。


「しかし姉上は他国に嫁ぐ立場で……」


 どうやらアルノーは前者であると主張する気らしい。真っ先に出てきた反論が周りの連中が口にするものと同じなのはわざとだろう。

 こいつは周囲の言葉を鵜呑みにするほど馬鹿でもなければ、その真偽が分からないほど幼くもない。周りの大人がどんな意図でそれらの言葉を発しているか全て理解した上で、こいつは俺にそれをそのまま伝えているのだ。


「嫁ぐかどうかは関係ない。この国にいる間なら姉上だって王位継承権を持っている。それなのに周りは母上を気遣って俺を長子と表現するが、アル、お前はどうなんだ? ろくに姉上と会話すらしないのは、あの人を姉だと思っていないということでいいのか?」


 はっきりと問いかければ、アルノーは少しだけ身体を強張らせた。


「僕には姉上の存在が、兄上の足を引っ張っているようにしか思えません」

「それは母上の言葉だろう? あの人のご機嫌取りがしたいならそうしていろ。あの人にそんな感情があるとは思えないが、母上が満足すれば父上も安心できるだろう」

「僕は……!」


 やっとアルノーの顔から仮面が剥がれる。予想どおりのタイミングに、弟の底を知って口端が歪むのを感じた。


「『僕は』、何だ?」


 俺の問いにアルノーが言葉を詰まらせる。少しだけ悲しそうな顔をしたのは、俺の声に嘲笑が混ざっていると気付いたからだろうか。


「僕は……兄上に、王位に就いていただきたいです。兄上は、僕の憧れだから……」

「お前は誰かの機嫌を取らないと生きていられないのか?」

「ッ、違います!」


 違わないだろう――内心でそう悪態を吐いて、必死そうなアルノーを見やる。こいつは昔からそうだ。常に誰かの顔色を窺って生きている。それが全員に対して同じならまだ可愛げがあったが、こいつは自分の得になる相手にのみそれをするのだ。

 長いものには巻かれろ、というのとは少し違う。周囲の人間に認められたいと思う一方で、その者達を手駒程度にしか考えていない。


 だからこいつは姉上を嫌う。姉上に好かれたところで何の得にもならないどころか、周囲から侮蔑の眼差しを向けられかねないからだ。

 アルノーにとって、俺に認められることも手段の一つ。それなのに姉上と関わることで俺の評価が悪くなれば、自動的に自分の価値まで下がってしまうと考えているのだ。


「すぐに露見する嘘を吐くな。憧れた人間に上に立って欲しいと思うほど殊勝な奴が、姉上のように無害な人間を敵視するわけがないだろう?」

「ッ……」

「気付いていないとでも思っていたのか? お前の中の俺はとんだ愚図らしい。よくもそんな無能に国を継いで欲しいと思えるな」


 口から弟を傷つける言葉が出る。だが俺はそれを止めようとは思わなかった。アルノーに対してはほとんど何の感情も抱いていないが、姉上を排除したいと考える部分だけは不快で仕方がないからだ。


「話がそれだけならさっさと出ていけ」


 俺が突き放すように言えば、アルノーは静かに部屋を出て行った。



 § § §



「――性格が悪すぎますよ」


 アルノーとの会話からしばらく経った日。いつものように姉上の勉強が終わるのを部屋の隅で待っていると、隣に来たグレイルードが呆れたような声で言った。


「何がだ?」

「とぼけないでください。王女殿下が孤児院に通われていると何故事前に言ってくださらなかったんです?」


 そう恨めしそうに言うグレイルードは、相当思うところがあったらしい。期待したとおりの反応につい口角が上がるのを感じながら、「必要ないだろう」と長身の相手を見上げた。


「〝あらゆる事態に冷静に対処せよ〟と軍学校では教わった。ならお前にはさして問題にはならないはずだ」

「おかしなことを仰いますね。軍学校に入学すらしていませんよ」


 形だけの笑みとともに嫌味を返されるのが、なんだかおかしかった。他の奴なら俺の言葉に反論はしない。それなのにグレイルードは言葉遣いこそ変えても、講師と生徒だった頃と同じように俺と話す。

 俺からそうしろと言った覚えはないのに、こいつは俺が望んだとおりにする。だが完全に俺に迎合するのではなく、違うことは違うとはっきり言ってくる。

 姉上と話す時ともまた違う心地良さが、少しだけむず痒い。


「それにしても、ミクラーシュ子爵とは随分懇意にされているようですね。評議会に知られたら事なのでは?」


 グレイルードが探るように俺を見る。姉上の護衛という仕事上、彼女に関わるものは正しく把握しておきたいと思うのは当然だろう。

 評議員は任期制だ。貴族の中でも評議員となる資格を持つ家は限られていて、何年かおきにその資格を持つ者の中から貴族達による投票で選ばれる。とは言え、この国に評議会に逆らおうとする貴族は少ない。だから事前の打ち合わせどおりの人間が毎回選ばれる。

 ミクラーシュ家は投票権こそ持つが、評議員となる資格は持たない。そんな家が俺に目をかけられていると知られれば、たちまち評議会はミクラーシュを取り込もうとするだろう。そうでなくても、何らかの圧力をかけることもあるはずだ。

 だがそれは、グレイルードが心配するほどでもない。


「多少の付き合いが見える分には問題ない。あいつの母――前子爵婦人はイングリッド様の侍女だったんだ。だから姉上関連で力を借りることはままある。むしろ評議会はミクラーシュに姉上を押し付けてさえいる」


 評議会の連中にとって、王族でも姉上とならいくら関わっても構わないのだ。どうせこの国を去る嫌われの王女――自分達の決定のせいでそうなったというのに、奴らはあたかも最初からそうだったかのように姉上を扱う。


「ではあなたが隠れ蓑にしていたことも知っていると?」

「それは知らない。あくまで姉上に関わることだけだ。俺との関係が知られれば鬱陶しいだけだろう」


 今のところ、評議会は俺に王位を継がせたがっている。となれば、俺の覚えが良い人間は何が何でも自分達の方へと引き込みたいはずだ。


「しかし子爵にとっては有益なのでは? あの方はまだ十四……ご両親の急なご逝去で爵位を継がれましたが、まだまだ後ろ盾が必要でしょう? あなたが関わっているのであれば、評議会に食われすぎないよう注意することもできるはずです」


 グレイルードの言うことは尤もだった。評議会の後ろ盾と、俺との関係性があればミクラーシュは、ギリアムは今よりも楽にその役目を果たすことができる。

 だがそれは、とうに捨てた考えだ。


「あいつと評議会を関わらせる気はない」

「何か事情が?」

「知らない方がいい」


 俺の言葉にグレイルードが肩を竦める。だが、それ以上は何も聞かない。これまでのやり取りで自分の仕事には関係のないことだと理解したのだろう。

 他の奴らもこれくらい物分りが良ければいいのに――俺の周りに纏わりつく連中の顔を思い出しそうになった時、勉強に一区切りのついた姉上がうんと伸びをする姿が目に入った。

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