回顧 夢幻の迷い路

〈一〉悪巧

 身体が鉛のように重かった。いや、実際に重いのだ。自分一人で歩いているのではなく、無駄に体格の良い男を背負っているせいだ。

 背負いきれないせいで男の足を引き摺っているが、別にいいだろう。こいつが大きすぎるのが悪い。身長もそうだし、体重だってそれに見合ったものがある。どちらも俺の体格では支えきれないから、こうなってしまうのも仕方がない。

 ただ、引き摺るせいで雪を巻き込んでしまうのは厄介だった。膝下までの雪はただでさえ歩くのが大変なのに、男の足が雪に引っかかるせいで余計に重さが増してしまうのだ。しかしそうと分かっていても解決する体力も手段もないものだから、ただただ目を瞑って歩き続けるしかない。


「ッ……!?」


 突然、ドサリと身体が雪に沈んだ。足がしっかりと上がっていなかったせいだ。前から倒れ込んだ俺の背中に、男の身体がのしかかる。柔らかい雪に手を突いて上体を持ち上げようとするも、もう力が入らない。

 それでもどうにかそこから這い出すようにして起き上がれば、弾みで仰向けになった男の顔が目に入った。


 沸々と、腹の底からどす黒い感情が湧き上がる。


「お前のせいで……!」


 男の首に手をかける。そのまま絞め殺してやろうと力を込めれば、真っ白だった男の首に赤みが差した。

 まだ生きている――目の前の光景が示す現実に、何故か指の力が抜ける。


「クソッ……!」


 自分がどうしたいのか分からない。あの日からずっと、何かがおかしい。自分の感情さえも理解できない状況に歯痒さを感じながら、俺はその場に蹲った。



 § § §



「――全員辞めさせちゃったの!?」


 姉上が驚きの声を上げる。それまでいつものように笑顔で菓子を頬張っていた彼女は、俺の話を聞くなり珍しい表情を浮かべた。


「ええ。使えない護衛なんている意味がありませんから」


 姉上の淹れた紅茶を飲みながら、ゆっくりと頷く。俺好みの香りに、舌にちょうど良い温度のそれが喉を潤す。相変わらず菓子に合わせて茶葉を選ぶのが上手いなと思いながらその味を楽しんでいると、向かい側に座る姉上が不安そうに俺を覗き込んでいることに気が付いた。


「使えないなんて言っちゃ駄目よ。彼らはちゃんと仕事はしてくれていたわ。それに……そんなことして大丈夫なの? 彼らって評議員の方々の縁者だったんでしょう?」

「姉上が気にするようなことじゃありませんよ」


 表情筋を全て使って愛想の良い笑顔を作る。姉上は俺の表情など気にしないが、彼女と話す時はいつもこうする。その方がこの顔に強く引き継いでいる母の印象が薄まると知っているからだ。それでこの顔が変わるわけではないが、母のしない表情でいることで、少しでも姉上の気持ちが楽になればと思うとやめられない。


「私はジルを心配してるのよ。難しいことは分からないけれど、あなたがすぐ無茶しちゃうことは知ってるつもりよ?」


 相変わらず不安そうに姉上が言う。だから俺は彼女を安心させるように、「大丈夫ですよ」と今度は柔らかい笑みを作った。


「確かに騒ぐ者もいますが、僕としてはむしろ肩の荷が降りた気分なんです」

「どういうこと?」

「代わりの護衛騎士を手配しています。実力も素性も、僕が一番信用できる者です。その者が姉上を護ってくれるのであれば、僕は余計なことに気を回さずに済むんですよ」


 言いながら脳裏に一人の姿を思い浮かべる。ジル・ミクラーシュの名前を借りて軍学校に通っていた時に出会った講師だ。他の者達とは違い、教鞭を取るためでなく戦地を生き抜くために磨かれた技術を持つ彼は、柔和な物腰の奥に獰猛な獣のような残忍さを隠していた。

 それが、俺の目を惹いた。死線を生き抜いた直後の兵達の放つあの狂気。多くの兵は休養期間中に心に平穏を取り戻すが、あの男は代理講師を引き受けられるほどの長い療養中だったというのに、同じ狂気を持ったままだった。

 それなのに一見すると、ただの物腰柔らかな男にしか見えない。ならば頭のネジが外れているのかと思いきや、倫理観はしっかりと持っている。その上軍人として身に付けるべき技術や知識も申し分ないものだから、俺は軍学校にいた短い期間中に何度も男に直接師事を仰いだ。


 そうして知った、男の為人。そしてそのおかしな立場。どれを取っても姉上の護衛をさせるにはうってつけで、それまでの護衛騎士を全員解任しようかと思い立った時には、既に男をどうやってこちらに引き入れるか考えていた。


「手配してるってことは、まだお返事はいただいてないんじゃないの? 引き受けてくれるかしら……」

「きっとやってくれると思いますよ。彼からしたら損はありませんからね」


 彼は長男としてモリナージェ伯爵に認知されながらも、その待遇は酷いものだった。ただ冷遇されるだけならまだしも、伯爵はわざわざ息子を軍学校に入れたのだ。モリナージェの名を持つ彼がそこにいるということは、それだけで彼が父親に疎まれていると、モリナージェ家にとっては邪魔者なのだと周りに示されているようなものだった。

 評議会の影響を受けにくい軍ですら、彼が武勲を立てても通常通り取り立てることができない。モリナージェ家は評議員の資格こそ持たないが、評議会とはかなり近しい位置にいる。そんなモリナージェ伯爵が邪魔と断じた者をすんなりと昇格させてしまえば、評議会からあらぬ反感を買いかねないからだ。

 だから彼は、グレイルードはその実力に見合わない地位にいた。年齢を基準に、他の目立たない者と同じくらいの階級になるよう調整されている。本来なら尉官どころか佐官に任命されていてもいいくらいの実力と実績を持っているのに、彼がその任を得ることは一生ないのだろう。そしてグレイルード自身もそれを理解しているはずだ。


 つまり護衛騎士の話は、彼にとっては自分に纏わりつくしがらみを振り払う絶好の機会。一度護衛騎士になってしまえば、たとえ軍に戻ってもその効果は残る。王族に認められたという実績が、軍の評議会に対する忖度を消し去るのだ。そうすれば彼は実力を正当に評価されるようになるだろう。

 だからグレイルードが今回の話を断るというのは考えづらかった。俺の知らない事情があれば別だが、この話を蹴るほどのものは滅多にないはずだ。


 そんなことを考えながら紅茶を飲んでいると、俺の考えていることを察したのか、姉上は「また悪巧み?」と眉根を寄せた。


「私が言うことじゃないけれど、今回は相手があることなんだからほどほどにね。変に逃げ道を塞いじゃ駄目よ? 好きな相手ならちゃんと気持ちを考えてあげないと」


 姉上の言葉に思わず顔に力が入る。「何故そんな話になるんですか」と表情を戻しながら言えば、姉上は機嫌良さそうに微笑んだ。


「だってジルがそんなに評価してる人って初めてだもの。ギリアムとも違うじゃない? なんだか嬉しいわ」

「それは彼の実力に関しての話です。彼個人に対しては特に何も思っていませんよ」

「そう? なんだかお友達を自慢するみたく聞こえたわ」

「勘違いです」

「ふうん?」


 姉上が目を細める。小首を傾げる彼女の口元は笑んでいて、それを見ていると居心地の悪さを感じる。


「……姉上」

「なあに?」


 姉上の笑みが深くなる。これ以上は何を言おうとも勝てないと悟り、俺は「……いえ」と空のカップに口を付けた。

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