〈七〉終わりと始まり
「――まさか……あいつが……?」
ジルの瞳が動揺に揺らぐ。浮かんだ考えを否定しようと必死に思考を巡らせる。だがどれだけ考えてみても、〝アルノーならばできる〟ということを肯定するばかりで、望んだ答えは得られなかった。
アルノーならできる――その考えが、ジルの鼓動を速くする。そう、彼ならできるのだ。……偶然を利用して、ケイラを殺すことが。キノクトベルでの一連の出来事だって、そうと分からないように偽装して治療薬の輸送を阻み続けることができる。
『本気でやっているんだよな?』
キノクトベルで、弟に問うた。長引く紛争への対応に本気で取り組んでいるのかと。解決できなければ姉が死ぬのだと暗に込めて、抱いた疑いを弟に向けた。
そしてその問いに、アルノーは本気だと答えた。だから信じた。いくらアルノーがケイラを嫌っているとはいえ、弟が姉を殺すなど有り得ないと思ってしまったからだ。
「馬鹿か、俺は……!」
ギリ、と強く握られたジルの拳が軋む。何故今までこの可能性を排除していたのかと、自分を殴りたくなる。
弟だから、だなんて。そんな理由はただの願望だ。起こった出来事の原因を探っているのに、そこに自分の望みを介在させてしまえば途端に事態の把握が難しくなる。全て把握していると思っていても、〝こうであるはずだ〟という偏見が本当に起こった出来事を覆い隠してしまう。
キノクトベルの紛争が長引いたのは、不運な偶然が重なった結果だと思っていた。だが当時から、ジルはヒルデルが手を回したからだという考えが拭いきれなかった。ただの偶然にしては出来すぎているから、だから何者かの意志が関わっていると思えてならなかったのだ。
それでも断言できなかったのは、ヒルデルにはそうする理由がなかったからだ。キノクトベルで事を起こしたところでヒルデルには何の得もない。ローゼスタットという国に打撃を与えられるわけでもなければ、彼らはケイラが氷の病であったことすら知らなかっただろう。
だから、被害妄想だと思っていた。ただそう思いたいだけだと考えていた。当時不仲だったヒルデルが自分に制裁してきたと、そうしてケイラの死は自分に責任があるのだとこじつけようとしているのだと思っていた。
だが、違う。これはこじつけじゃない――ジルの中で、怒りが沸沸と温度を上げていく。
あの紛争にアルノーが関与しているとすれば、全ての辻褄が合うのだ。ヒルデルは自分とケイラの関係を知らないが、アルノーは知っている。そしてアルノーにはケイラを排除する理由がある。そしてケイラが死に、その後に起こった出来事は全てアルノーの得になることばかり。
アルノーがケイラを殺したのだ――確信が、ジルの身体を動かした。
「イリスでん……ひっ」
ジルを見たリジットの顔が強張る。それまでの自信は目の前に現れた恐怖に薙ぎ払われ、彼の表情筋が歪な表情を作る。
「ッ、ジル!」
グレイの制止の声が響いた瞬間だった。ドッ……――リジットの顔に、剣が突き刺さる。悲鳴が上がる直前で引き抜かれた剣は、今度は口を深く貫く。
何度も、何度も。リジットが倒れた後もジルの手は止まらない。相手の顔を引き裂き、原形を失わせ、その下の氷を血に染めていく。
「ジル!」
悲痛な声と共にグレイがジルの腕を掴めば、ジルはやっとその凶行をやめた。
「急にどうしたんですか!?」
「……姉上を殺したのはアルノーだ」
「ッ……まさか……」
ジルの低い声に、グレイが驚愕を顕にする。信じられないとばかりにジルを見て、しかしその瞳の暗さにはっと息を吐き出した。
いつか見た、憎しみに満ちた目だ。理性に覆い隠される前の、深く昏い憎悪。
かつて見失ったそれが、今ここにある。その目を見て、グレイはジルが獲物を定めたことを知った。行き場を失った怒りが、憎しみが、その矛先をやっと取り戻したのだ。
それは今までのように、無理矢理こじつけたものではなく。生きて欲しいという自分やケイラの願いに応えるための時間稼ぎでもない。
「お前ができないと言ったことは、アルノーなら全部できる。姉上が病に罹ったのは偶然でも、薬の調達を邪魔し、そのためにキノクトベルでの争いを長引かせることがあいつにはできる。なんだったらあれを起こしたの自体アルノーかもしれない。あいつは意図して姉上の治療を阻んだんだ」
冷静な語り口だったが、そこには確かに怒りがあった。憎しみがあった。それがどれだけジルの中で確信があるかを示していたが、グレイは自分が飲まれてはいけないと、どうにか「証拠は……?」と問いかけた。証拠もなしに決めつけるべきではない――そう含めたグレイの問いに、ジルが「まだない」と静かに答える。
「だが、状況だけ考えればほぼ間違いないだろう。四年前のあの頃、ローゼスタットとヒルデルの関係は冷え切っていた。俺が奴らを阻んでいたからだ。なのにどうしてたかが紛争の始末にヒルデルが手を貸す? キノクトベルに手を出したところで連中には何のメリットもない」
「アルノー王子が、あなたを……あの方を売ったと……?」
「結果を見ればそうだろう。姉上の死をきっかけに俺は国を去り、アルノーは俺の立場を、ヒルデルは欲しいものを手に入れた。もっと早くに気付くべきだった。あいつは、姉上を家族と見做していなかったんだから」
「ですがその結果はあまりに予期しづらいものなのでは? アルノー王子やヒルデルが本当にそれを望んでいたのであれば、もっと確実な方法があったはずです。現にあなたは最初、ご家族を皆殺しにしようとしていた。私が止めなければ、あなたは……――っ」
反論しながらグレイが声を詰まらせる。自身の言葉の続きが浮かんだ瞬間、脳裏に過った嫌な想像。それがジルの考えている四年前の真相と同じだということは、そのジルの表情ですぐに分かった。
「お前が止めなければ俺は確実に殺されていただろうな。何人か殺した後か、それとも誰も殺せないまま乱心したと見做されていたか……そんなのはどちらでもいい。どちらにせよ、行き着く結果は同じだ。俺が国から消えること――レヴァスならそれで十分だろう。明確に自分を邪魔する存在がいなくなれば、あの男ならどうとでもできる」
「ならばアルノー王子は利用されただけだと?」
「かもな。もしくは自分は絶対に俺に殺されない自信があったか……あいつに心当たりがあるのなら、それなりの護衛を付けていたかもしれない。だがもし仮にあいつがレヴァスに唆されただけだとしても、最終的にヒルデルの手を取ると決めたのはあいつ自身だ。……その罪は変わらない」
付け足されたジルの言葉が、重たく空気を淀ませる。アルノーの罪――ケイラを死に追いやったことは、たとえどんな事情があろうと許されることではないと、その声の重さが物語る。
今ジルが語ったことは、証拠などどこにもない彼の想像だ。もしかしたら今後何か別の情報を得た時、全く事実とは異なると分かることだってあるかもしれない。
だがグレイにはもう、彼の考えを否定する気は起きなかった。ジルが言うのであればきっと事実もそうなのだろう。第一、仮に事実と異なっていたとしても、そんなことはどうでもいいのだ。
『ずっと護れてたんだ……それなのにどうして、最後の最後で俺は間違えた……? 俺がお前に姉上を預けなければ、あんなことにはならなかったのに!』
今よりもずっと高い少年の声が、グレイの鼓膜を撫でる。
『あなたが憎むべきは私です。あなた自身じゃない』
生きて欲しいから。ただ、その望みを叶えるためにジルの目を逸らした。そのせいでジルは憎しみを胸の奥深くにしまいこみ、不完全なそれしか表に出せなくなった。
しかし、それももう終わるのだ。明確な仇を見つけたことでジルの憎悪は戻った。怒りは再び燃え始めた。押し殺されていた本心が、その手の中に戻ったのだ。
「私は、あなたの邪魔をしてしまいましたね」
自分のせいで遠回りをさせてしまったと、グレイが表情を曇らせる。そんなグレイにジルは「いや、」と首を振って、困ったように笑った。
「お前は正しかった。もっと前にこの事実を知っていたら、俺は自滅していただろう」
穏やかな声だった。この四年の間に聞き慣れた淡々としたものとは違い、あらゆる感情の乗った、落ち着いた声だ。声質は随分と変わったはずなのに、まるでケイラを失う前のジルを相手にしているかのような錯覚をグレイに与える。思いがけず熱くなった目元の熱をグレイがやり過ごそうとしていると、ジルが自分を見ていることに気が付いた。
「お前の仕事はなんだったんだ?」
前置きのない問いに、グレイが「仕事?」と首を傾げる。
「前に言っていただろう。姉上の仕事の途中だと」
そう補足して、ジルはリジットの死体から剣を引き抜いた。赤く染まった刀身をナイフの柄で軽く叩けば、凍りついた血がパラパラと落ちていく。
まるで花びらのように散るそれを見ながら、グレイは静かに息を吸い込んだ。
「自分が死んだら、あなたの傍にいてくれと。たとえ拒まれても、ずっと傍にいて欲しいと」
「……そうか」
その答えにジルが目を伏せる。綺麗になった剣を鞘に収めれば、キンと小さく音が鳴った。
「ギリアムは墓守だ」
ぽつり、ジルが零す。唐突な言葉にグレイが目を瞬かせていると、ジルが「お前も気付いていただろう?」と続けた。
「ミクラーシュの敷地内に俺が姉上を葬ったと。あの庭だ。あいつには墓の管理を任せている」
「そうだったんですね。だからミクラーシュ子爵はあなたとの繋がりを……」
「ああ。あいつに何かあれば、姉上の墓を守る人間がいなくなる」
そこまで言うと、ジルは深く深呼吸をした。そして改めてグレイと目を合わせる。この四年間で何度もその機会はあったのに、これまでとは全く違う感情に苦笑が零れた。自分は姉とこの男に護られていたのだと、苦いような、しかしむず痒い感覚が胸を過る。
だが、それももう終わりだ――ジルは再び大きく息を吸うと、ゆっくりと口を開いた。
「姉上からの仕事はもう終わりにしていい。ここから先にお前を巻き込むつもりはない。お前まで、俺の家族殺しに付き合う必要はない」
自分のものとは思えないほど穏やかな声が出て、ジルは自分の心境を知った。
四年間抱き続けたグレイへの憎しみは、もうない。元々がグレイにそう誘導されただけなのだ。根拠のないその感情は真実に気付いた今、この胸に残っている意味すらない。
四年前のグレイの過失は、確かにケイラの死のきっかけにはなった。だが実際に悪意を持って手を加えていた人間が別にいると分かった以上、その過失を責め続ける必要はない。
何故ならケイラ本人がグレイを憎んでいなかったからだ。むしろその行動に感謝し、幸せをも感じていた。彼を憎み続けていたのは自分のエゴだ。自分を守るために、グレイに
だからもう、終わりにしていいのだ。グレイはケイラと共にあるべきだ。ここまで手を汚させたが、家族殺しまでは流石にさせられない。そんなことをさせればきっと、ケイラを怒らせてしまう――未だ姉の顔色を気にする自分に気が付いて、ジルは「はっ……」と笑い声を漏らした。姉が近くにいる時と同じ、本心からの笑みだ。
そんな自分の行動に居心地の悪いものを感じていると、グレイが不機嫌そうに自分を見ているのに気が付いた。
「何だ?」
グレイの反応の理由が分からず、ジルが首を捻る。
「勝手すぎますよ」
「何?」
「仇を討ちたいのは私も同じです」
強い声にジルが目を丸くする。ジルが何も言えずにいると、グレイはこれ幸いとばかりに言葉を続けた。
「あなたが命じないのなら、この先は私の意志で行きます。たとえあの方が望まずとも、私は聖人君子じゃないんです。仇が存在すると分かっているのに、ただ余生を墓参りだけして過ごすだなんてできないんですよ」
少しだけ咎めるように、グレイの視線が強くなる。姉に叱られたかのような錯覚にジルが固まる。するとその姿を見たグレイはおかしそうにふっと笑って、「それにほら、」と表情を和らげた。
「私はあなたに殺されなきゃならないんです。先に死なれたら困るんですよ」
苦笑しながらグレイが言う。本気で言っている様子の彼に、ジルの喉が小さく動く。
「……そうだな」
それだけどうにか返すと、ジルはくるりと踵を返してイヒカの待つ方へと歩き出した。
§ § §
カラン、カラン……――しんと静まり返った氷の大地に、無数の鈴の音が不規則に響く。白い装束を着た者達が列を成し、進んでいく先には何もない。
けれどその先頭には、美しい氷の彫像があった。まるで椅子に座っているかのようなその彫像はティリエリだ。氷となった彼女は
その列には、イヒカ達の姿もあった。邑から離れたところに避難していたニムリスと鈴を使って合流し、この式が執り行われると決められたのは昼間のこと。夜を待ち、出発するニムリスを見送ろうとしていた彼らを、ニムリスの民は受け入れたのだ。
白い衣を纏った者達の中では、彼らの姿は酷く異質に見えた。だが今、それを言及する者はいない。白い葬列は氷の大地を淀みなく進み、そして、ある場所で止まった。
葬列の中から、数人の者達が進み出る。彼らが大事そうに抱えているのはティリエリだ。そして、その中にはイヒカもいた。
「いいの? イヒカを行かせて。隠してたんだろう? 葬式ってことは、きっとそういうことだと思うけど」
「それは俺らの都合だ。……もう、口出せることじゃねェよ」
待機する葬列の中、リタとヒューが言葉を交わす。それを近くで聞いていたジルとグレイは不可解そうな顔をしたが、今は何も言うまいと、視線をイヒカに戻した。
他の者達と同じように、イヒカが前へ前へと歩を進めていく。この後はどうするのかと、イヒカは聞く気にならなかった。死者は入口から還す――それがニムリスの習わし。ならば向かう先はあの世の入口、大きな氷の亀裂だ。今はただティリエリに傷を付けないように、ただただ真っ直ぐに、着実に、足元だけを見て歩き続けることしかできない。
「――別れを」
先頭を歩いていたヴィドは歩を止めると、そうイヒカに告げた。彼が今はティリエリの親代わりだ。移動の多いニムリスは親族の到着を待たずに死者を送るため、式を執り行う邑の長が親代わりを務めるのだとイヒカは聞いていた。
「……もう済ませた」
小さく言って、瞼を伏せる。と同時に、はらりと一粒の涙が落ちた。咄嗟に肩でそれを拭っても、一度流れ出したそれはイヒカの意思を無視して彼の頬を濡らし続ける。様々な感情が渦巻いていたはずなのに、今は別れだけしか感じられない。これでもう本当に終わりなのだという実感が、イヒカから涙の制御を奪う。
そんな彼の姿にヴィドは何も言わずにゆっくりと頷くと、周りの者達に合図した。
一歩、二歩……それだけ進んで、止まる。ヴィドがイヒカには理解できない言葉で何かを言う。これが本来のニムリスの言語なのだろうとイヒカがぼんやりと考えていると、腕に感じていた重さがふっと消えた。
「ッ……」
ティリエリが亀裂に去ったのだ――腕の感触だけでそう悟る。足元だけを見続けていた目が、その後を追う。
最期に一目だけ。
そう願ったイヒカの目に、信じられない光景が飛び込んできた。涙は止まり、呼吸すらも奪われる。
「なんだよ、これ……」
目の前に広がるのは大きな亀裂。これまでに見たことがないくらいに巨大で、そして――
見覚えのある花で覆い尽くされていた。
第四章
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