〈六〉姉と弟
銃声はすぐに止んだ。ジルとグレイがローゼスタット兵の中に駆け込んだからだ。
打ち合わせたわけでもないのに迷わず兵達を盾にしたジルに、グレイは悪い手本を見せてしまったと苦笑を零した。フィーリマーニで一人残った時、一瞬でもジルに兵の中に逃げ込む姿を見られてしまったのだろう。
同士討ちを避ける兵士達は銃が使えない。中には射撃の精度に自信のある者がいるかもしれないが、寒さで大きく身体が震えるせいで狙いが定まらないはずだ。
銃をろくに使えなければ、身体を使うしかない。だがこの環境でまともに動ける者はほとんどいなかった。
いくらローゼスタットの冬も厳しいとはいえ、イースヘルムの気温は次元が違う。寒さで動きが鈍り、力の入れ方を間違えた途端、解けた氷に足を取られる。水溜りの水をジルが大きく蹴り上げれば、兵達の唯一露出した目元にかかり、即座に凍って彼らに激痛をもたらした。
「このッ……!!」
兵の一人がジルに飛びかかる。剣を持った彼の右腕を抱え、「やれ!!」と周りに叫ぶ。その声に武器を持った兵達が集まってくるのを見ると、ジルはすうと息を大きく吸い込んだ。
そして、顔を右へ。戸惑う兵の目元をじっと見つめる。
「何……を!?」
ふうっ、とジルが勢い良く息を吐き出す。相手の目にかかったそれはたちまち眼球の表面を凍りつかせ、あまりの痛みに兵がジルから手を離した。
「何日外にいると思ってる」
呆れた顔で言って、集まっていた兵達に向き直る。
「
後方からのその声を聞いた瞬間、ジルは咄嗟に剣を構えて振り返った。顔の前に出した刃に、同じく鋭い鉄がぶつかる。鈍色越しに見えた相手の目元は健康な者のそれ。
ガウンッ……――銃声が響き渡る。呻き声が上がる。
だがそれは、目の前の兵からではない。
「ッ、何故……!?」
剣を押し合う男に答えることなく、ジルは再び引き金を引いた。二度、三度。その度に悲鳴のような声が上がり、二人の周りの兵が倒れていく。
「よせ! この卑怯者が!!」
男がジルを止めようと腕に力を込める。と同時に、また銃声が鳴り響いた。抵抗しようとしていた男が身を強張らせる。自分が動けば他の誰かが死ぬのだと、嫌でも理解させられたからだ。
「俺は楽な方法を取っているだけだ」
「それが王族のやることか!?」
「ここに来ている時点で承知しているのでは?」
ふっ、とジルが嗤う。悪意のある笑みに兵が顔を怒りに染めた時、彼の頭のてっぺんから血飛沫が上がった。
「ほら、楽に終わった」
兵の顎下に銃を突きつけたまま、ジルが口端を上げる。
「真正面からやり合うほど、俺はお前達を見くびってはいない」
事切れた兵の胸を蹴り飛ばし、体勢を整える。周囲に目を向けて、他の
そして狙いを定めると、再び自分に向かう兵達の中へと入っていった。
§ § §
その後も地獄絵図のような光景が続いた。少し前まで一〇〇名近くいたはずのローゼスタット兵は、もうほとんど残っていない。赤く染まった彼らの死体が氷の大地を覆い隠し、辺りには鉄の匂いが漂っていた。
その匂いは肩で大きく呼吸するジルからも発せられていた。多くは返り血だが、傷も負っている。
本来であれば、兵達はとっくに自分を殺せていただろう。時々グレイの助けもあったとはいえ、彼ら個人の能力はそれを問題にしないほど高いのだ。
だが部隊として動く兵は仲間を見捨てない。ローゼスタット軍にはそういった規律があるし、同時に兵達も情を持ち合わせているはずだからだ。それが彼らの動きを鈍らせ、本来の力を発揮させることを阻んだ。
『よせ! この卑怯者が!!』
少し前にかけられた言葉が脳裏を過る。卑怯者で結構だと、ジルの口が歪む。
真っ当に生きたところで馬鹿を見るだけだ。清廉潔白な者が故なく疎まれるような国が自分の母国だと気付いた時、良心だとか正義感だとか、そういった綺麗事なんて信じられなくなった。だからこそどんな手でも使って来た。自分が汚れることで清い者が清く在り続けられるならば、どれだけこの手が汚れても構わない。
今はもう、その清い者がこの世にいなくとも。〝彼女〟の死の真相に近付けるのであれば、そして〝彼女〟への愚かしい行いをした者達に償わせることができるのであれば。
そのためであれば自分はいくらでも汚く、卑怯な人間に成り下がって構わない――ジルはそこまで考えると、目の前に向かって笑いかけた。
ジルの前には今、リジットがいた。ジルの身体にある一番深い傷を負わせたのがこの男だ。何度も果敢に向かって来る相手に致命傷とならない傷を負わせ続け、やっと膝をつかせることができたのが今し方のこと。
リジットの傷口から流れる血が、地面に落ちる前に凍っていく。
「お前はアルノーのお気に入りか。
嘲るような声音に、リジットの目尻がピクリと動いた。
「
「どうせそう誘導されただけだろう。まあ、そんなことはどうでもいいがな。お前達はヒルデルに下った……それだけが問題だ」
「ッ、ヒルデルとの関わりを嫌うならば四年間も国を空けるべきではなかった! 果たすべき責務を放棄しておいて今更こんなことをされるだなんて、ご自分でおかしいとは思わないのですか!?」
それは自分が正しいと信じている者の言い方だった。そんな相手の物言いに、ジルが不可解だとばかりに眉を顰める。
自分が国を出たことと、ヒルデルとの関わりの因果関係が分からないからだ。全く心当たりがないわけではないが、直接的な原因にはならないだろう。そして何よりそれを一介の軍人であるこの男が知っているのはおかしい。
アルノーと関わりがあるせいか――ジルはそう思い至ると、「国にいれば何か変わったと?」とそれまでと変わらない調子で問いかけた。
「何か変わったか、ですと……? 本気で仰っているのですか……? ッ、あなたならアルノー王子に意見できるでしょう!? それにあの方がどれほどの心労を抱えてこられたか、少し考えれば分かるはずです! そうすればこんなことしようだなんて思うはずがない!」
「あいつの副官気取りか? こんな僻地で面倒事を押し付けられているのに」
ジルの問いにリジットが苦々しく顔を歪める。不愉快を顕にした眉間には深い皺が刻まれ、「気取っているわけではありません」と唸るように言った。
「確かにそのような職位ではないかもしれません。ですが私はこの四年間、あの方を陰ながら支えてきたつもりです」
「あれの愛想の良さにほだされたか」
ジルが馬鹿にするように笑えば、リジットはキッと目を吊り上げた。
「あなたはあの方を理解していない! だからあの方の苦労が分からないのです! キノクトベルのことだってもう活路は見えていました。それをあなたは壊したんですよ! あなたの身勝手な行動が、あの方の努力を全て無駄にしたんです! それも、無関係な国民を虐殺するという暴挙でもって!!」
リジットが大きく肩で呼吸する。その叫びにジルは顔色一つ変えなかったが、近くで聞いていたグレイは表情を硬くしていた。
彼の顔に浮かぶのは、驚愕ではなく悲痛。ジルはキノクトベルで無関係な国民に犠牲を出していた――初めて知った四年前の出来事が、グレイの瞳を震わせる。その灰色の瞳にはジルが映っていたが、そのジルはグレイに顔も向けないまま、「活路が見えていただと?」と蔑むようにリジットを睨みつけていた。
「一体どういう考え方をしたらそんなふうに思える。お前はあの場で話を聞いていただろう? それなのによくそんなことが言えるな」
「だからご自分の行動は正当化できると? はっ! 従者が従者なら主も主だ。王女殿下を弑逆した大罪人の主が、己の権力に飲まれた愚かな子供だとは!」
リジットが高らかに言う。侮蔑の視線をジルに向け、「あの時のあなたには何も見えていなかった」と呆れたように笑いながら首を振った。
「だからあなたは守るべき国民を切り捨てるだなんて手段が取れたんですよ! 本来であればあなたもまた大罪人です。反逆どころか武器すら持っていない、避難途中の国民を殺したんですから! そんなあなたをアルノー殿下がどれほど苦労して評議会や軍から守られたか、あなたのように自分勝手な人間には想像もできないのでしょう!!」
リジットはそこで言葉を切って、再び大きく息を吸った。そして、目を細める。先程よりも更に軽蔑の色を強くしてジルを見つめる。
「王女殿下のこともあなたのご命令なのでは? あの方が嫁がれれば国への影響力が増す。それを恐れて、あなたはモリナージェに実の姉の暗殺を命じたのではないですか!?」
その言葉に反応を示したのはグレイだった。先程まで悲痛に歪めていた顔に厳しい表情を湛え、額にははっきりと血管が浮かんでいる。怒りを耐えるようにリジットを睨みつける彼の肌が、激情のせいで赤みを増す。
視界の端にその姿を捉え、ジルは小さく息を吐いた。グレイの怒りの原因は分かっている。それはケイラの暗殺犯扱いされているせいではない。何も知らない人間が彼女の死を語るのが許せないのだ。
ジルにもその気持ちは分からないでもなかったが、グレイとは違って怒りは感じなかった。
「言いたいことはそれだけか?」
だから淡々とした調子で確認すれば、リジットは「開き直られたんですか?」と嘲るように笑った。
だがやはり、何も感じない。
「開き直る必要すらないだろう。お前の言葉には何の価値もないんだから」
「ッ……」
ジルは何の気なしに言ったつもりだったが、口からは呆れたような笑いが零れ出た。仕方がないか――笑ってしまった自分の心境を思い、内心で再び苦笑する。
リジットの話は嘘ばかりだ。彼にとっては真実なのだろうが、事実ではない。ケイラの話は国の用意した偽りの真実だし、アルノーのことはリジットの思い込みだ。
アルノーがジルのことを庇ったのは、決して彼が兄想いだからではない。キノクトベルでの出来事が公になれば、他でもないアルノーの立場が危うくなるからだ。彼は自らの保身のためにキノクトベルで起きたことを揉み消したのに、アルノーに心酔しているらしいリジットはそれに気付いてもいない。
こんな男の話などこれ以上聞くだけ無駄だ――ジルが大きく溜息を吐き出す。するとそれまでわなわなと震えていたリジットが、「ッ、ご自分だけが正しいと!?」と声を荒らげた。
「それが愚かだと言うんです! 他者の言葉に耳も傾けず、己の考えを押し通す……その愚行のせいでどれだけ周りが迷惑を被っているか考えもしない! あなたは先程否定していましたが、キノクトベルのことは本当に解決間近だったんですよ! アルノー殿下がヒルデルに掛け合い、ドラスト派を一掃する手筈が整いかけていたというのに……!」
「……ヒルデルだと?」
リジットの口から出た名前に、ジルの眉が動く。それは有り得ないと、一気に思考が巡る。
四年前、アルノーはヒルデルとは関わっていなかった。何故ならヒルデルとの対話は全て自分が行っていたからだ。対話の内容を知ることはあっても、アルノーがヒルデルと直接関わる機会などあるはずがない。
『あなた達の関係を外の人間は知りません』
ジルの脳裏にグレイの言葉が過る。そう、外の人間は自分とケイラの関係を知らない。表向きは他国のそれと同じ姉弟関係だった。自分一人ではなく、国がそう見せようとしていたのだ。
だから国外の、いや、王宮の外の人間すら自分達の関係性は知らない。ケイラが自分の弱味になりうると、外の人間は誰も思っていなかったはずだ。
しかし、アルノーは違う。自分とケイラの弟であり、王宮内部の人間であるアルノーは、自分がどれだけケイラを大事にしていたかを知っていた。知った上で、好ましく思っていなかった。
『また姉上のところですか?』
何度もアルノーにかけられた言葉が、ジルの耳の奥に響く。その声から感じるのはいつだって嫌悪だった。姉に対する周りの評価を聞かされて育った弟は、本人も知らないうちにケイラを嫌うようになっていたのだろう。
だからこそ彼は姉を姉と思っていなかった。自分達の足を引っ張る存在だと考え、ケイラが歩み寄ろうとしても頑として受け入れることはなかった。
あの時もそうだった――ジルの記憶が蘇る。
キノクトベルでの紛争が起こった時、薬の輸送方法を確保するためにアルノーの提案した問題解決手段を受け入れなかった自分に、彼は言ったのだ。
『だからってこのまま膠着状態を続けるんですか? その分この地の争いが長引きます! 早く解決したいからいらっしゃったのでしょう!?』
まるで他人事のようだと思った。アルノーはケイラが死に瀕していることを知っていたのに、紛争の解決を優先し薬の輸送を後回しにしようとしたのだ。
つまりは彼にとって、ケイラとはその程度の存在。国益を優先することは為政者としては正しいのかもしれない。だが、姉への情に心揺らぐ素振りすら見られないことが、酷く不愉快だった。一度も考慮しようと思わないほど、弟は姉を想っていないと思わされたからだ。
そんなアルノーが、ヒルデルと関わっていた。それも、自分の知らないところで。
その事実に嫌なものしか感じない。当時のヒルデルとローゼスタットの関係を思えば有り得ないことなのに、リジットの言っていることが正しければ、その有り得ないことが起こっていたのだ。
『あなたは先程否定していましたが、キノクトベルのことは本当に解決間近だったんですよ! アルノー殿下がヒルデルに掛け合い、ドラスト派を一掃する手筈が整いかけていたというのに……!』
ジルの頭の中を、リジットの言葉が木霊する。
当時のアルノーがヒルデルと対等に話せるだろうか? 一体どんな見返りがあれば、ヒルデルは自分よりも権力の弱い弟に手を貸し得る?
その疑問の答えは、唐突に浮かんだ。
『僕には姉上の存在が、兄上の足を引っ張っているようにしか思えません』
それは、いつもどおりただの苦言だったのかもしれない。そこに深い意味はなかったのかもしれない。だが――
『それでも僕には、兄上だけが……――』
かつて聞き流した言葉が、不気味さを纏う。
「まさか……あいつが……?」
それを否定するだけの材料が、ジルには思い付かなかった。
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