〈五〉怒りの発露
炎は依然、赤い光を発し続けている。ジルの左頬が赤く照らされる。しかしもう、それも間もなく終わるだろう。テントは既にほとんど燃えてしまって、残るは物資の中でも燃えにくいものだけ。イースヘルムの極寒の風は可燃性の高い燃料を使っていなければ、その火を簡単に吹き消してしまう。燃えやすい素材がなくなれば、消火せずとも勝手に火は消えるだろう。
だが、それらを気にする者はいなかった。ジルの放つ剣呑な雰囲気が彼から目を離すことを許さないのだ。
そこにいるのは自国の王子といえど、ただの青年。しかしこの惨状を作った張本人。無差別とも言える攻撃を自国の兵に仕掛け、更に顔色一つ変えないその異常性に、彼の名前しか知らなかった者達の動きが奪われる。
それはリジットも同じだった。記憶にあるのはこの青年の冷徹さと、自らの死をも顧みない行動力。たとえ国そのものに反旗を翻し倫理に背く行いであっても、弟の制止に耳すら傾けず実行する傲慢さ。
状況によっては、それらは彼の美点として数えられるかもしれない。だが今はそんなふうには思えない。この相手はどれほど残虐な行いでも、そうと感じる神経を持ち合わせていないのだ――かつて抱いた青年への印象が、四年の時を経て脳裏に色濃く蘇る。
リジットの額に汗が滲む。姿は見えずとも、周囲を武装したジルの仲間に囲まれているのは分かっている。唯一手薄そうな正面にはジル本人と、彼に仕えているであろうグレイがいる。軍にいてグレイの実力を知らないわけがない。一体この場に残った兵達の何人が彼とまともにやり合えるのか、考えただけでも気持ちが暗くなる。
「――聞こえなかったのか?」
面倒臭そうにジルが小首を傾げる。それで自分の沈黙の長さを悟ったリジットは、慌てて口を開いた。
「イ、イースヘルムの――」
「〝イースヘルムの調査〟だなんて答えたら命はないと思え。俺の質問の意味が分からない無能に生かす価値はない」
「ッ……」
話そうとしたリジットを、ジルが即座に止める。それが表向きの理由だということは分かり切っていると言わんばかりの言葉に、リジットは誤魔化しが効かないことを悟った。
「……拠点の確保です。イースヘルム探索を進めるにあたり、いくつか拠点となる場所を確保せよと」
リジットの目が、ジルを探るように見る。本来であれば正直に話していい相手だが、直前の彼の行いのせいで本当にそうしていいのかが分からない。
少なくとも味方ではないことは明らかだ。それでも、どうすべきか答えが出ない。取りうる選択肢が複数あるのに、その中の一つたりとも確信を持って選ぶことができない。
「拠点の選定基準は」
ジルの冷たい声が、リジットから更に余裕を奪う。周囲の様子を探ろうにも、そんな素振りを見せようものなら状況が悪化するだろう。しかしその直感が、とうとうリジットに答えを決めさせた。
「ヒルデルから指定された範囲内で、安全と食糧確保の容易な地を選べと」
答えたのは偽りのない情報。それが一番安全な道だと、リジットの経験が告げた。
「そこに住民がいた場合は?」
「それは……」
「知らずに来たわけではないだろう?」
「……追い払えと。生死は問わず」
リジットの答えを聞いて、ジルの目には力が入った。予想していた答えだったが、改めてローゼスタット兵から聞くことで実感が湧く。しかも〝ヒルデルから指定された範囲〟とリジットが口にしたということは、彼はヒルデルとの関係を多少なりとも知っているのだ。
それなのに彼は、通常よりも命を落とす可能性の高いこの任務に部下を率いてきた。その事実が、ジルの腹の虫を刺激する。
「お前達はローゼスタット軍の人間のくせに、ヒルデルのために殺すのか? それも自分達を攻めてきたわけでもない相手を」
馬鹿にするようにジルが言えば、リジットは厳しい表情で「……はい」と頷いたものの、すぐに「しかし!」と顔を上げた。
「今回の任務はアルノー殿下の命です! たとえヒルデルと関わりがあるといえど、あの方の命令とあらばローゼスタット軍は従わないわけにはいきません!!」
「つまりお前自身の感情は関係ないと?」
「勿論です! 我々はローゼスタット軍、国民のために滅私奉公せよという入隊時の誓いを違えたりはしません!」
リジットの言葉にジルが歪な笑みを浮かべる。「国民のため?」嘲るように言って、リジットを睨んだ。
「だがこの行軍はヒルデルのためだろう? 自分で筋の通らないことを言っていると分からないのか」
「大義のためです」
「大義?」
ぴしゃりと答えたリジットに、ジルが怪訝な目を向ける。
「国民のためにローゼスタット軍は強くあらねばなりません。そしてそれを実現するためにはヒルデルの技術が不可欠! たとえそれがこれまでの軍の方針と違えようと、最終的にローゼスタット軍を豊かにするのはアルノー殿下の打ち立てた策の方です」
「それで国民が困窮しようと致し方ないと?」
「恐れながらイリス殿下、あなた様は国におられなかったためご存知ないのでしょう。この四年間で国内は大きく変わりました。軍は増強され、管理区も整理されたのです。一時的に国民には負担をかけていますが、それもあと数年以内には解消するものと――」
「黙れ」
「ッ……」
雄弁に語っていたリジットが、びくりと肩を震わす。彼の見る先にいるジルは全身に怒りを滲ませ、侮蔑の目でリジットを睨んでいた。
「お前は軍人だろう。どの立場で物を言っている」
低い声がその場に緊張をもたらす。二十にも満たない青年の威圧感に、リジットが身体の自由を失う。
当然、他の兵達もだ。彼らの脳裏に叩きつけられるのは先程までの地獄絵図。まるでそれを今から再開してやろうと言っているかのようなジルの怒気に、戦いに慣れた者達が竦み上がる。
「耳障りの良い言葉ばかり並べているが、どうせ誰かにそう聞いただけだろう? そんな話をよく声高に言えるな。自国の技術や民を切り売りし、中枢に国ですらない組織の介入を許しているアルノーのやり方が最善だと? これでヒルデルが国家ならただの侵略だと何故気付かない? アルノーに考えがあったとしても、それを知らないお前達がどうして何も疑問を持たない?」
周囲に放たれていた火が、燃え尽きようとしていた。ジルの顔を照らしていた明かりは弱まり、代わりに暗闇が彼の姿を黒く縁取る。
「お前達はヒルデルが何のためにローゼスタットに近付いたか知っているのか? ここで今、連中に使い潰されているという事実すら致し方ないと受け入れるのか?」
ジルの言葉に、兵達が顔を強張らせていく。
「救いようがないな」
そうジルが吐き捨てるように言った瞬間、最後の火が消えた。
「俺は国を捨てた身だ。今更あの国がどうなろうと知ったことじゃない」
視線を落とし、ジルが腰の剣に手をかける。
「だがヒルデルに与することだけは許さない。お前達がヒルデルに飼い慣らされたアルノーに従うというのなら、俺は今ここでお前達を全員殺す」
「なッ……!」
「ヒルデルが俺の邪魔をすれば排除する。お前達も連中と同じだ。今後ヒルデル側としてお前達が俺の前に現れるのが分かり切っているんだ、今始末しておいた方が楽だろう?」
ローゼスタット兵は驚愕の面持ちでジルを見ていた。ある者は彼の正気を疑い、またある者は退路を探して視線を彷徨わせる。何せ相手は王族、攻撃されるのが分かっていてもジルに直接反撃することは彼らの規律に反する。
ジルもそれが分かっているのか、狼狽する者達を見て嘲るように鼻を鳴らした。
「抵抗したければ好きにしろ、咎めはしない。まあ、そんなことしたところで無駄だろうがな」
ジルが剣を抜きながら言えば、リジットが血相を変えて「ッ、モリナージェ!」とグレイを呼んだ。
「殿下をお止めしろ!! お前ならできるだろう!?」
その言葉に含まれているのは実力のことだけではなかった。既に国を裏切った人間ならば、王子たるジルにどんな行いであれできるだろう――そんな打算の見えるリジットの発言にグレイが眉を顰める。「何故私が?」呆れたように首を傾げれば、リジットは「この疎まれ子が……!」と彼への怒りを顕にした。
「グレイ、お前は逃げた奴らだけ対処しろ。この馬鹿共は俺がやる」
それは流石に無謀なのでは――そう思ってジルを見たグレイだったが、彼の姿が目に入った途端、時が止まるのを感じた。
ジルが全身から怒りを漂わせている。いつものものとは明らかに違う、憎しみに近い怒りだ。そして普段であればすぐに隠されてしまうはずのそれは、今もまだ彼の身を包んでいる。
四年前と同じだった。ケイラが死に、全てのものに憎しみを向けていた時と同じ。あの時奥深くに沈んでしまったはずの感情が、今はこんなにもはっきりと目の前にある。
「イリス殿下……」
どことなく感じていたジルの変化。自分の失敗のせいで感情を発散させることができないでいた彼が、怒りのままに手近な命を奪い去ると言っている。
怒りをローゼスタット兵に向けるのはヒルデルへの感情のせいか、それとも別の何かか。そんなことはグレイにはどうでもよかった。これからやろうとしていることが悪行だろうともはや関係ない。
ジルがやっと自分の感情に向き合える――その機会が来たのだという直感に、グレイの胸が震える。
「何を黙ってる」
いつまでも返事をしないグレイに、ジルが怪訝な目を向ける。
『お前もだ、グレイルード。姉上を護れなかったお前だって八つ裂きにしてやる……!!』
あの時ほど自暴自棄になっていないはずなのに、あの時の彼を連想させるその雰囲気に、グレイの喉がゴクリと動いた。
「俺のためならなんでもやるんじゃなかったのか?」
「……ええ!」
歓喜を感じさせるグレイの声にジルは一層不可解そうな顔をしたが、すぐに前方へと視線を戻した。そして「逃げ場はなくなったな」と兵達に笑いかける。
「生きたければ戦え。この場で俺とグレイを殺せれば堂々と帰れるはずだ」
ジルのその言葉に兵達が状況を理解する。と同時にリジットが「撃て!」と声を上げて、その場には銃声が轟き始めた。
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