〈四〉赫く染まる大地

 真夜中のローゼスタット軍の野営地には、どんよりとした空気が漂っていた。

 ただでさえ寒さは身を強張らせ、気持ちを暗くしていく。そこに追い打ちをかけるかのように異常な早さで死者が出る。いくら死は覚悟の上と言っても、想定を大幅に上回るその数に隊員の士気はどんどん下がっていった。

 つい先日まで談笑をしていた相手が、今は荷物同然に氷の上に横たえられている。ここまで来る間は荷を載せるソリに積まれ、人間としての尊厳が踏みにじられていた。それでも誰も文句を言えなかったのは、そうしなければ運べなかったからだ。

 最初は一人ひとり、人間らしくソリに乗せられた。しかし死者の数が増えるにつれてそれも難しくなり、凍った遺体の上に新たな遺体を積まざるを得なくなったのだ。

 このままでは進行に影響が出ると、中隊長が判断を下したのは今日のこと。ちょうどいい林があるからそのすぐ側で休ませてやろうとの言葉に、異を唱える者はいなかった。


 死者はやっと、人としての尊厳を取り戻した。物のように重ねられることなく、林の近くに一人ずつ十分なスペースを取って眠っている。

 テントはそこから北に向かったところに立てられていた。林には入らない。見通しが悪くなるからだ。極寒の風を少しでも凌げるように木々の近くに野営地は設置されたが、林から何か来れば対処できるだけの距離は取られている。


 安全な空間だった。無数の死体がそばにあるが、やっと落ち着いて休むことができるようになったのだ。

 それでもやはり寒さと、近すぎる死が、兵達に安心することを許さなかった。テントの中にいれば寒さは和らぐが、上着を脱げるほど暖かくはない。

 ともすれば自分は、次に寝たらもう起きられないのでは――そんな暗澹あんたんとした未来への不安が、屈強な男達から希望を奪っていく。


 そんな中だった。コォン、コォン……と、野営地に不気味な音が響いた。


「なんだ?」


 見張りの者達が周囲を見渡す。するとすぐに、その音は林の方からしていると分かった。

 しかし誰も何の音か分からない。固い物同士を打ち付ける音にも聞こえるが、氷を叩く音とは少し違う。夜闇と木々のせいで音の出処を見ることもできず、ただただ記憶を辿って音の原因を考えることしかできない。それなのに、答えが全く思い浮かばない。

 自分達の知らない、イースヘルム特有の何かかもしれない――その不安が、音から感じる不気味さを増長する。正体が分からないからこそ恐ろしい。自然現象か、動物か。害のないものならいいが、足場の氷に何かがある前兆かもしれないし、見たことのない猛獣の放つ音かもしれない。


「総員、警戒態勢!」


 その指示でテントの中で休んでいた者達も外に出た。銃を持ち、林の方へと意識を向ける。


 コォン、コォン……音は依然、止まらない。


「三班、偵察へ行け! 四班、五班は援護を! その他の者達は待機!」


 男が声を張り上げる。すると一〇名程度のまとまりが三つ動き出した。彼らを見送る残りの兵はどこか不安な面持ちで、しかし自分が選ばれなくて良かったと安堵しているようにも見える。


 けれどその安堵は、長くは続かなかった。


 赤い光が兵達の背後を揺らめいていた。しかし林からの音に集中する彼らは気付かない。人知れずその光はだんだんと大きくなっていき、やがて兵達の足元に影を作った。


「ッ、火だ!!」


 誰かが叫んだ時にはもう、辺りには火が回っていた。テントが激しく燃え盛っているのだ。


「早く消せ!」


 命綱とも言えるそれらの惨状に、兵達が慌てて雪を掻き集める。その間にも炎は一気に燃え広がり、テントだけでなくその中の物資までもを焼こうとしていた。


「――可哀想なことすんなァ……」


 林の中で一人立っていたヒューは、木々の向こうからの悲鳴に眉を顰めた。その手にはイヒカが武器としている鉄の棒があり、遠くを見ながらも近くの木を打ち続けている。イースヘルムの氷のような木は、コォン、コォンと悲しげに鳴き、少し高いその音は遠くまで響いていた。


「さて、そろそろかね」


 棒を置き、背負っていた小銃に持ち変える。盗賊のアジトから回収したもので、数十発の連射が可能な銃だ。最新式のそれはどこかから盗まれたものだろう。ヒューの腕の中ではだいぶ小さく見えるが、大きさも射程距離も通常の小銃と変わらない。


「ったく、このサイズの銃は苦手だっつーのに」


 手袋を外していても用心金トリガーガードに指が挟まれそうだ。しかし今回は狙いの精度はどうでもいいとジルに言われているため、とりあえず前方に撃てれば問題ないだろう。

 ヒューは銃を構えると、林の外から銃声が聞こえ始めたのを合図に引き金に力を込めた。



 § § §



「――やだなぁ、ここ」


 林からの音にローゼスタット軍が気を取られる中、リタは彼らの南に身を潜めていた。両隣には凍った死体。ついでに前後にも死体がある。うつ伏せに隠れるリタは、完全に四方を死体に囲まれていた。


「嫌がらせかなぁ……」


 自分にここに隠れろと言った時のジルの顔を思い出し、どちらだろう、とリタは眉間に皺を寄せた。今回ジルの考えた方法では、確かにここに配置されるべきは自分だ。ヒューでは大きすぎて目立ってしまうだろうし、ジルとグレイはもっと危険な場所に身を置いている。彼らほど自分は動けないと自覚しているから、やはりここでジルの言うとおり死体と添い寝をしておくしかないのだろう。


『ローゼスタット軍は仲間の死体損壊を嫌う。そこが一番安全だ』


 そう涼しい顔で言ってきたジルは、どこか愉しげな雰囲気を漂わせていた。もしかしたら他にも案がある中で、敢えてを使うものを採用したのかもしれない。


「ま、いっか」


 生憎死体を怖がる神経は持ち合わせていない。必要であれば迷わず盾にも使える。幸いにも凍っているお陰で嫌な臭いはしないため、たとえ長時間ここにいろと言われても大して抵抗はないだろう。


「今はこの体質に感謝しておくべきなのかな」


 口角を上げ、笑みを作る。誰も見ていなくてもいつの間にかできるようになった。

 その表情のまま小銃を構え、気付かぬうちに上がっていた火の手に慌てる軍人達に銃口を向ける。角度は少し上、上半身のあるあたり。無理に当てる必要はない。重要なのはこの方角にも敵が潜んでいると彼らに思わせること。


「いざとなったら守ってね」


 隣に寝転ぶ死体の鼻先を指先で小突き、リタは合図を待った。



 § § §



 真っ赤な炎が、氷の大地を解かす。普段であれば極寒の強い風に吹かれてすぐに消えるが、今日は微弱な風しかないため全く勢いを衰えさせることはない。防寒性を重視したローゼスタット軍の極寒地用テントはよく燃える。だからみるみるうちに火は燃え広がり、辺りはあっという間に炎に包まれていった。


 氷の大地は火に弱い。しかし大して問題はないと、火をつけたジルは知っていた。

 炎に触れた氷は解けて水となるが、この氷の地面はその程度では解け切らない。一時的に足元に水溜りを作ることはあっても、地面を抉るよりも燃料を失って炎が消える方が早いだろう。


 もっと割れやすいところだったら楽なのに――慌てふためくローゼスタット兵を見ながら、ジルは面倒臭そうに溜息を吐いた。

 彼らが野営地として選んだのは、偶然にも崩落とは縁遠い場所だった。ニムリスの邑での療養中に得た知識で見てみても、ここはそうそう崩れそうにない。

 だから少しばかり手間がかかる。約一〇〇名の兵を一箇所にまとめたいのに、こちらには四人しか動ける者がいない。


 兵達の前後の逃げ場は奪った。炎は勿論、得体の知れない音のする林に逃げ込む者はいないだろう。

 というよりも、そもそも彼らに逃げるという選択肢はない。逃げれば物資が燃え尽きてしまうからだ。そうなれば回復者スタネイドでない者に待つのは死のみ。中隊がどんな任務を負っているかはジルも知らなかったが、それでも一五〇人という編成で来たからにはそれなりの人手が必要なはずだ。


 逃げれば物資と人手を失う。そしてヒルデルからの信用も。


 だから兵達は必死に火を消し止めようとしていた。ヒルデルに関する事情は知らずとも、ほとんどが普通の人間。物資がなくなれば自分は死ぬと嫌でも分かるだろう。


 そろそろか――大きな氷の塊に身を潜めていたジルは、ゆっくりと右手に持った拳銃を構えた。

 銃口を兵達に向け、引き金を引く。二発の銃声が響き渡る。その瞬間兵達は消火の手を止め、咄嗟にどこかに隠れようと動いた。


 しかし、隠れられる場所は既に炎の中。どこにも逃げ場はない。


「周囲をッ……――!?」


 指示を出す声は、無数の銃声に遮られた。林の方からはヒューが、南方の遺体の方からはリタが野営地を攻撃しているのだ。

 兵達が攻撃の方向を把握する頃には、透明な水溜りが真っ赤に染まっていた。


「退避ィ!!」


 苦渋の決断とばかりに指揮官が声を張り上げる。今死ぬか、後で死ぬか――選択肢がそれだけしかなければ、たとえ物資を失うことになっても当然後者を選ぶ。

 彼らに残された退路は、何もない北側だけ。そこに一気に兵達が駆けていく。その群れに向かって、拳銃をしまったジルは自動小銃を構え直した。


 連射音が喧騒を掻き消す。何発もの銃弾に撃たれて兵達が氷の上で踊り、立っている者が次々と減っていく。一〇〇人はいたはずのローゼスタット兵は、すぐに半数にまで数を減らした。


 ちょうどその頃、林からの銃声が止んだ。代わりに響いたのは木を打ち付けるあの音。続いて遺体の方からの銃声も止まり、手榴弾が一つ投げ込まれる。


 ヒューとリタからの弾切れの合図だった。ジルの目がグレイを探す。手筈どおりなら今頃――ジルがグレイの動きを予測して目を動かせば、案の定その先に見慣れた姿があった。

 ジルの指が引き金から離される。銃弾の雨が止み、ローゼスタット兵が何事かと周囲を見渡す。


「反撃用意!」


 轟いたのは指揮官の声だ。班をまとめる者か、それともこの中隊の長か、状況判断が早い者がいるらしい。

 明確な指示に生き残った兵達が動く。武器を構え、余裕のある者は負傷者を自分の元に引き寄せた。

 しかし狙いが定まらない。三方からの銃撃のせいで、どこを集中して警戒していいのか誰にも把握できていない。

 その時だった。


「こっちだ!」


 暗闇の中から誰かが叫ぶ。それは北側、ジルのいた方向だ。しかしまだジルは姿を現してはいなかった。


 声のする場所にいたのはローゼスタット兵だった。両手を上げ現れた彼は、「撃たないでくれ!」と震える声を張り上げている。


「撃ったら可哀想ですよ」


 男の後ろから、グレイが笑う。彼は銃口を男の背に当て、仲間の元へと男を歩かせていた。


「ッ、お前……グレイルードか!?」


 何にも隠されていないグレイの顔を見て、兵達の中から一つ、声が上がった。


「よかった、覚えてくれている人がいたんですね」


 にっこりとグレイが微笑む。場違いなほど愛想の良いその笑い方に、グレイの名を呼んだ男が「こんなところで何をしている!?」と悲鳴のような声を上げた。


「この攻撃はお前か!? 誰の差し金だ!!」

「イリス王子殿下ですかね」

「……は?」


 グレイの言葉に男が呆気に取られたように動きを止める。グレイはそんな彼を横目に周囲を見渡すと、別の男のところでその視線を止めた。


「あなたが中隊長ですね。確かリジット少佐でしたか」


 グレイがそう話しかけたのは、少し前に反撃を指示していた男だった。動きやすさを重視された他の兵の防寒着とは違い、彼のコートは階級を誇示するようなデザインをしている。何より彼を守るように二人の兵がついているあたり、他の者達と身分が異なるのは明らかだった。


 男は落ち着いた様子でグレイを見ると、「私に用か?」と口を開いた。


「グレイルード・モリナージェ……王女殿下を弑逆した大罪人か。見たところ回復者スタネイドだな。そんな人間がイリス王子殿下の名を騙り何を企んでいる?」


 その落ち着きは、既に一連の騒ぎがグレイの、人間の手で引き起こされていると確信しているようだった。未知のものへの恐怖や困惑は見受けられない。人間が仕組んだものだという事実が、この状況が制御可能なものだという判断を彼にもたらしていた。


「企んでいるのは私じゃありませんよ。言ったでしょう? イリス殿下の考えだと」

「信じられると思うか? あの方は今ご留学されている。国政に関わらない人間がどうして出てくる? ましてや自軍を攻撃することなどあるはずがない」

「――作り話の中の俺ならな」


 そう言ってグレイの方へと近付いていったのはジルだ。兵達が一斉に構える。すかさずグレイが「王子殿下に銃を向けるんですか?」と問えば、兵達は困惑したようにリジットの方へと視線を向けた。


「くだらん妄言だ! 耳を貸すな!」


 リジットの声が困惑を掻き消す。冷静さを取り戻した兵達が銃を構え直す。

 はっきりと自分に敵意を抱いている彼らにジルは溜息を吐くと、顔を覆っていたマフラーを剥ぎ取った。


「お前とは一度だけ会ったことがあるな」

「……何?」


 ジルの言葉に、リジットが怪訝な面持ちを浮かべる。


「四年前のキノクトベルだ。あの時は名前を聞かなかったが、顔は覚えている。お前はアルノーと共にいたな。それも、他の護衛がいない場で。俺があいつの決定を無視して動こうとした時、果敢にも食いかかってきた奴だ」

「っ……そんな……」


 記憶を刺激されたかのように、リジットが顔を驚愕に染めていく。「本当に、イリス王子殿下なのですか……?」うわ言のように呟いて、しかしはっとしたように「ならば何故……!」と声を荒らげた。


「殿下が何故我々を攻撃なさるのです!? この作戦はアルノー王子の指示ですよ!? それにお顔も……まさかあなた様も回復者スタネイドに……?」

「その前に銃を下ろせ。いい加減気分が悪い」


 リジットは一瞬だけ迷ったように口籠った。しかし次の瞬間には兵達に合図を送り、銃を下ろさせる。そして完全に銃口がジルから離れたのを見届けると、彼に向かって姿勢を正した。


「お前もそいつを離してやれ」


 ジルが言えば、グレイが盾にしていた男を解放した。「意味ありますか?」と問うグレイに、ジルが「支障もない」と笑う。

 そんな二人のやりとりを、リジットは困惑した面持ちで見つめていた。王子と逆賊が何故一緒にいるのか――彼だけでなくその場の者達から伝わってくる空気に、ジルが嘲るように口端を上げる。

 しかし、彼がその疑問に答えることはなかった。


「さて」


 兵達に向かって、ジルが声を発する。途端に彼らの纏う空気は固まって、その場が緊張に包まれる。

 ジルはいつもよりも一層冷たい目を兵達に向けると、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「何が目的でここに来た?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る