〈十〉夢幻の迷い路

 銀狼を見つけられないまま、時間だけが過ぎていった。彼らがどこにいるかは分かっている。だが、向こうは馬車でこちらは徒歩。それも病人だ。いくら徒歩でしか行けないような道を使って近道したとしても、一日で進める距離には限度がある。

 休憩は多く、一日に何度も取る。そうしないともう身体が動かない。食事は摂っていても、常に全身が震えているから体力の消耗が激しい。そこに長距離の移動と不十分な睡眠時間が重なって、移動速度は目に見えて遅くなっていった。


「……そろそろ行かないのか?」


 休憩の終わり、いつまで経っても動き出さないグレイルードに尋ねた。木の幹に背を預けて座る相手から返事はない。

 寝ているのだろうか。重たい自分の身体を叱咤して立ち上がる。グレイルードの傍に行き、その肩を揺すった。


「いつまで寝て――……ッ、おい!」


 ぐらりと、揺さぶった身体が横に倒れる。死んだのか――過った考えにその顔を覗き込めば、微かに吐息が聞こえて胸を撫で下ろした。


 ……いや、それはおかしい。


「…………」


 俺はこいつを殺したいのだ。。こいつが、俺から姉上を奪ったから。


『そんな奴らを皆殺しにして何が悪い。姉上の苦しみをあいつらも思い知ればいい。お前もだ、グレイルード。姉上を護れなかったお前だって八つ裂きにしてやる……!!』


 そう、順番は違えど俺はこいつを殺す気でいるのだ。まだ殺していないのは利用価値があったから。殺したい奴ら全員を始末するには、こいつの力を使った方が都合が良かったからだ。


 だが今のこいつはどうだ? 動くことすらできないこいつに、利用価値なんてない。


 そう思い至った瞬間、俺は腰からナイフを取り出していた。大きく振り上げて、憎しみを込めて思い切り振り下ろす。


 ――ナイフは、グレイルードの顔の横に刺さった。


「…………?」


 何故外れた? ――俺の身体がおかしいからだ。寒さによる震えが動きを狂わせた。それだけだ。


 それだけ。そのはずだった。


「っ……」


 気付けば俺は、グレイルードの腕を掴んで背負っていた。重たい。自分の身体を支えるのですら辛いのに、無駄に大きい男を担ぐなんて馬鹿でしかない。


 そう思うのに。俺はグレイルードを背負ったまま、移動を再開した。



 § § §



 グレイルードを背負って、どのくらい歩いただろう。いくら歩いても、背中のこいつは目を覚まさない。

 そのうち俺の身体の方も限界が来て、雪の中に倒れ込んだ。その衝撃でもなお、グレイルードは目を覚まさない。


「お前のせいで……!」


 グレイルードの首に手をかける。そのまま絞め殺してやろうと力を込めれば、真っ白だった相手の首に赤みが差した。

 まだ生きている――目の前の光景が示す現実に、何故か指の力が抜ける。


「クソッ……!」


 身体が動かない。指先が言うことを聞かない。その理由は全く分からないのに、だが同時に、体調のせいではないということだけは確信があった。


「俺はお前を殺したいんだ……殺したいんだよ……!」


 俺はお前を憎まないといけない。お前を憎んで、こちらを向く全ての憎悪を外側に向けなければ、俺は

 俺は生きなければならないのだ。俺が生きることが姉上の望みなら、俺がそれを無視するだなんてできるはずがない。


「俺はお前が憎いんだ……! 殺したいんだ……!」


 確認するように言いながら、もう一度指に力を込める。さっきよりもずっと、指がグレイルードの首深くに食い込む。


 このまま殺せる――そう歓喜した瞬間、姉上の姿が脳裏を過った。


『私ね、最近毎日が充実してるのよ』


 それはまだ、姉上が氷の病に罹る前のこと。グレイルードへの想いを、姉上が俺に告白してきた時のことだ。


『人を好きになるって、こんなに胸を満たしてくれるのね』

『叶わない想いでも、ですか?』

『ええ、そうよ。叶うかどうかだなんて関係ない。ただ相手を想うこと……それだけでこんなにも景色が違って見える。お嫁に行く前に知られて良かったわ。この気持ちがあるかどうかで、ちゃんと旦那様を愛せているかどうか分かるから』

『……それは、グレイルードと共に在りたいということでは?』


 グレイルードへの気持ちを諦め、別の男に嫁ぐ。そうしてその相手を愛せているかどうかを、グレイルードに抱いている気持ちと比較して確認する――そんなのは不幸でしかない。それをわざわざ口にするということは、自分に諦めろと言い聞かせるためではないのか。

 そう思って問いかけたのに、姉上はいつもどおりに微笑んだ。


『安心して、自分の役目は分かってる。私があの国に嫁ぐことでこの国に利益をもたらせるなら、それはあなたや彼にとっても良いことだって。私がしっかりとあの国でやっていけば、私と関わって生まれたあなた達への悪評もいずれ消えるから』

『悪評など、僕は――』


 気にしていない、と言おうとした。だが口元に姉上の指が当てられて、出しかけた言葉が行き場を失う。


『ジルが気にしなくても私が気にするの。私嬉しいのよ? やっと自分の努力次第で結果を変えられる状況になるんだもの。だからね、さっき言ったことは夢よ』


 姉上の目元が、優しい弧を描く。『夢?』と問い返せば、姉上はゆっくりと頷いた。


『そう、夢。こうなったらいいな、っていう方のね。叶わない夢は希望のままでいてくれる。その夢があれば、私はこれから先何があっても頑張っていける。そんな夢が持てるだなんて、私って凄く幸せだと思わない?』


 心底幸せだと言いたげな笑みだった。だからこの時の俺は確か、曖昧な返事しかできなかったのだ。


 だが本当は、はっきりと言ってやりたかった。


「嘘だ……! 叶わない夢は、絶望にしかならない……!」


 絶対に訪れない幸せな未来なんて知らない方がいい。知らなければ焦がれずに済む。上を知らなければ、現状に不満を抱くことすらない。

 好きな男との未来を夢見ながら、好きでもない男に尽くすだなんて。この年齢の俺でもそれが苦痛を伴うことだと容易に想像できる。


 そして、その苦痛を姉上に与えようとしていたのは俺だった。俺が姉上にグレイルードを近付けたから、彼女は誰かを愛するということを知ってしまった。誰かを愛しながら、別の男を愛さなければならないという状況に彼女を追い込んでしまった。


 やはり俺が悪いのだ。仮に姉上が氷の病に罹らずとも、俺のせいで彼女は不幸になっていたはずだから。


「俺は……俺を……」


 殺したい。だが、それができない。姉上からこれ以上、彼女の大事にしていたものを奪うだなんてできるはずがない。


 そして、グレイルードも。


「ッ……」


 今度こそ指が完全に動かなくなった。

 グレイルードがいたから姉上は幸せでいられたのだ。彼女の大事にしていたものというのなら、この男も同じ。そんなものをこの手で壊せるはずがない。


 俺は彼女の大事にしていたものを守らなければならない。たとえそれが、ものでも。


「畜生ッ……!」


 地面に思い切り叩きつけた腕は、柔らかい雪に埋もれてほとんど衝撃を感じなかった。

 その腕で、グレイルードの手を掴む。身体中から聞こえる悲鳴を無視して、重たい身体を再び背負い直した。



 § § §



 それから一日ほど歩くと、やっと銀狼に追いつくことができた。そこからのことはあまりよく覚えていない。どうにか薬を受け取って、そして、気付けば四日が経っていた。


 銀狼の幌馬車の中、未だ眠るグレイルードを睨みつける。俺が起きてから既に二日が経っている。流石にそろそろ起きるだろうと、この隊商キャラバンの獣医も言っていた。

 今日起きなければ水でもかけてやろうか――そう思ってグレイルードを見続けていると、今まで微動だにしなかった身体が微かに動いた。


「起きたか」


 俺が声をかけると、グレイルードは怠そうに身体を起こした。六日も寝込んでいてよく動くものだ。そしてすぐに周りを見渡して、「ここは……?」と独り言のように呟く。しかし今ここには俺とこいつの二人しかいないから、俺は仕方なく「銀狼の馬車だ」と答えを口にした。


「銀狼の……」


 僅かに目を瞠って、グレイルードが自分の手を見つめる。確認するように身体に触れる相手を見ながら、俺は「薬なら飲ませた」と再び口を開いた。


「治った……治ったんだ。俺も、お前も」


 口にした途端、悔しさが目元を熱くした。咄嗟に膝に額をつけて、その熱をやり過ごす。


 俺達は治ったのだ。俺もグレイルードも、かなり病は進行していたと聞く。だが、治った。二人とも治ったのだ。


 姉上は間に合わなかったのに、何故俺達だけが助かってしまったのか。


「俺がうまくやっていれば……!」

「違います。あの方を殺したのはあなたじゃない」


 グレイルードがすぐさま俺を諭す。もう聞き飽きてきたその台詞に、顔を上げて「……そうだな」と初めてちゃんとした返事をすれば、グレイルードが息を呑むのが分かった。


「あいつらだ…………!」


 憎しみの矛先が、外を向く。そこに明確な対象はない。

 それが、姉上の意思を尊重するために必要なことなのだ。俺は俺を憎んではならない。俺は俺以外の者を憎まなければならない。

 姉上を虐げてきた国の連中と、そして、彼女に死をもたらしたグレイルードを憎み続けなければならない。


「殿下……」


 俺を見て強張った顔で呟いたグレイルードは、きっと気付いている。俺の中にある歪な憎しみと、その理由に。

 だが、どうでもいい。こいつがどう思おうが、俺にはこうする他ないのだ。


 だから俺は気付かないふりをして、「お前もだ、グレイルード」と言葉を続けた。


「あいつらだけじゃない。お前だって姉上を殺した。……だがお前はまだ死なせない。そう簡単に楽にさせてたまるか」


 憎しみをグレイルードに向けながら、悪意の込もった笑みを作る。いつもより些かうまく作りきれなかった俺の表情を見て、グレイルードは困ったように眉尻を下げた。


「簡単に殺されるわけにはいかなくなりましたね」


 その口から出てきた軽口に、俺の顔から余計な力が抜ける。


「抵抗しないんじゃなかったのか?」

「まだ死ぬには早いんでしょう? あなたが私を殺そうとした時が、十分という保証もありませんから」

「……勝手にしろ」


 相変わらず口の減らない奴だと思いながら顔を背ければ、「では……」とグレイルードが続けた。


「もう、国に帰りますか? そうなると結構早く私は楽になることになりますが」


 国に戻ってあいつらを全員殺すのか――その問いに、俺はすぐに答えを返すことができなかった。

 全員殺して残りがグレイルードだけになってしまえば、その時はもう、誤魔化しは効かなくなってしまうから。


「……ふざけるな。お前はまだ苦しめ」


 無理矢理言葉を吐き出して、グレイルードに向き直る。


「少し気になることがある。折角生きてるんだ、存分に働いてもらうぞ」


 それが時間稼ぎの口実でも。彼女の大切にしていたものを守る方法が、他に思いつかなかった。



回顧 夢幻の迷い路 −終−

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