〈三〉鬱憤
真っ白な雪が、そこだけ綺麗に途切れていた。雪を掻き分けて、その下の土が掘り返されているからだ。
オレの肩と同じくらいの横幅、でも縦の長さはオレの身長の半分ほど。そこに下ろされていく小さな棺を見ながら、オレは親父に支えられて泣き崩れる母さんの嗚咽を聞いていた。
あの棺にはミカネが最期に着ていた服が入っている。氷となって、そして解けたミカネを吸い込んだ布。だけどもう、とっくに乾いているだろう。
小さすぎる棺には本当ならミカネすら入れないはずなのに、今のミカネはあの中に収まっている。アイツの気に入っていたおもちゃを全部入れても、それでも蓋は閉まってしまった。
あの箱は一体なんだ? ミカネは入っていないのに、どうして埋めて、その上に墓標を立てるのか。どうしてその墓標に、ミカネの名前が刻まれているのか。
そんな疑問がとめどなく溢れてくるのに、オレはそこからずっと目を離すことができなかった。
§ § §
ミカネの葬儀から一週間、家の中はどんよりとしていた。ミカネが死んだから――それもある。働きすぎて家族全員疲れが溜まっていたから――それもあるだろう。だけどそれよりも、もっと受け入れがたい現実にオレと親父は椅子に座って頭を抱えていた。
「……仕方がなかった。母さんは優しいから、危険だと分かっていてもミカネの傍を離れられなかったんだ」
親父の言葉にオレはきつく目を瞑った。母さんが優しいのは知っている。オレ達兄弟が怪我や病気をすれば、自分のことのように辛そうな顔をする。
だから、なんとなく覚悟はしていた。ミカネの命を助けられないと確信した時、もしかしたら母さんは――そう思ったから、オレと親父は母さんを工房のみんなに預け、死を間近にしたミカネから遠ざけた。
だけど無駄だった。母さんは結局、周りの目を盗んでミカネに会いに来た。ミカネの最期を、看取りに来た。
オレ達でさえ近くにいたら耐えられないかもしれないからと、ドアの向こう側でその時を待っていたのに。それなのに母さんが耐えられるわけがない。窓からミカネの部屋に忍び込んだ母さんは、オレ達が気付いてドアを開けた時には氷になったミカネを抱き締めていた。
母さんがミカネの最期の吐息を吸ってしまったのだと分かったのは一昨日のこと。母さん自身が、自分もそうだろうとオレ達に言ってきたからだ。
あの日ミカネを抱く母さんを見た時から覚悟はしていたとはいえ、オレと親父は言葉を失った。
「今度は間に合うかな……。前の一五万と合わせて、残り一五万……やり方を変えれば、どうにか……」
オレが言えば、親父は難しそうな顔をした。「どうにかするしかない」いつもと同じく力強いはずのその声が、なんだか酷く頼りなく聞こえた。
§ § §
何か困難なことに直面した時、どうにかできるのは元々その能力がある奴だけだ――この二ヶ月で実感した現実に、オレは奥歯を噛み締めた。
一五万クロングなんて大金、結局集められなかった。売れるものをなんでも売って、それでも増やせたのは一万クロングだけ。うちの収入が月に三千だったことを考えるとかなり頑張った方だ。
でもこの二ヶ月で集めた一六万クロングじゃ薬は買えない。買いに行く権利すらない。今際の際の母さんが眠る部屋のドアに、オレは額を押し付けた。
「どうしてっ……!!」
部屋の中には聞こえないように声を押し殺す。親父は今、母さんの傍にいる。ギリギリまで近くにいたいのだと親父は言った。オレもそうしたいと言ったけれど、親父が泣きそうな顔で「自分のことだけで精一杯なんだ」と言うものだから、オレはもう引き下がるしかなかった。
本当は、親父はオレを誰かに預けたかったらしい。だけど誰も引き受けてはくれなかった。ミカネの時に母さんを止められなかったからだけじゃない。町の人達はオレ達を厄介者だと思っているからだ。
ただでさえ氷の病が出たら町には恐怖が生まれる。だから患者が死んで、やっと元に戻れる――そう思った矢先にまたうちから患者を出してしまったのだから、厄介だと思われても仕方のないことなのだろう。
ミカネのために工面してくれた金を母さんに回していいと言ってもらえただけで、オレ達は感謝しなければならない。どうせまた足りないだろうと思われていたとしても、金は貸してやるからこれ以上関わってくるなという本音が見えていたとしても、オレ達には何も言う権利がない。
たとえ同情が忌避に変わろうと、心無い言葉をかけられようと、オレと親父は頭を下げ続けた。
辛かった。町の人達から嫌われることも、働き詰めなことも。ミカネを失ったこと、母さんまで病に罹ったこと、全部、全部が辛かった。
でも何より辛かったのは文句一つ言えないことだった。目の前で起こる現実を全て受け入れなければならない。誰かのせいにしたいのに、誰のせいにもすることができない。
なんでミカネは氷の病になったんだ。
なんで母さんは移ると分かっててミカネを看取ったんだ。
本当はそう叫びたいのに、言葉に出せないのはどうしようもないことだと分かってしまっているからだ。
ミカネは自分でも気付かないうちに毒を吸った。母さんは自分の身を危険に晒してでもミカネを一人で死なせたくなかった。どちらも、オレには理解できてしまうから。
だけどそれももう終わる。そう思うとやるせなさよりも、言葉にならない怒りがオレの胸に沸き起こった。
だって、オレはなんで――
「なんで安心してるんだよ……!!」
母さんが死にそうなのに。オレ達は母さんを助けられなかったのに。
「ックソ!!」
ドンッと体当たりするようにオレはドアノブを押した。「イヒカ!?」親父が驚いた顔でオレを見る。マフラーから覗くその目からは涙が流れていて、それを見た瞬間、オレは状況を理解した。
「母さん!」
母さんの方に走り寄る。親父が立ち上がってオレを押しのける。親父の力には敵わないはずなのに、今日ばかりはどういうわけか、オレはなんとかその腕から逃げ出すことができた。
「イヒカ、よせ!」
「ッ!?」
ベッドに横たわる母さんに縋り付こうとした瞬間、乱暴に腕を後ろに引かれた。
オレの体が床に投げ出される。肩に感じる痛みは引かれたせいだ。それくらいの力で、親父に腕を引かれたのだ。
「何すんだよ!?」
怒りのまま叫びながら立ち上がれば、母さんの顔に覆いかぶさるようにしている親父の姿が目に入った。「早く部屋から出ろ!」オレを睨みつける親父が自分の身体で母さんの最期の吐息を抑え込もうとしているのだと理解して、オレの怒りは急激に萎んでいった。
そうだ、オレの口は隠されていない――自分の口元に手を当てる。最後まで部屋の外で待つつもりだったから、今のオレは完全に無防備だった。
「イヒカ、頼むから……!」
「親父は……」
「俺もお前が出たらすぐに出る! だからまずはお前が部屋を出てくれ……!」
親父の懇願に、その姿から目を離せないままよたよたと後ろに下がる。見たことのない親父の姿に頭が混乱する。泣いて、情けなくオレに何かを頼む――そうさせているのがオレなのだという罪悪感に苛まれ、身体がなかなか言うことを聞かない。
それでも背中が壁に当たると、オレははっとしてドアの外へと向かった。「親父……!」オレの声に親父もまた母さんから身体を離す。そして弱々しい足取りでこちらに歩いてくると、親父はオレの背を押しながら一緒に廊下に出て、何も言わずにドアを閉めた。
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