〈二〉崩壊

 朝起きて、カーテンを開ける。二重窓の外に見える景色はいつもと変わらないのに、家の中の、オレの部屋の中でさえも空気がどんよりとしている気がした。

 顔だけ洗って、起きた格好のまま階段を下りる。台所には母さんの気配。オレは少しだけ迷ったものの、意を決して「おはよう」と母さんの方へと向かった。


「おはよう、イヒカ」


 いつもと同じ母さんの返事。だけどその声にはいつもよりもいくらか覇気がない。ゆっくりとこちらを向いた顔だって、昨日よりもずっとげっそりとしている。


「母さん、大丈夫なのか……?」

「大丈夫よ。それより朝ごはんどうする? 後にする?」

「……後で食べる。ミカネのトコ行ってもいい?」


 オレの問いに母さんは辛そうな顔をして、けれどすぐに「勿論」と無理矢理笑顔を作った。



 § § §



 昨日の夜、帰ってきた親父達の空気は重かった。ミカネは長時間の外出で疲れたのか、親父に背負われてぐっすりと眠っている。母さんは元気のない顔でオレの方を見て、「ただいま、イヒカ」とぎこちなく微笑んだ。


「ご飯食べた?」

「まだ。温める?」

「……そうね。先にご飯にしましょうか」


 違和感。だけどどう口にしたらいいか分からない。医者に行っていたのならミカネがどこか悪いと言われたのかも――そんな不安を拭い去るようにオレは作業に集中した。鍋に張り付いて、その中身をかき混ぜ続ける。そんなに必要ないだろと分かっているのに、そうしていないと嫌なことばかりを考えてしまいそうだった。


 でも結局、駄目だった。眠っているミカネを除いた三人での食事は、明らかにいつもと空気が違う。親父も母さんもとりとめのないことを話しているけれど、それがどこか本題を避けているように感じられてしまうのだ。

 そうして、気まずい食事が終わった後。明日に備えて部屋に戻ろうとしていたオレを、親父が引き止めた。


「明日は工房に来なくていい」

「なんで? 鍛冶の邪魔ならドナさんトコにでも行くけど」

「……言い方が悪かった。明日は家から出るな」

「は?」


 オレが顔を顰めると、親父は既に席を立っていたオレに座るよう促した。言われたとおり母さんと親父と向かい合うように自分の定位置へと腰掛ける。「どういうことだよ?」オレの問いかけに、親父は重たそうに口を開いた。


「今日、ミカネを医者に診てもらったのは知ってるよな」

「当たり前だろ。……やっぱどこか悪かったのか? でもそれと家から出るなって関係ないんじゃ――」

「関係あるんだ」


 低い親父の声に、ドクンと大きく心臓が跳ねる。その振動は一瞬にして全身に伝わって、どういうわけか体中の毛が逆立てられた感覚がした。


「やめろよ親父、そんな変な空気出すの。病気で、外に出ちゃいけないって……そんなのまるで……」


 氷の病みたいじゃないか。


 わざと言葉に出さなかったのに、親父がオレを真っ直ぐに見据える。そして、息を吸い込んだ。


「……ミカネは、氷の女神症候群スカジシンドロームに罹ってた」

「ッ……!」


 体が自分のものじゃないみたいだった。部屋の中は暖かいはずなのに、急な寒さがオレを包み込む。「は……」強張った顔ではうまく返事もできず、オレはただただ親父と母さんの顔を見ることしかできなかった。



 § § §



「――ミカネ、元気か?」


 ミカネの部屋に行くと、だるそうにしながらもおもちゃで遊ぶ弟の姿が目に入った。おもちゃと言っても上等なものじゃなくて、オレが鍛冶で失敗したものを組み立てただけの鉄くずみたいなものだ。

 でもミカネはそれを気に入ってくれていた。新しいおもちゃができるたびに喜んでくれて、おもちゃ同士を戦わせてはオレにどちらが勝ったと教えてくれる。


「元気だよ! 学校行けそうなのにお母さんがだめって」

「そりゃそうだ。治りかけが一番ぶり返しやすいからな」


 ミカネに笑顔で答えながら、すんなりと嘘を吐けた自分に吐き気がした。今のミカネが治りかけのはずがない。氷の女神症候群スカジシンドロームは治療薬を飲まない限り必ず死ぬのだ。いくら学校にまともに行っていないオレだってそのくらいの知識はあるし、昨日親父達にも説明された。


『ミカネにはまだ氷の病だということは黙っててくれ』


 脳裏に親父の言葉が蘇る。


『明日町長のところに行って、金を貸してもらえないか頼んでくる。もし貸してもらえれば薬が買えるだろ? そうしたら……ミカネも無駄に怯える必要もない』


 だから、それまでは嘘を吐き通せ――暗に告げられた内容にオレは逆らう気はなかった。金を貸してもらうことがどんなに難しいかは理解しているつもりだ。三〇万クロングなんて、いくら町長でも簡単に用意できる額じゃない。多分工房全体でも工面できるかどうか……それこそ直近の売上をかき集めて、今まで以上にたくさん製品を売らなきゃどうにもならない。

 でもだからと言って時間をかけるわけにもいかなった。氷の女神症候群スカジシンドロームは約一ヶ月で死に至る。親父やオレだけじゃなくて、町全体を巻き込んで必死に働かないとどう考えても間に合わない。


「元気になったら工房見に行きたいな。前にお父さん、兄ちゃんが一緒ならいいよって言ってたんだ」

「……そっか。じゃァちゃんと治さなきゃな」

「うん!」


 無邪気に笑うミカネの顔を、オレは直視できなかった。



 § § §



 それから二週間の時間が流れた。幸運にもカヴァロの町はオレ達に理解を示してくれた。ミカネが氷の女神症候群スカジシンドロームだということは町全体に知られてしまったけれど、オレ達家族は罹っていないと分かっているから以前とそこまで変わらずに接してくれている。

 親父があの日オレに家から出るなと言ったのは、町の住民の反応が怖かったかららしい。それが杞憂と分かって、ずっと深刻そうな顔をしていた親父は少しだけ表情を和らげた。


 とはいえ、時々嫌な顔をされることがなかったわけじゃない。特にオレ達がミカネ本人に病のことを伝えていないせいで、アイツがどこで病に罹ったのか分かっていないことをよく責められた。

 だけどそんなの聞いたところで無駄だ。氷の女神症候群スカジシンドロームは子供の患者が多い。子供は冬の空気の危険性が理解できないから、本人も気付かないうちにマスクがずれて毒を吸ってしまうのだ。

 ミカネも多分そうなんだろう。病院に連れて行く前、氷の病を心配した母さんはそれとなくミカネに尋ねたらしい。だけどそれらしい答えは返ってこなかったのだそうだ。だったらわざわざお前の命に期限が付いているぞと伝えてまで、その原因を探ったところで意味はない。


 オレ達に嫌な感情を向ける人達は、ミカネに会ったらきっと本人にも聞くのだろう。だからオレ達はミカネを外に出せない。アイツはまだ、自分が氷の病だということを知らない。


「――イヒカ、大丈夫?」


 町を歩くオレをロネが心配そうな顔で引き止めた。ロネもミカネのことは知っている。だけど他の連中とは違ってロネは一度もオレ達家族に嫌な顔を向けることはなかった。


「オレ? 全然平気だけど。何?」

「何って……顔色悪いよ? 無理してるんでしょ?」


 氷の女神症候群スカジシンドロームの治療薬に必要な三〇万クロングはまだ集まっていない。町長だけでなく、全員ではないものの工房の職人達もオレ達に手を貸してくれている。だけど彼らがやってくれるのはそれぞれの生活に支障が出ない範囲まで。当たり前だけど金はなかなか集まらない。

 最初に町長が八万クロング工面してくれた。町の人達が自分達の貯蓄から四万クロングは用意してくれた。だけどまだ全然足りない。足りない分を補うためにオレ達家族は他の町の仕事も引き受けて、文字通り寝る間も惜しんで働いている。町の人達も自分達の仕事量を可能な限りで増やし、少しでも足しにしようとしてくれている。


 でもまだ一五万クロングにすら届いていない。周りが貸してくれる一二万を差し引けば、オレ達家族は貯蓄を使っても二万と少ししか用意できていない。

 二週間で二万――絶望的だった。この二万のうちどれだけが新たに稼いだ金なのかを思えば、ミカネが死ぬまでにもう二万増やすことすら難しいのは考えるまでもない。


 だけど諦めるわけにはいかなかった。どうしようもないと諦めてしまえば、そこでミカネを殺すことになるのだから。


「イヒカ」


 ロネの声にはっとして、オレは自分がぼうっとしていたことに気が付いた。「わり、何だっけ?」見えている目元にはしっかり笑みを浮かべたのに、それを見たであろうロネの顔が辛そうに顔を歪んだ。


「……私ももっと働く。だから少しは休んで」

「お前に働かせといてオレが休むワケにはいかないだろ。大丈夫、まだいける」

「イヒカ……!」


 安心させるために言ったのに、何故かロネは余計苦しそうに眉間の皺を深くした。

 だけどオレには他にどうしようもなかった。こうして立ち話している時間すら惜しいのだ。ロネとはまた、全部落ち着いた時にちゃんと話せばいい――そう自分に言い聞かせながら、オレはこちらを見てくるロネに背を向けて歩き出した。

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