回顧 真綿の贖い

〈一〉日常

 朝起きて、カーテンを開ける。二重窓の外はまだ真っ暗だ。この季節は日が昇るのは朝八時を過ぎてから、夜は一六時には訪れる。

 今は朝五時を過ぎたところ。オレは顔を洗っていつものように何枚も着込むと、マスクの上からマフラーを巻いて自分の部屋を後にした。


「――おはよう、イヒカ。お弁当そこね」


 階段を下りて台所を通れば、いい匂いと共に母さんがオレを迎える。いつもどおりの光景だ。「おはよう」答えながら二人分の弁当の入ったバッグを掴んだ時、「あ、」と母さんが思い出したようにこちらを向いた。


「お父さんには言ったけど、今日ミカネを隣町のお医者さんに連れて行くから、二人が帰ってくる頃はまだいないかも。晩ごはんはロネちゃんちに頼んであるから」


 カヴァロの町は小さいから医者は常にいるわけじゃない。周辺の同じような町を回っているため、タイミングが合わなければ別の町まで行かなければならないのだ。

 でも、わざわざ別の町まで行くというのは珍しかった。医者は二、三日待てばまたこの町に来るだろう。それを待てない場面なんてオレが今まで見かけたのは酷い怪我とか、倒れて意識が戻らないだとか、一刻を争うような事態だけだ。昨日の弟の様子を思い出すも、そのどちらにも当てはまるとは思えなかった。


「ミカネどうしたの? なんか最近だるそうだけど。でも別に医者に行くほどでもないんじゃない?」

「熱はないんだけどねぇ……ちょっと気になるから念の為診てもらおうと思って」

「ふうん? ま、いいや。ロネんちのおばさんのメシ美味いし」


 母さんも特に慌てた素振りはないからきっと大したことはないのだろう。オレは何も不安に思うこともないまま母さんに声をかけると、暗い町へと飛び出した。


「――さっむ……」


 家からそう遠くないところに町の武器工房がある。カヴァロの土は農作物の栽培に向かないらしく、町を挙げて武器の生産をしているのだ。

 武器工房と言っても建物が一つというわけではなくて、複数の建物で様々な武器を作っている。更に材料の調達から販売まで全て工房側が手助けしてくれるから、カヴァロには作業に集中したい職人が余所からやってくることは珍しくなかった。


 朝の静けさとは無縁の工房一帯を走り抜け、端の方へ行くと鍛冶場がある。火を扱う設備は安全のためこちらの方に集められているらしい。そんな鍛冶場の一つに着くと、オレは中の音に気を配りながらドアを開けた。


 二重扉をくぐれば、カン、カン、と鉄を打ち付ける音が聞こえてくる。音の出どころはここからもう一つドアを進んだ先なのに、息も凍る外の寒さが嘘のような暖かさが露出した目元に触れた。

 オレは入って左手にある窓の方へと近寄ると、そのすぐ脇に置かれたテーブルの上に母さんの作った弁当を置いた。二重窓の間では物が凍ってしまうし、だからと言って窓から離れすぎると室温が高すぎる。ここがこの建物の中で一番ちょうどいい場所なのだと知っているのは、恐らく記憶にも残らないほど小さな頃に教えられたからだろう。


 弁当を置いたオレは窓に背を向けて建物の奥手に進んだ。ここまで来ると扉一枚隔てた先の熱気がかなり伝わっている。壁に掛けられた温度計は四〇度を示し、その横にあるコート掛けに脱いだコートとマフラーを掛けていく。掛けたコートのポケットから手ぬぐいを出して、なるべく気配を消しながら熱さを纏うドアを開けた。


 途端に全身を襲う熱気、鉄を鍛える甲高い音。轟々と燃える窯に、燃料の匂い。そのどれもがオレの背筋を正し、オレをただの子供から鍛冶職人見習いにする。

 窯の近くでは親父が何度も何度も鉄を叩いていた。オレと同じ赤い髪は手ぬぐいで隠され、オレよりもずっと逞しい腕が火造り槌で一定のリズムで音を奏でる。大槌を使って大きな鉄を鍛えるのも格好良いと思うものの、細かい力加減が必要なこの作業の方がオレにはずっと憧れがあった。


「――なんだ、来てたのか」


 しばらく親父の作業を見ていると、それに気付いたらしい親父が鉄を休ませながらオレの方へと顔を向けた。


「見てた。そういやミカネが今日医者に行くって」

「聞いてる。何もないといいんだけどな」


 親父は汗を拭いながら立ち上がると、「やるか?」とオレに笑いかけてきた。


「おう! どれだったらいい?」


 オレが鍛冶を教えてもらえるようになってまだ二年、やらせてもらえるのは一部の工程だけ。それも一日中じゃなくて、半日手伝わせてもらえればいい方だった。親父の仕事の邪魔をしちゃいけないと分かっているから、少しもどかしいけれど不満はない。


「この辺まとめて片付けて欲しいな」


 師でもある親父の指示を聞きながら、オレは頭に手ぬぐいを巻きつけた。



 § § §



「――おじさんまだなの?」


 夜、帰宅したオレの元へ両手に鍋を抱えてやって来たロネは不思議そうに首を傾げた。顔の中で唯一見える薄い黄色の瞳が、正面に立つオレを追い越して家の中を覗き込む。

 玄関から見ただけでよくオレ一人しかいないと分かるなと思ったものの、間違ってはいなかったのでオレも「ああ」と返した。


「忙しいのかな?」独り言のように言ったロネは当たり前のように家の中へと進む。玄関のドアを閉めたオレもそれを追って、ロネが台所のコンロの上に鍋を置くのを見ながら、応対のために付けていたマフラーを外した。


「温めていこうか?」


 そう尋ねながらロネもまたマフラーを外す。その下から出てきた褐色の肌はこの辺りでは珍しく、ロネの親父さんから継いだものだ。職人である親父さんは南の方からやって来たらしく、同じく遠い島国から来たオレの親父とは境遇が似ているからか、昔から仲が良い。

 だからロネの家とは家族ぐるみの付き合いで、お互いに変な遠慮はない。大人同士もそうだし、ロネもまた当たり前のようにうちの台所を使うくらいには気を遣わない。今だってオレに聞いてきたくせに、ロネはマフラーを持っていない方の手でコンロのツマミに手袋をした指をかけていた。


「それくらいオレでもできるよ。親父まだだし、帰ってくるまでもうちょっと待ってみる」

「すぐ帰ってくるの?」


 ロネの指がコンロから外れる。代わりに今度は手袋と帽子を外していて、コイツ長居する気か、とオレは自分の顔に力が入るのを感じた。

「メシ食ってねェの?」オレの問いに一瞬きょとんとしたロネは「食べたよ?」と言いながらコンロを離れて椅子に座る。そしてずっと立ったままだったオレをじっと見上げてくるものだから、オレは渋々ロネの向かい側の椅子に腰を下ろした。


「で、おじさん今日遅いの?」

「さァ? オレは午後ずっとドナさんトコにいたからよく分かんねェんだよな。帰り際に声かけたら先帰ってろって言われただけだし」


 オレの言葉にロネはうんと顔を顰めた。隠すものがなくなった顔全体を苦そうに歪めて、「またぁ?」と声を上げる。


「ドナさんって銃とか作ってる人でしょ? またそんなとこ入り浸って……」

「勉強だっつーの。今は鍛冶やらせてもらえてるけど、その前は鍛冶場に入るのも駄目だったからな。武器の構造くらいしか学べるもんがなかったんだよ」

「鍛冶するのにそんなところまでいる? 必要な情報は仕様書に書いてあるでしょ。別に全体像なんて知らなくてもいいじゃん」


 またロネの小言が始まった。「ろくに学校も来ないでそんなことばっかやって楽しいの?」予想通りの言葉が続いて逃げるように顔を背ける。


「オレは将来鍛冶職人になるんだよ。学校の勉強よりよっぽど為になるね」


 壁を見ながらはっきりと言い切る。だけどロネの方を向いた耳は、厄介なことに彼女の小さな溜息を拾った。


「職人でもお金の計算は必要でしょ。仕様書に書いてある数字だってちゃんと理解しなきゃいけないんじゃないの?」

「ミカネにやってもらえば良くね? アイツ多分オレより頭良いし」

「七歳の弟と比べない! 私達もう十四だよ? 私だってそろそろこの先どうするか考えないと……」


 声を窄めたロネに、思わず壁に向けていた顔を元に戻した。「何それ?」予想していなかった彼女の悩みに眉を顰める。


「おばさんと同じトコで働けばいいじゃん。武器の素材の仕入れだろ?」

「それじゃあこの町で一生過ごすって決まっちゃうじゃない」

「ロネ出てくの?」

「……かもしれない」


 テーブルに視線を落としたロネはちらちらとこちらを窺うようにしていた。オレが自分を否定するとでも思っているのだろうか。黒に黄色の混ざった長い髪の毛をいじるロネに、そんなことをする気はないのに、と今度はオレが小さな溜息を零した。


「ま、いいんじゃね? やりたいことやるのが一番だろ」


 オレが言うと、ロネは何故か不満そうに口を尖らせた。


「……少しは引き止めなさいよ」

「なんで?」

「もう!」


 急に不機嫌になったロネは勢い良く立ち上がると、マフラーを巻き直して「帰る!」と乱暴な足取りで玄関へと向かった。「気を付けて帰れよー」椅子に座ったままその背中に声をかければ、「ばーか!」という罵声と共に玄関のドアが閉まる音が響く。

 何をそんなに怒っているのかと疑問を持ったものの、問いかけるべき相手はもういない。


 一人で仕事をしていたはずの親父が母さん達と帰ってきたのは、それから少ししてのことだった。

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