〈五〉結ばれない約束

「――イヒカァ!」


 幌馬車が激しく揺れ始めてすぐ、ヒューの大きな声がシェイの耳にも届いた。

 いつもとは違う状況に、荷物の隙間に隠れていたシェイは周りへと目を配る。そこにあったのは積み重ねられた荷物でできた高い壁。隠れていろと言われたためマフラーも巻いてそうしていたが、自分の体を外から隠してくれるそれらがガタガタと大きく揺れているのが見えて、シェイは眉間に皺を寄せた。


「……ここじゃまずいかな」


 すぐに倒れてこないということは重量のある荷物なのだろう。だがそうなると、いざ落ちてきた時に抜け出せなくなる危険がある。

 シェイは少しの間考えて、迷いながらも荷物の隙間から這い出した。そして改めて自分のいた場所を見てみれば、真下から見るよりも荷物のバランスが崩れているのがよく分かった。

 出てきて正解だったと胸を撫で下ろし、崩れそうな荷物の山を揺れの中どうにか整える。だがまたこの隙間に入る勇気はシェイにはなく、状況を確認するため少し前にリタがしていたように出口付近の幌を捲った。


「わ……!」


 隙間から見えたのは混乱する四頭のグイ。彼らは後方の幌馬車を引いている個体だ。揺れの正体はこれだったのかとシェイが理解した時、「薬を探せ!」と大声が聞こえた。


「ッ……!」


 シェイは慌てて身を隠そうと荷物の方へと向かった。しかし揺れのせいで脚がもつれる。休んだことで幾分か怠さは楽になっていたが、動きにくさはまだ変わっていない。


「ここか!?」


 その声と共に幌の中が一気に明るくなった。同時に流れ込む冷気、戦いの匂い。

 勢い良く幌を開けたのはシェイの知らない男だった。盗賊だ――シェイの身体が強張る。男は床に倒れ込むシェイを見つけると、「ガキ?」と怪訝な声を上げたが、すぐに何かに気付いたかのように下卑た笑みを浮かべた。


「随分体調が悪そうだな。銀狼と一緒にいるってことは氷の病か?」


 弱者を見る、嫌な目だった。当然だ。男の前にいるのは子供、それも一見して病を患っていそうだと分かるくらい体調の悪い人間なのだから。

 一瞬にして自分の立場を悟ったシェイの全身に鳥肌が立つ。それでも何か武器になるものはないかと周囲を見ようとした時、ドンッと音を立てて背中が打ち付けられた。


「かはッ……!」

「薬はどこだ!?」


 シェイは幌馬車に乗り込んできた男に押さえつけられていた。分厚く巻いたマフラー越しに首に手をかけられる。咄嗟にその腕を掴むも、体格差のせいか全く意味はない。


「ない……知らない!」

「知らないわけねェだろ! なけりゃお前が死ぬんだ!」


 チャキ、と頭に拳銃が突きつけられる。その瞬間シェイの脳裏に蘇ったのは、いつか見た盗賊の最期の姿だった。隊商キャラバンの者達の銃弾に頭を撃ち抜かれ、真っ白な雪を穢したあの赤色が、視界を奪う。


「ひっ……」


 声が漏れると同時にシェイの身体はガタガタと震え始めた。幌の中に冷気が流れ込んだせいではない。病のせいでもない。

 そんなシェイの姿を見て男が満足そうに笑みを深める。その邪悪さが、更にシェイの中の恐怖を大きくする。


「それとも氷の病じゃないのか? まあそんなことどうでもいい。死にたくなけりゃ薬の在り処を正直に答えろ!」


 恫喝する男の声。カチャリと撃鉄ハンマーが起こされる。その音に、つい今しがた思い出したばかりの光景がシェイの脳内を覆い尽くす。


 頭を撃ち抜かれた見知らぬ死体が、自分の姿と重なる。


 ああ、ここで死ぬんだ――シェイの目に涙が滲んだ。

 なんで。どうして。折角病は治ったのに。まだ生きていられると思ったのに。


 ただ生きたいと願っただけなのに――恐怖と後悔がシェイを襲う。


 恐ろしくてたまらなかった。今のこの状況も、これから自分の身に起きるであろうことも。

 こんなに怖い思いをするくらいなら氷になって死んでいた方がマシだった。病で死んでいればこんなことにはならなかった。銃を突きつけられることもなかったし、なんだったら誰かに迷惑をかけることもなかったはずだ。

 一人でひっそりと死んでいれば恐怖どころか、自分の嫌な部分すらも知らずに済んだのに。


 ……もうこんなの嫌だ。これ以上は耐えられない。早くもう、終わりたい。


『なんでお前はそうやってすぐ生きることを諦めるんだ!』


 突然イヒカの声がシェイの耳の奥に響いた。目を見開くも、聞こえるのは先程と変わらない喧騒。混乱するシェイの頭の中に、今度はリタの顔が浮かぶ。


『君に手を貸した人達は、君に何を望んでると思う?』


「……ぁ」


 唐突に理解してしまったその答えに、シェイの目から涙が零れ落ちた。マフラーの下で下唇を噛み、溢れる涙を止めようとぎゅっと固く瞼を閉じる。


 ――諦めるな。


 数度呼吸して自分に言い聞かせる。そうして涙が止まった気配を感じたシェイは目を開けて、相手をキッと睨みつけた。


「ああ?」


 急に変わったシェイの様子に男が訝しげな声を上げる。シェイは男の腕を掴んでいた手を離すと、そのまま男の口元を覆うマスクに手をかけた。


「なッ!?」


 突然狙われたことで男の反応が遅れる。シェイの手が、男のマスクを完全に剥ぎ取る。

 顕になった自身の口元に男が慌てて手を当てた。「何しやがる!?」怒声を上げるも混乱しているのか、シェイに銃口を向けることすらできていない。


 シェイは全身に力を込めて身体を起こした。混乱する男の横を抜けて出口の方へ。転がるように幌馬車の外に飛び出せば、未だ暴れるグイの巨体が目に入った。


「――危ねェ!!」


 ぐっと身体を横に引かれる。見ればイヒカが血相を変えてシェイを掴んでいて、「蹴られたら死ぬぞ!?」と怒声を上げた。


「まだ死にたいのかお前は!?」

「違う!!」


 シェイの大声にイヒカが目を丸くする。


「飛び出しちゃったのはごめん! でも中に盗賊が……!」

「ッ、そういうことか。待ってろ!」


 イヒカが幌馬車の中へと飛び込んでいく。それを見たシェイは武器を探そうと辺りを見渡して、初めて間近でその惨状を目の当たりにした。


 見慣れた真っ白な景色はそこにはなかった。代わりに見えるのは無数の遺体と、赤く染まった雪。硝煙と血と、臓物の臭い。


「ッ……」


 喉元まで上がってきた熱をシェイはゴクリと飲み下した。口の中に酸っぱさが広がる。胸は熱く、顔は険しく顰められている。


 それでも、シェイが周囲の光景から目を逸らすことはなかった。



 § § §



 盗賊の襲撃から一週間。襲われた場所から数えて二つ目の町で、イヒカ達は逆方向へと向かう別の隊商キャラバンと出会った。どうやら既にフィーリマーニに行ってきた隊商キャラバンらしく、逗留所でヒューが情報収集も兼ねてシェイを送り届ける相談をしている。


 その様子を少し離れたところからシェイと共に見ていたイヒカは、「あれもう出発するところだよな」と残念そうに呟いた。


「あそこで決まりならすぐお別れじゃん。なんかこう、パーティー的なのしなくていいのか?」

「パーティーって……そんなのいいよ。ただでさえ寂しいのに余計に悲しくなっちゃう」


 苦笑しながらイヒカに返したシェイは、そっと地面に視線を落とした。治療薬を飲んだことで体はすっかり良くなった。回復者スタネイドとしての暮らし方も十分に教わったし、別れの覚悟だってとうにできている。だからもう、隊商ここに留まる理由はない。

 治療薬を手に入れたら故郷へ帰る――イースヘルムに向かうと決めた時から分かっていたことだ。条件が揃わず一週間も経ってしまったが、これ以上長くなるのはシェイも避けたかった。


「アイツらの出発、もっと後ならいいのにな。そしたら最後ってことでパアッと遊べるのに」

「まだ決まりじゃないよ。それにあんまり長居しすぎると帰りたくなくなっちゃう」

「帰らなくてもいいんだぞ」


 その言葉にシェイはイヒカを見上げた。人目があるせいで顔はほとんど隠れているが、目元がゆるく弧を描いているのは分かる。その表情の意味するところを察して、シェイは「……試してるでしょ」とじっとりと目を細めた。


「どうせ僕が帰らないって言ったら怒るくせに。『言ってることが違うぞ! なんで自分が言ったことを守らないんだ!』とかなんとかさ」

「そんな説教くせェこと言わねェよ! ただちょっと、『なんだコイツ』くらいは思うかもしれないけど」

「ほらやっぱり」


 シェイが笑いながら言えば、イヒカもおかしそうに肩を揺らした。

 そのまま二人がとりとめのない会話をしていると、遠くで別の隊商キャラバンの者達と話していたヒューがイヒカ達の方へと歩き始めた。先に気付いたのはイヒカだ。「シェイ」低くなった声にシェイもイヒカの見ている先へと顔を向ける。やや緊張を滲ませた表情でヒューを見続けていると、二人の視線に気付いたらしい彼が肩を竦めた。


「――いいってよ。俺の昔馴染みもいるから信用できる連中だ、安心しろ」


 近くまでやって来たヒューがニッとシェイに笑いかける。「いいのかァ……」残念そうなイヒカの声を聞きながら、シェイも僅かに翳った気持ちを誤魔化すように笑顔でヒューを見上げた。


「ありがとうございます。出発はすぐですか?」

「あと一、二時間で出るってよ。急なことで悪いな」

「いえ、帰れるようにしてもらえただけで十分ですから」


 そこまで言うと、シェイは「でも……」と声を落とした。


隊商キャラバンのみんなにお礼とお別れがちゃんと言えないのは心残りですね……。一時間で急いで支度して、残った時間で手紙を……」

「ああ、うちの連中なら大丈夫だよ。一応そういうことになるかもって言ってあるから、余程のことがない限りすぐ戻ってくるだろ。今もどうせ急いでやらなきゃいけないことやってるだけだし」


「だからゆっくり支度しな」と付け加えながらヒューがシェイの頭に手を乗せる。もう何度されたか分からないそれにシェイは頬を綻ばせた。


「またズヴェルヴァスキを通りますか? 少しでもお金を……」


 大きな手が頭から離れていくのを感じながらシェイが問いかければ、ヒューは「んなモンいらねェよ」と豪快に笑った。


「全部イヒカの借金にツケとくから、お前さんは何も気にすんな」

「オレ!?」

「当たり前だろ。シェイを最初に見つけたのはお前だ」

「えー……まァいいけどさァ……」


 参ったと言わんばかりにイヒカが苦笑を浮かべる。


「……イヒカ借金してるの?」


 心配と申し訳なさが入り混じった顔でシェイが見上げれば、イヒカは「……おうよ」とやさぐれたように返した。


「だからオレはヒューにコキ使われてるんだ……」

「そんな……じゃあ僕の借金なんてつけられたら……」

「気にすんな、どっかで一発当ててチャラにする予定だから」

「それ駄目なやつじゃないの?」


 シェイが呆れたように言うと、ヒューもまた「お前にギャンブルのセンスはねェぞ」と乾いた眼差しを向けた。


「ヒューだってねェだろ!」

「分かってるよ。その俺のお墨付きだ、間違いない」

「うわ、なんかすげェ説得力あって嫌なんだけど……」


 うっとイヒカが顔を顰める。シェイはそんな彼に視線を向けると、「僕は堅実に返すよ」と笑いかけた。


「今すぐは無理だけど、これから少しずつ貯めておく。だからまたズヴェルヴァスキに来てよ」


 シェイが真っ直ぐにイヒカを見て言えば、イヒカはううんと考えるように目を伏せた。「イヒカ」ヒューが呆れたように声をかける。するとイヒカは不承不承といった様子で指で軽くマフラーを下にずらして、「通ることがあったらな」とシェイに困ったような笑みを返した。


「イヒカ?」


 何をそんなに渋るのだろう、とシェイが首を傾げる。だが彼の疑問を遮るように、ヒューが「さて、」と声を上げた。


「そろそろシェイは支度始めねェとな。乗っけてもらう身で初っ端から遅刻しちまうのは流石に駄目だろうし」

「あっ、そうですよね。気を付けないと」


 胸の前で両手に握り拳を作ったシェイは真剣な表情になると、「じゃあ僕支度してくるので!」とイヒカとヒューに頭を下げた。


「また後で見送るよ」


 柔らかい笑みを浮かべながらヒューが言う。


「オレはー……あー……ちょっと行きたいとこあるから、いなかったらごめん」


 続いたイヒカの言葉にシェイが表情を硬くする。だがすぐに笑顔を作ると、「そっか。分かった」と大きく息を吸い込んだ。


「イヒカ、本当にありがとう」

「そういうのいいよ、なんかもぞもぞする」

「だろうね」


 ふふ、とシェイが笑みを零す。「わざとか」イヒカが嫌そうに言えば、シェイは「勿論!」といたずらっぽく笑ってくるりと踵を返した。

 心なしか上機嫌な足取りでシェイが幌馬車の方へと歩いていく。イヒカはその様子を目を細めて見つめていたが、不意に「なァ、シェイ!」と声をかけた。


「何?」


 シェイが不思議そうな顔で後ろを振り返る。自分を呼び止めたイヒカの姿を注意深く見てみたが、そうされた理由が思いつかない。なかなか話し出さないイヒカにシェイが彼の元へと近付こうとした時、イヒカが再び自分のマフラーを下げた。


「生きたいって、思い続けられるといいな」


 シェイが初めて見る笑い方だった。しかし悪い気は全くしない。それどころかイヒカが心底そう思ってくれているのだと分かって、シェイは胸が満たされるのを感じた。


「――うん!」


 短い返事をすれば、イヒカがマフラーを上げながら満足そうに笑った。それを見たシェイの目が熱くなる。

 まだ名残惜しさはあったが、もうこれ以上はもちそうにない――シェイは慌ててイヒカに背を向けると、幌馬車の方へと駆けていった。




第一章 黒塗りの渇望 −終−

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