〈三〉望まれる対価

 それからイースヘルムを進み、ギョルヴィズを抜けるまで二日かかった。行きは最寄りの街から徒歩で半日以上かけてギョルヴィズへと向かったが、帰りは隊商キャラバンの幌馬車が森を出てすぐの場所で待機していた。


「帰ってきたァ!」


 シェイを背負ったイヒカが大声を上げる。木々が密集しているギョルヴィズの中ではソリが使えなかったため、イヒカとジルが交代でシェイをおぶって歩いてきたのだ。


「……やっと、」


 イヒカの背の上で、シェイは泣きそうな表情を浮かべた。安堵と、それから悔しさの入り混じった顔だ。彼の目は二人分の荷物を背負うヒューとジルを順番に見て、最後に下へと向けられた。

 凍りついた睫毛が小刻みに揺れる。マフラーの中から、押し殺したような小さな呼吸音が繰り返し漏れる。「シェイ、辛いか?」密着しているイヒカからの疑問は当然のものだったが、シェイは「平気」とだけ答えて更に息を潜めた。


「お疲れ様です」


 幌馬車から出てきたグレイがイヒカ達の方へと歩いてくる。彼はイヒカの隣までやってくると、「シェイはこちらへ。中は暖かいですよ」とイヒカの背にいたシェイを両腕で抱えた。


「っ……」


 座ったような形でグレイに横抱きにされながら、シェイはマフラーの中へと顔を埋めた。イヒカのいた場所から幌馬車までは五メートルもない。すぐに暖かい幌馬車の中へと着いて、グレイがそっとシェイの体を床に下ろす。そこには彼の体調の変化を見越していたのか、毛布が何枚も敷かれていた。


「着替えは後にしましょう。すぐにリタが薬を作りますから、それまでこのまま休んでいてください」


 優しく言いながら、グレイがシェイに毛布をかける。シェイは何か言いたげにグレイを見たが、結局何も言葉にできないまま口を噤んだ。


 グレイが去ると、幌馬車の中はシェイ一人だけになった。外からはヒューが本隊のメンバーから不在中の報告を受ける声が聞こえる。イヒカが薬草の保管について話していて、ジルが他の者と一緒に荷物を片付けているのが分かる。


「何やってんだろ、僕……」


 掠れた声と共に出てきた涙を拭いながら、シェイは毛布の中に潜り込んだ。



 § § §



 暖かい空気の中で目を開けたシェイは、自分が眠っていたことに気が付いた。体が揺れている気がしてイースヘルムをソリで移動中かと思ったものの、そこでは有り得ない気温に、違う、と考えを改める。

 ガタゴトと小刻みに揺れる床、テントよりも幾分か広い四角い空間、壁からこちらまでを埋め尽くすような荷物。ここは幌馬車の中だ――シェイが思い至ると同時に、美味しそうな匂いが彼の鼻腔を撫でた。


「…………?」


 寝ぼけ眼のままそちらへと視線をやれば、仰向けになっている自分の左横に底の深い皿が置かれているのが見えた。


「ああ、目が覚めた?」


 不意に聞こえてきた声はリタのものだった。シェイの足元の方に座っていたらしいリタは、彼の顔の方を覗き込むように身を乗り出している。


「リタさん……えっと……?」


 シェイはリタを見た後、再びきょろきょろと視線を彷徨わせた。


「私達だけだよ。これは普段荷物しか積まないから」


 〝これ〟というのはこの幌馬車のことだと、シェイは少し遅れて理解した。隊商キャラバンの三台の幌馬車のうち、二台は人間がある程度くつろげる広さを持っているが、一台だけそのスペースがほとんどないものがあることを思い出すのに時間がかかったのだ。


「じゃあ、他の人は……? ここって普段は暖めないんじゃ……」


 隊商キャラバンにはイヒカ達回復者スタネイドの他にも何人か仲間がいる。回復者スタネイドと普通の人間では寒さへの耐性が全く異なるため、幌馬車ごとに暖め具合が異なるのだとシェイは聞いたことがあった。


「冷やしておかなきゃいけないものはイヒカ達のいる馬車に放り込んであるよ。ちゃんとみんないつもどおり過ごしているから大丈夫」


 その言葉にシェイが胸を撫で下ろすと、「それよりも君だ」とリタが笑った。


「薬はできているから飲もうか。先にご飯でもいいけど」


 そう言うリタの手には小鉢のようなものがあって、彼は話しながら視線をシェイの近くに置かれた皿に移した。シェイが最初に見つけた、美味しそうな匂いのする皿だ。


「じゃあ……先に、薬を」

「了解」


 シェイがおずおずと言えば、リタはふわりと微笑んで小鉢を食事の皿の隣に置いた。そうしてシェイの左側に置かれたそれらとは反対になるよう彼の腰のあたりまで近寄って、その背中をそっと持ち上げる。「あ、あの!」シェイが慌てて声を上げるも、「病人が恥ずかしがってちゃ駄目だよ」と笑われシェイは押し黙った。


「横になったまま飲んだら危ないしね。ほら、飲んで。あんまり美味しくないけど」


 リタは片手でシェイの上半身を支えながら、もう片方の手で床から持ち上げた小鉢をシェイの口元へと当てた。

 と同時に、シェイの口に入ってきたのはドロッとした液体だった。その瞬間シェイはうっと顔を顰めたが、それでも零してはならないと必死に喉を動かす。救いなのはほとんど匂いがしないことだ。それでも口の中には鉄っぽさと嫌な苦味が同時に広がって、喉を通すたびにその風味が匂いとなって鼻を通っているように感じられた。


「はい、おしまい。口直しにご飯食べる?」

「……そうします」


 口元を拭いたい気持ちを我慢しながら、シェイは唇と舌を動かして口周りについた薬を舐め取った。「必要な分は足りてるから無理しなくていいよ」苦笑したリタが小鉢を置いて食事の皿に手を伸ばす。彼が自分を抱え直して両手を空けたことに気付くと、シェイはぎょっとしたように目を大きく開いた。


「自分で食べられます!」

「そう? じゃあ私は背もたれかな」

「いや、それも……」

「転がって零したら危ないだろう? それは大人しく受け入れてくれると嬉しいな」

「う……はい」


 シェイは背中をリタに預ける形で座り直して、気を紛らわすように彼から皿を受け取った。


「温め直せなくてごめんね。ここ狭いから」

「いえ……いつもの幌馬車じゃ駄目だったんですか?」

「薬の作り方は秘密でね」


 頭の上から響くリタの声を聞きながら、シェイはスプーンを口に運んだ。馬車の中が暖かいからか、ぬるくはなっているものの冷たいというほどではない。イースヘルムでは少し油断するとすぐに冷え切ってしまっていたことを思い出しながら、シェイは「美味しいです」と食事を進めた。


「――どのくらい経ったんですか?」


 シェイが食べ終えると、リタは彼の体を再び横たえた。そうして片付けを始めたリタを見て、手持ち無沙汰になったシェイが問いかける。


「君達が戻ってきてから? まだ半日くらいだよ」

「半日……ずっと寝てたんですね、僕」


 シェイが苦しげに言えば、「それが病人の仕事だからね」とリタが柔らかい笑みを浮かべた。


「さっき薬を飲んだからそのうちまた眠くなると思うよ。一日かけてだんだん良くなっていくんだけど、病を受け入れられる体に変えるようなものだから結構体力を使うんだ。途中で寒くなったり暑くなったり忙しいから、眠いなと思ったら素直に寝てしまった方がいい」

「そう、なんですね……」


 シェイは自分の右手を上へと突き上げた。と言っても力が入らないため肘は曲がっている。手のひらは分厚い手袋に覆われたままのため、そうしたところで自分の肌が見えるわけでもない。

 シェイはその手をじっと見つめると、ややしてからぎゅっと握り締めた。革の擦れる音と共に、シェイの顔もくしゃりと歪む。零れそうになった涙を堪えるように無理矢理目を開くも、しかしすぐに眉間に入ってしまう力で押し戻される。


「安心した、って顔ではないね」


 リタの中性的な声が、静かにシェイの鼓膜を撫でる。それにまた一層眉間の皺を深くしたシェイだったが、息を吐くように「情けなくて……」と小さく零した。


「情けない?」

「はい……。だって……この薬は自分の力で手に入れたものじゃない……!」

「そんなことないよ。イースヘルムっていう厳しい土地に行って君が採ってきたものだ」

「違います! 僕は……僕はただ、連れて行ってもらっただけだ……」


 震える声で言いながら、シェイは両手で顔を覆った。


「こんなに自分が使えないだなんて思ってなかった……! 生きたいと願っただけで、こんなにもみんなに迷惑をかけるだなんて……!」


 手袋と肌の隙間から、つうと涙が伝う。


「途中からはもう、歩くのがやっとで……帰りなんてただの荷物だっ……僕が行かなければみんなもっと楽だったはずなのに、僕がいたせいで余計に力を使わせて……! そんなの、自力で採ったって言えない! 周りが僕の我儘を聞いてくれただけだ……!」


 ぐす、と鼻を啜る音が響く。目元を押さえたまま押し殺すように嗚咽を上げるシェイを見ながら、リタは「それが生きるってことだよ」と落ち着いた声で告げた。


「でも……!」


 言いながらシェイが手をどける。強くリタを睨むようなその目は、彼の言葉を拒絶していた。

「そんな怖い顔しない」リタが苦笑する。彼はシェイの眉間に指を当てて軽く解すように動かすと、手を離しながらゆっくりと口を開いた。


「人間なんて生きてるだけで周囲に迷惑をかける存在だよ。だって生きるためには他の生き物の命を奪わなければならないんだから。自分で手を下さずとも、相手が動物じゃなくて植物でもそれは同じ。ただ食べるために奪うだなんて、奪われる方からしたらとんだ迷惑だろう? 常にそんな迷惑をかけてるんだから、ちょっと手間を増えさせたくらいでそんな気に病むことなんてないよ」

「そうですけど、それとこれとは違うと思います……」


 シェイが納得いかないような顔をすれば、リタは「同じだよ」と微笑んだ。


「食事をしなければ人は死ぬ。薬を飲まなければ君も死ぬ。ほら、同じだ」

「だけどっ……食事は、みんな必要なことじゃないですか……。でも僕のは違う……病に罹ったから必要なだけで……」

「病に罹ったら生きる資格がないの?」

「ッ、それは……」


 ぐっとシェイの顔が歪む。辛そうに眉根を寄せて、小さく息を吐く。


「みんな同じだ。生きるためには少なからず他者に犠牲を強いていかなければならない――その点においてはね。でもうちの連中は自分が君のための犠牲となったとは思っていないだろう。君だって、例えば家族のために自ら進んですることなら大抵迷惑だとは感じないはずだ」

「……だってそれは、僕がしたいと思ったことだから」

「家族が喜んでくれるから?」


 リタの優しい表情に、シェイは「そう、だと思います」と頷くように目を伏せる。


「だって、家族が大変な思いをするところは見たくないし……」

「それだよ」

「え?」


 訳が分からないとばかりにシェイがきょとんとすれば、「分かってるじゃないか」とリタが笑ったところだった。


「生きていく限り絶対に他者に迷惑をかける。相手がそれを苦痛に思うかどうかは君との関係次第だ。君が家族のため何かして、それによって彼らが大変な思いをせずに済んだと満足できるようにね。だから結局のところ、君が相手にどれだけ返せるかだと私は思うな。ああ、お金のことじゃないよ? それがいい人もいるだろうけれど」


 リタは僅かに瞳を暗くしていたが、既に彼に言われたことを考えていたシェイの目には映らなかった。「僕が、どれだけ返せるか……」確認するように口にするシェイを見て、リタは一つ瞬きをする。そうして開いた目にはもう暗さはなく、おどけるように「とりあえず、」と肩を竦めた。


「君がそうやって自分の選択を後悔する姿は、イヒカ達にとってのそれにはならないはずだよ」

「ッ……」


 シェイの瞳が揺れる。しかしすぐに唇を固く結び、見開かれていた目は辛そうに細められた。泣くのを我慢していると分かるその姿に、リタは困ったように眉尻を下げた。


「隠せってことじゃないよ。でも、後悔するなということでもない。君に手を貸した人達は、君に何を望んでると思う?」


 白藍の瞳に見つめられ、シェイは「僕に……」と小さく零した。答えを探すように視線を彷徨わせるも、見つからないのか、その目の動きはなかなか落ち着かない。


 そんなシェイを見てリタがまた苦笑しようとした時、外から銃声が鳴り響いた。

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