〈二〉消えない負い目

 一番近い景色はなんだろう――シェイは一生懸命記憶を辿ったが、これほどの景色は見たことがなかった。

 いつかマーケットの片隅で見かけたガラス細工が近いかもしれない。だが輝きもその数も目の前の光景には遠く及ばない、と感嘆の溜息を吐いた。

 ここに来る途中で見かけた木々も同じような見た目をしていたが、あれらとも全く異なるのは明らかだ。葉や花びらが密集していることで、それぞれを通り拡散した光がまた別の花を通る――それを無数に繰り返すことで生み出されたこの光景は、シェイに身体の怠さすら忘れさせるようだった。


「もっと近くで見てみろよ」


 後ろを付いてきていたイヒカに促されて傍に寄ると、それらは植物のはずなのに本当に氷のように透き通っているのだと分かった。葉脈こそ少し透明度は下がるが、それ以外の部分は青みがかった深い緑色。大きな花の部分は少し白っぽく、花と茎の間からは先端に膨らみを持った赤いヒゲのようなものが数本、放射線状に長く伸びていた。

 シェイはこの赤い飾りのようなものだけは見慣れなかったが、それ以外の基本的な構造は一般的な植物と同じに思えた。まるで花の形をした宝石の中に葉脈を描いたかのような、そんな不思議な植物だ。


「綺麗だろ」

「うん……凄い、宝石みたい……」

「なー。オレも初めて見た時、こんなんが薬になるのかよって思った」


 シシ、と楽しそうにイヒカが笑う。


「お、これなんかいいな。ここ持って根本から折るんだ」

「ここ? ……でも折っちゃうの勿体ない気がする」

「やらなきゃ死んじまうぞ?」

「……そうだね、そのために来たんだし」


 宝石を壊すかのような後ろめたさを感じながら、シェイはえいっと茎に力を入れた。パキッと音を立てて折れたそれを目の前まで持ってくると、ますます植物には見えなくて不思議な気持ちになってくる。だが一方で氷では有り得ない柔らかさもあって、シェイは頭の中がどんどん混乱していくのを感じた。


「不思議な花……これだけ綺麗なら、お金持ちは飾っておきたいかもね」

「うーん、どうだろうな。人間が住める気温だと枯れちまうから冷やさなきゃいけないけど、そんなことしたら最期の吐息が残るだろ? 金持ちの回復者スタネイドだったら有り得るかもだけど」


 そう言って後ろを向いたイヒカの視線の先にいたのはジルだった。ジルはイヒカに気が付くと、「よっぽどの物好きだけだろ」と言って興味なさそうに顔を背ける。

 一連のやり取りを聞いていたヒューは肩を竦めると、「そんな物好きがいても困るんだけどな」と苦笑いを浮かべた。


「俺らとしては、使わないんだったらちゃんと必要としてる奴に回して欲しいんだよ。ざっと見た感じ、今回も採れるのはあんまなさそうだし」


 シェイには違いが分からなかったが、隣のイヒカも頷いて「オレとシェイは休んでて良さそうだな」と言うあたり、本当にヒューとジルだけで手が足りる程度しかないようだ。


「これ一本でどのくらいの薬ができるの?」

「一人分」

「えっ……!?」


 イヒカの答えにシェイが目を見開く。この薬草が希少な存在だというのはここまでの道のりとヒューの言葉で実感したが、だからこそ一株が生み出せる治療薬の少なさに驚いたのだ。


「どうにか作れる量を増やそうって研究はしてるらしいんだけどな、そもそも実験に回せる量も少ないからあんま進まないんだと」

「そうなんだ……」


 イヒカの言葉を聞きながら、シェイは改めて自分の手の中にある薬草を見つめた。そしてそれを採った場所を見て、その数の少なさに表情を強張らせる。

 確かに花畑と表現できるくらいに生えているが、面積で言えば人間一人が寝転べる程度しかない。採れるものがあまりないという言葉も考えると、持ち帰れる量は花束が作れるかどうかといったところだろう。「お金だけの問題じゃないんだ……」シェイが小さく呟けば、「そうだよ」とイヒカが頷いた。


「それから治療薬を作れる人間も少ないらしいんだよ。まァ普通は作る機会がないから当然なんだろうな」

「え……じゃあこれ持って帰っても駄目ってこと……?」


 愕然とした表情でシェイが言う。「そのままかじればいいのかな……」自分を安心させるようなその声に、イヒカは「それはやめとけ」と苦笑を零した。


「かじっただけじゃ効果は一時的だから無駄になっちまうよ。それに薬の方は心配しなくていい。うちにはリタがいるから」

「そういえば薬学者って……」


 シェイはリタと初めて会った時のことを思い出した。あの時イヒカに先生と呼ばれた彼は、自分を薬学者だと言っていたはずだ。


「本来ならうちは製薬施設なんかに卸すだけで作らないんだけどな、今回はリタが研究用に調薬したいらしいから、それをあいつに渡すといい」


 薬草を採りながらヒューがシェイに笑いかける。シェイも一瞬安堵したように顔の力を抜いたが、すぐに表情を曇らせた。ここまでの行程、手元の薬草、それから調薬――頭に浮かんだものを考えると、素直に喜んでいいのか分からなくなる。

 通常これらは治療薬という形になって大金と交換されるものだ。それなのに自分は……――シェイの視線が落ちる。後ろめたさを感じながら「そこまでしてもらうなんて……」と小さい声で言うと、ヒューがニヤッと口端を上げた。


「俺達がお前に〝してやる〟んじゃない、リタがお前に〝させてもらう〟んだよ。いくらヘルグラータを扱ってるって言っても、あいつも好きな時に治療薬を作れるワケじゃないからな。たまには作っとかないと腕が鈍るんだと」

「それにアイツ暇になると変なモン作るからさ。そういうのじゃなくて治療薬を作っててもらった方が実験体にされる方としても安心なワケ」


 だから気にするな、とヒューとイヒカが伝えようとしているのはシェイにも分かった。しかしその気遣いが余計に彼の心を重くする。「ありがとうございます」どうにかシェイは笑顔を返したが、胸の苦しさは消えなかった。



 § § §



 冷たい風が肌に突き刺さる。それを和らげようとシェイはイヒカの背に顔を埋めたが、密着したことで振動のたびに顔がそこに打ち付けられ、痛み自体はなくならなかった。

 しかもイヒカは幾度となく乱暴に右に左に方向転換を繰り返すものだから、ロープで結ばれているとはいえシェイは弾き落とされないか不安だった。時々身体がふわりと浮いたかと思えば硬い氷に叩きつけられて、板越しとはいえ尻もどんどん痛くなってくる。


「気持ち良いな、シェイ! もっと飛ばすか!?」

「あ、安全運転で……!!」


 楽しそうなイヒカの声に慌てて力を振り絞って伝えれば、「そうかァ?」と残念そうな言葉が返された。


 雪山は登るのは大変だが帰りは楽だ――薬草を収穫し終わったヒューの言葉の意味を理解しかねたシェイだったが、直後に見たもので全てを悟った。

 ソリだ。イヒカ達がリュックと共に背負っていた板の正体はソリで、それが三つ並んでいるのだ。そしてそのソリが向くのは下り坂、これまで上ってきた道。まさかと思って固まったシェイにイヒカがロープを巻きつけて、「お前は俺の後ろな」と言ってきたことで、シェイは逃れられないのだと理解した。


 シェイが心の準備をする間もなく、ヒュー、イヒカとシェイ、ジルの順番でソリは雪山を滑り下り始めた。氷に亀裂があるかもしれないのに大丈夫かとシェイは思ったが、それは行きにヒューが確認していたらしい。来た道をそのまま通るから大丈夫だとイヒカに言われ、シェイはもう何も言うことはできなかった。


 最後に体温を測る前に温度計が示していた気温は零下マイナス六〇度。そこに猛スピードで滑り下りる際の風が加われば、体感温度は更に低くなる。普通の人間がこれをやれば露出している肌があっという間に凍りついてしまうだろうが、ここにいるのは全員氷に呪われた身だ。まだ寒さを克服しきっていないシェイでもどうにか耐えられるのだから、完全に病を飼い慣らしたイヒカ達にとっては何の問題もないのは彼らの様子からも明らかだった。

 イヒカとヒューはまるで遊んでいるかのような歓声を上げている。それは速度が上がるにつれて大きくなっていって、ソリが跳ねるたびに笑い声に変わる。そうして賑やかな雰囲気の中、四人は二日かけて登ってきた山を一気に下りていった。


さむッ……」


 内からの侵食するような寒さと、外から叩きつけられる冷気。外の寒さは感じないはずなのに、状況のせいでとても寒く感じる。シェイが必死に露出している目元を手で覆いながら寒さに耐えていると、しばらくしてやっと速度が落ちた。

 それに安心して手をどければ、目の前に広がったのは平坦な雪と氷の大地だった。いつの間にか自分と繋ぐロープを解いていたらしいイヒカが立ち上がるのを見て、シェイもまた慌てて立ち上がろうと足に力を入れた。


「……あれ?」


 力を入れたはずなのに、立ち上がれない。シェイは驚きながらも再び立ち上がろうと試みたが、やはり手足にうまく力が入らなかった。

 感覚としては数日前に氷の亀裂に落ちた時に近い。あの時も腕で自分の身体を持ち上げることはできなかった。だが、それでもあの時は立ち上がれたはずだ――以前までとは違う身体に嫌な予感を抱いて、シェイの顔がすっと強張る。


「立てないのか?」

「ッ、大丈夫! ちょっと疲れてるだけだから、すぐ……!」


 自分の顔を覗き込むイヒカから逃れるように氷の地面に突いた手を睨むと、シェイは再びどうにか立ち上がろうと力を込めた。


 ――しかし、結果は変わらない。


「無理すんな、シェイ。上で休んで多少体力は回復しただろうが、お前の顔色見れば相当症状が進んでることくらい分かる」

「ッ……」


 近付いてきたヒューに言われて、シェイは顔をくしゃくしゃに歪ませた。


「大丈夫だって、まだ死ぬワケじゃねェから。多分疲れやら何やらで一時的に症状が強く出てるだけだ。ゆっくり休めればマシになるよ」


 苦笑しながら自分を安心させるように言ってきたヒューに、シェイはそうじゃない、と顔を俯かせた。

 身体が動かない――その事実がシェイの心臓を握り締めていた。たとえまだ死なないのだとしても、動けなければ意味がない。仮に動けるようになるまで休めば、きっと取り戻せないほどの遅れになってしまうだろう。

 自分のせいで遅れるだなんてあってはならない。ならばもう、自分はここに残るしかない。ここに残れば、薬を飲むことはできない。


 唐突に訪れた自身の命の終わりに、シェイが目を潤ませた時だった。


「ンじゃ順番な。俺、イヒカ、ジルで」


 いつもと変わらないヒューの声が響く。それにイヒカとジルも当たり前のように了承を示している。


 まさか本当に休むつもりじゃ……――シェイは慌てて顔を上げた。自分の為に休まなくていいと口にしようとして、しかし目に入った光景に言葉を失った。


「落っこちるなよ?」


 そう笑うヒューは、シェイの乗るソリにロープを結んでいたのだ。


「えっ……待ってください! そんなこと……!」


 シェイが一瞬で悟ったとおり、ヒューはソリに結んだロープを肩にかけて歩き出そうとしていた。「ん?」とシェイの声に振り返ったヒューは不思議そうな表情を浮かべている。


「でもお前歩けないんだろ?」

「そうですけど……」

「なら大人しく運ばれとけ。別にシェイくらいの重さだったら運び慣れてるしな」

「でも……ッわ!」

「下手に喋ると舌噛むぞ」


 文句は言わせないとばかりにヒューが歩き出す。「いいじゃん、子供の頃よく親にやられただろ?」後ろから続くイヒカがからかうように笑う。


「そういう問題じゃ……」


 そう言いながらも、シェイにはそれ以上何も言葉が浮かばなかった。拒否することは状況から考えて不可能だ。だが、だからと言って素直に礼を言えるほどシェイの心は強くはない。

 これまで散々足を引っ張ってきたのに、これでは完全にお荷物だ――ただただ、その事実だけがシェイの胸の中にどしりとのしかかる。


 しかし彼らに運んでもらえないと、このまま命を落とすしかないというのも理解していた。シェイは歯がゆさに耐えるように奥歯を噛み締めて、その場でじっとしていることしかできなかった。

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