第六幕 願いのあとに
〈一〉侵食する影
それから二日は事故もなく、四人はイースヘルムを進んでいた。今彼らがいるのは小高い山の中腹あたり。周囲には低木がちらほらと見受けられるが、それらは全て色の着いた氷でできたかのように透き通っていた。色が着いていると言っても派手な色合いではなく、この白い世界を程よく彩る程度の薄い色づきだ。
いつの間にか見かけるようになったそれらに感動している余裕はシェイにはなかった。最初に気付いたのはもう二時間は前のことだが、綺麗だと思ったのは一瞬のこと。重たい足に、すぐに浅くなる呼吸。病だけでなく連日の移動の疲れと上り坂が更にシェイから力を奪う。そんな中では足を動かし続けること以外できるはずもなかった。
早く休みたい――そう願い続けてどれくらい経っただろうか。シェイが何度目か分からないその願いを頭に思い浮かべた時、先頭からヒューの休憩を告げる声が響いた。
「――大丈夫か?」
半ば倒れるようにして座り込んだまま動かなくなったシェイの顔を、イヒカが心配そうに覗き込む。そのイヒカからは全く疲れた様子が感じられず、シェイは「大丈夫だよ」と無理矢理笑みを浮かべた。
「無理すんなよ? ここのところシェイ全然喋んねェし……これとか絶対シェイ驚くと思ったんだけど」
そう言ってイヒカが指差したのは、シェイの近くに生えていた低木だった。精巧な氷細工の木に雪が積もったような見た目で、曇り空から僅かに降り注ぐ太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
「そりゃ驚いたよ。凄く綺麗だし……でもちょっと、歩いてる時は見てる余裕なくて」
「余裕ないってことは無理してるんだろ。ちゃんと言えよ」
「わざわざ止めるほどでもないからさ」
不機嫌そうに口を尖らせるイヒカにシェイが苦笑いを返すと、「そう思えてるうちに止める練習しとけ」とヒューが近くにやってきた。
「止める練習、ですか?」
「おう。じゃねェといざ本気でやばくなった時、気後れしてちゃんと言えないかもしれないだろ?」
「確かに……」
自分の性格が見透かされているように感じられて、シェイは苦々しく顔を歪めた。「自覚ありそうだな」おかしそうにヒューが笑えば、更にシェイは気まずそうに視線を泳がせる。
「でも……もう既に僕のせいで遅れちゃってますよね? それなのに練習で止めるだなんて……」
これまでの道のりを思い出しながら、シェイは申し訳なさそうにぼそぼそと呟いた。時間が経つごとに休憩の頻度が高くなってきている気がするのだ。〝気がする〟だけではっきりと分からないのは、歩いている間はシェイ自身も疲れで時間感覚が鈍くなってしまうからだろう。
だが、食事と睡眠以外でそう何度も止まることはなかったはずだ、とシェイは周りを見渡した。自分の近くに座るヒューとイヒカは勿論、ジルだって何か作業をしているようには見えない。
シェイは「ごめんなさい、迷惑かけて……」と頭を下げた。ゆっくりと上げられた顔は二日前よりも更に白く、目の下の隈も目立つようになっている。
その顔を見てヒューは微かに目を細めると、「とりあえず体温測っとけ」と自分の脇を指差した。断る理由もないため、シェイはリュックの中から体温計を取り出して、首元から脇の下へと挟み込んだ。
「ま、お前さんが気にするほど遅れちゃいねェよ。元々休憩多めに見込んで六日ってことにしてあったから」
「そうなんですか……?」
ヒューが初めて六日間だと口にしたのはまだ自分が同行すると決める前だったはずだ、とシェイは目を丸くした。しかし驚いたのは彼だけではなかったらしい。シェイの隣からイヒカが「は?」と少し怒ったような声を上げた。
「そうなの? じゃァお前最初っからシェイのこと連れてく気だったのかよ」
「まァな」
悪びれる様子もなく答えたヒューに、イヒカはなんとも言えない表情を浮かべた。
「なんだよ、だったらあの時シェイと揉める必要なかったじゃん」
「終わったことを気にすんなよ。大体、外野がどう考えてるかじゃなくてシェイ自身がどうしたいのかって方が大事だろ。俺はこいつがどう決めても動けるようにしただけ」
「本当そういうとこ! 大人ってずりィよな」
「子供から見りゃイヒカも十分大人だろ」
ヒューの言葉にイヒカがうっと顔を顰める。「だったら子供扱いすんなよ」と拗ねたように言ったが、すぐに気を取り直すように「にしてもさ、」と言葉を続けた。
「よくこっちの方知ってるな、ヒュー。オレ今まで来たことないけど。しかも東の方に進みながらだろ?」
そう言うイヒカの視線は周囲に向けられていた。その様子にヒューは片眉を上げると、「先代の頃にな」と口を開いた。
「今はあんまり長居しねェが、昔は平気で一ヶ月とかイースヘルムにいたのよ」
「げ、飽きねェの?」
「飽きる飽きる。氷とババアとジジイだけ見てたらそりゃ心も荒むわ。だから俺は自分が隊長になった時に決めたんだ、なるべく長居せずに余った時間でお姉ちゃん達に会おうって」
「モテねェのにな」
「うるせェよ!」
二人のやり取りにシェイが顔を綻ばせる。だがふと何かに気付いたような顔をすると、「食糧は足りるんですか?」と不思議そうにヒューに問いかけた。
「一ヶ月分って凄い荷物になりますよね? 狩りをするって言ってましたけど、ここに来てからまだ全然生き物見てないですし……」
「ああ、今回はちょっと何かいそうなトコは避けてるからな。昨日イヒカと足跡見つけたんだが、このあたり俺らが雪熊って呼んでるデカい猛獣の縄張りっぽいのよ。だからあいつの餌になりそうな動物にも遭遇しないようにしてんの」
「……僕がいるから、ですか?」
不安そうに尋ねたシェイに、ヒューがきょとんとした表情で固まる。しかしすぐにブッと吹き出すと、「違う違う!」と笑い声を上げた。
「シェイがいなくても避けるよ。熊っつっても普通の熊とは違うからな、デカい個体だと五メートルくらいあるんだよ。しかもめちゃくちゃ凶暴な上に毛皮が分厚すぎて刃物も通らねェ。ンなモン会いたくないだろ? 普段から見つけたら可能な限り逃げてるんだよ」
「そうそう。倒そうとすると絶対誰かしら怪我するから嫌なんだよなァ、アイツ。あ、もし遭遇したらシェイ担いで逃げるから安心していいぞ」
「はは……」
ヒューとイヒカの言葉を聞きながら、安堵なのか恐怖なのかよく分からない感情に襲われたシェイは顔を引き攣らせた。
そんな彼を見て、「大丈夫だよ、そんなに数はいねェから」とヒューが安心させるように言う。「それに食うと美味いしな」と付け足せば、イヒカも「そうそれ!」とその味について話し出した。
そうしてそのまま少しの間雑談を続けていると、不意にヒューが思い出したようにシェイへと顔を向けた。
「ほらシェイ、そろそろ体温測れたろ」
「そうですね」
脇の下から体温計を取り出したシェイは、赤く染められたアルコールの示す体温を見て動きを止めた。「どれ」ヒューがシェイの手から細いガラスの棒を奪い去る。目を細めてそれを見て、「一八度か」と低い声で呟いた。
「アルコールだから一、二度誤差はあるとして……それでも高くて二〇度か。ここ二日は落ち着いてたけど、疲れのせいで一気に進んだかな」
体温計を軽く振りながらヒューが苦笑いを零す。
「……間に合うでしょうか」
「大丈夫だよ、一週間は持つだろうさ」
「でももっと遅れたら……」
シェイの言葉を遮るように、「ほら」とヒューが体温計を彼に返す。それを受け取ったシェイは口を噤むと、いそいそとリュックの中にしまい込んだ。
「やっぱ一八度って動きづらいか?」
イヒカが心配そうに眉尻を下げる。「オレ病気の時、多分そんな下がったことねェんだよ」続いたその言葉に、ヒューが「ああん?」と唸り声を上げた。
「お前は俺が拾った時一五度しかなかったよ」
「あ、そうなの?」
ううんと考えるような仕草を見せたイヒカだったが、やはり思い当たるものはなかったらしい。「全く記憶にねェわ」と肩を竦めると、ヒューが呆れたように溜息を吐いた。
「ま、イヒカは病以前に遭難したせいで衰弱してたからな。薬飲んだ後もしばらくずっと寝てたからそりゃ知らないだろうよ。確かジルは一〇度くらいの時にうちに来たよな?」
そう言ってヒューが少し離れたところにいるジルへと顔を向けると、三人の会話に入らずにいた彼は「……ああ」とだけ答えた。
「そうなんですか?」
シェイが問い返したのはヒューに対してだ。先程までの不安そうな様子は薄まり、今は話に集中しているように見える。「おうよ」と頷いたヒューは顎髭を触ると、「あの時は驚いたな」と話し出した。
「四年前だっけか? まァそんなだからジルもまだシェイくらいの年でよ。身体も大きくなりきってないガキが、グレイっていうデカい男担いで『薬寄越せ』ってなァ……死にかけで必死に来たからか、目ン玉ギラギラさせててよ。一瞬盗賊かと思ったわ」
「グレイさんを?」
シェイが首を傾げれば、「あれ、言ってなかったか?」とヒューは目を瞬かせた。
「グレイとジルは同郷なんだよ。軍で同じ小隊だったんだっけか?」
ヒューの問いにジルは少し考えるようにした後、「そんなところだ」と小さく返した。だが話に参加する気はないらしく、それ以上は口を開こうとしない。
そんな彼の態度にヒューは気にした素振りも見せず、「ンで、」と話を続けた。
「賊みたいな風貌で現れたクセに、ジルってば代金としてきっちりクソ高い宝石をたんまり持ってたモンだから腰抜かしかけたんだよ。しかも体温測ったら普通は動けないくらいまで進行してたワケだしな。いやァ、あれは面食らった」
「宝石……」
シェイが訝しむような目を向けると、ジルは嫌そうに顔を顰めた。
「実家からくすねただけだ。問題ない」
「実家って……」
驚くシェイに、イヒカが「金持ちのボンボンなんだよ、コイツ」と不機嫌そうに付け足す。
「その宝石だって、グレイと二人分払ってもおつりが来るくらい持ってたからな」
「え……一体いくらに……」
想像した金額にシェイが顔を強張らせる。「ただの石ころだろ」どうでも良さそうに告げられた持ち主の言葉に、シェイの口からは乾いた笑いが漏れた。
「石ころ……」
「本人は興味なさそうだが、育ちのお陰かジルの審美眼は確かでな。こいつが来てから宝飾品は偽物掴まされることがなくなったから、俺としちゃァ大助かりよ」
豪快に笑うヒューを見ながら、シェイはこっそりとジルに目を向けた。荒くれ者が多い
リタやグレイにも品はあるが、ジルのそれは彼らとは一線を画していた。服装は他の者と変わらないのに、ふとした仕草がそれだけで一枚の絵になるような、そんな不思議な感覚がジルを見ているとシェイを包み込むのだ。
「なんだ」
「えっ……いや、ごめんなさい!」
不機嫌そうにジルに睨まれ、シェイは慌てて視線を逸らした。「気持ちは分かるぞ、シェイ」しみじみとした表情で自分の肩に手を置くヒューに曖昧な笑みを返しながら、シェイはマフラーを巻き直すふりをした。
§ § §
翌朝からは更にシェイにとっては過酷な道のりとなっていった。ゆるやかながらも傾斜が延々と続き、すぐに息が切れそうになる。氷の上に雪が積もった足元は歩き辛く、いくら氷をひっかけられる靴を履いていると言っても、踏み込んだ深さが足りなければずるずると滑ってしまうのだ。
いつからか、シェイは休憩のたびに全くと言っていいほど動けなくなっていた。テントを張る手伝いができなくなり、焚き火の片付けもできなくなった。リュックでさえ自分で背負って歩くことができない。ただただ前へと進むことだけに全力を尽くさないといけないくらい、シェイの身体は疲れと病で弱っていた。
「本当に無理そうなら運んでやるからな」
「はいっ……でも、まだ……!」
一番前を歩くヒューに言われてすぐに返事をしたが、シェイの顔は苦しそうに歪められたままだった。それどころか返事をするために顔を上げたことで、自分以外の三人はけろりとしていることに気が付いてしまい余計に表情が曇る。
既に荷物は前を歩くイヒカが預かってくれている。後ろでは滑り落ちそうになった自分を何度もジルが止めてくれている。先頭を行くヒューは時折後ろを確認して、無理がないようペースを調整してくれている。そうやって彼らに迷惑をかけているという事実が、シェイの気分を暗くさせていく。
それでもシェイは足を止めなかった。息が上がりそうになればきちんと休んで、落ち着いたらすぐに歩き出す。時折彼の顔に浮かぶ鬼気迫る表情に明るさはない。これ以上迷惑をかけたくない――そんな後ろ暗さが、徐々にシェイの心を蝕んでいった。
それからどれくらい進んだだろうか。途方も無い時間に感じてシェイが顔を上げれば、空はまだまだ明るかった。見間違いでは有り得ない光景にうっと顔を顰める。それでもシェイが自分の頬を叩いて気を取り直そうとしていると、「おい」と先頭を歩くヒューが後ろを振り返った。
「シェイ、見えたぞ。あの氷の裂け目が洞窟みたいになってて、そこにヘルグラータの群生地がある」
「あそこに……」
安堵するように息を吐いたシェイはヒューの示す方へと目を向けたが、そこにはただの氷の壁があるだけにしか見えなかった。本当にもう着いたのだろうかという猜疑心すら抱きながら再びヒューへと視線を移せば、真剣な眼差しで自分を見ていた相手と目が合った。
「前にも言ったかもしれねェが、群生地だからと言っても必ず生えてるわけじゃない。生えていたとしても、数が少なすぎたり若すぎたりすれば採ることはできない。ここまで来てそれでもいいなら――」
言いながらシェイの元まで来ていたヒューが、そっと小さな背中に手を添える。
「――お前の足で採りに行け」
それでやっと実感を抱いたシェイは、やや遅れて「はい……!」と頷いた。よたよたと身体を揺らしながらもどうにか前へを歩を進める。その足はもう重くて仕方がなかったが、これで最後だと言い聞かせながらシェイは必死に足を動かし続けた。
雪と氷を踏み締め、一歩一歩着実に氷の壁へと近付く。そうしてしばらく歩くと、ヒューの言うとおり氷の壁に裂け目があるのが分かった。同じ色で分かりづらかったが、確かにそこは洞窟のようになっている。
いつの間にか足元からは雪がなくなり、氷だけになっていた。お陰で幾分か歩きやすくなった道を、シェイはどうにか洞窟の中へと進んでいった。
外よりも薄暗い洞窟の中は、氷の壁を通って反射した光によって幻想的な雰囲気が醸し出されていた。まるで水の中にでもいるかのように、青みがかった世界にいくつもの光の帯が漂っている。
そんな中を歩いていくと、少し先に他よりも光を放つ場所が見えた。そこに近付くにつれて気温は下がっていって、光の正体も明らかになってくる。
「氷……?」
キラキラとまばゆい光を放っているのは無数の小さな氷だった。その氷に光がたくさん反射しているのだ。
そしてよく見ると、小さな氷は花のような形をしているのが分かった。真っ直ぐと伸びた細長い氷から葉っぱのようなものが生えていて、更に一番高いところには大きな花が咲いている。イースヘルムの外で見るような花の形――そんな氷が目の前にたくさんあって、まるで氷の花畑のようになっていた。
「良かったな、無駄足にならなかった」
近くを歩いていたヒューの言葉で、シェイはそれが何なのかを理解した。
「これが……」
これこそが、氷の病の癒やす薬草だった。
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