〈三〉選んだもの

 イースヘルムに入ってから一日、既にシェイは変わらない景色に嫌気が差していた。ギョルヴィズよりも多少は歩きやすいが、いくら歩いても前に進んでいる気がしない。時折遠くに山や森のようなものが見えるものの、それは目的地ではないらしく、景色の変化の兆しを横目に見ながらひたすら氷の上を歩き続けるのみ。


 更には足の下からこちらを覗いてくる暗闇が、シェイの心を余計に暗くさせていた。目を逸らそうにも足元には気を付けなければならないため、どうしても視界に入れざるを得ない。

 表面の青く透き通った美しい色だけを見ていられれば違ったかもしれないが、いくら見ないようにしてもシェイの目は自然とその奥へと吸い込まれてしまっていた。光の届かないそこは、ヒュー曰く墓場。おとぎ話によれば死者の国、もしくは地獄とも表される深淵。それらの単語からもたらされる印象ばかりが頭の片隅に居座って、ずっとここにいれば自分もこの暗闇の中へ引き摺り込まれてしまうのではという錯覚がシェイを襲うのだ。


「……はっ……はっ……」


 小さく跳ねる呼吸、重くなる足取り。ヒューの後ろを歩いていたはずなのに、いつの間にか最後尾を行くジルの近くを歩いている。それを自覚しているのに元の位置に戻れない自分にもどかしさを感じて、シェイの顔はどんどん険しくなっていった。


「おい」


 声が聞こえてから、数秒。やっと自分に声をかけられたのだと気付いたシェイは少し慌てた様子で「なんでしょうっ……」と後ろを振り返った。


「休みたいなら言え」


 不機嫌そうなジルの声に、シェイは間髪入れず「いえ」と返す。「まだ大丈夫です」答えればジルの眉間に皺が寄る。その反応にどうしたらいいか分からなくなったシェイは、気付かなかったふりをしながら前へと視線を戻した。


「この辺り氷が脆い。気を付けて歩けよ」


 前からヒューの声が響く。その声にシェイは足元に視線を落とした。氷が脆い場合は罅の入り方を見ながら歩けとヒューから事前に言われていたからだ。

 なるべく罅の少ない箇所、もしくは大きな罅から遠い箇所を選べ――選ぶ基準が分からないシェイに、最低限としてヒューが言った言葉だ。本当は罅の方向なども見極める必要があるとのことだが、ひとまずはそこに注意しながら前の者が通ったとおりに行けばいいと言われている。


「はぁっ……」


 大きく息を吸って、足元を見ていたシェイは目を擦った。風が強くなってきたのか、氷の上にかかった雪が舞い上げられ、白い冷気となって視界を阻む。足元の状態を見たいのに、まるで煙のように細かい粒子のせいで罅の在り処すらよく見えない。目を擦ってもそれは変わらず、シェイは苛立ちを覚えながら足を前へと運んでいった。


「――おい!」


 声が聞こえて、シェイはゆっくりとそちらへと目を向けた。斜め後方、三メートルほど離れたところにジルが立っている。


「……あれ?」


 斜め後方――自分が振り返った角度を思い返してシェイは首を傾げた。無意識のうちに反対側、後方の人物を挟んで前方となる向きへと目を向けるも、そこにいるはずのイヒカとヒューは見当たらない。

「シェイ?」イヒカの声はシェイの斜め前方。一直線で進んでいるはずなのに――浮かんだ答えに、シェイは慌てて動き出した。


「ごめんなさい、僕っ……!」

「動くな!」


 珍しいジルの大声。途端にシェイの中に焦燥感が湧き上がる。焦りのせいでシェイはジルの言葉の意味すら考えられず、次の瞬間には足を動かしていた。


「今そっちに――ッ!?」

「馬鹿が……!」


 ガクンと抜ける足元。遅れて聞こえてきたのは何かの砕ける音。シェイがその音の正体を理解する前に、彼の体は宙へと投げ出されていた。



 § § §



「――いた……」

「動くな」


 身体に痛みを感じたシェイに、低い声が突き刺さる。その声の厳しさにびくりと肩を揺らせば、「動くなと言ってるだろ」と再び不機嫌そうな声が聞こえてきた。


「あれ……? ジルさん……?」


 シェイが顔を上げると、目の前に作り物のように整った顔が飛び込んできた。それから艶のある青みがかった黒い髪に、黒と見紛うほどの深い紺青こんじょうの瞳――ジルだ。その距離の近さにシェイが慌てて身体を離そうとした時、「何回言わせるんだ」と鋭い目線がそれを制した。


「動けば死ぬぞ。この状態じゃもう拾ってやれない」

「え……?」


 ジルの言葉にやっとシェイは周りに目を向けた。少し前より僅かに暗くなった視界、閉塞感、青い壁――周囲を氷の壁に囲まれながら、自分はジルに抱えられているのだと知った。

 そのジルは氷の壁に脚を突っ張るようにしていた。何故そんなことをしているのかという疑問のまま視線を下に移せば、飛び込んできた暗闇にシェイの口から「ひっ……」と悲鳴が零れる。


「理解したか」

「は、はい……。なんでこんなことに……」


 ここが氷の裂け目の中だということはシェイにも理解できた。そしてジルはそれ以上深く落ちないように、全身で自分を支えてくれている――動けば死ぬというのは自分のことだけではなかったのだと気が付いて、シェイは背筋が凍りつくのを感じた。


「お前がふらふら列を逸れるから落ちたんだ。動くなと言ったのに……」


 呆れたような声にシェイの記憶が蘇る。一列となって進んでいたはずなのに、イヒカ達とジルは自分の前後にはいなかった。それが意味するのは、自分だけ列を逸れてしまっていたということだ。


「ごめんなさい! 僕……!」


 落ちる直前に聞いたジルの制止。それを焦って無視してしまったのだと思い出して、シェイは慌てて声を上げた。しかし返ってきたのは「うるさい」の一言だけで、シェイはうっと声を詰まらせた。


「おいジル! シェイ! 平気か!?」


 上から聞こえてきたヒューの声にジルが顔を上げる。彼が「ああ」といつもよりほんの少しだけ声を張り上げると、「ンじゃロープ投げるわー!」と緊張感のない言葉が返ってきた。


「いけるなら自分で上れ」


 ぽとりと垂らされたロープを片手で掴んでジルが言う。「はい!」シェイが返事をすれば、「腰に括り付けろ」とジルが指示を出した。

 なるべくジルに負担がかからないようシェイは最低限だけ身体を動かして、腰のベルトにロープを付ける。そして氷の壁に手をかけて、五メートル以上離れたところにある出口を見上げた。


 腕に力を込めて、ぐいと身体を持ち上げる。しかしその瞬間襲った違和感に、シェイは思わず動きを止めた。


「力が入らないのか」


 冷静な声でジルに言われ、シェイは「……みたいです」と呆然とした様子で呟いた。壁から離した手を顔の前で何度も握っては開く。普通の動作には問題がないことを確認すると、「もう一度……!」とシェイは再び壁に手を伸ばした。


 ――だが、やはり身体は持ち上がらない。


「ッ……」


 シェイの瞳が揺れる。不安と絶望を抱いた目は無意識のうちに壁を下へと追ってしまう。暗闇が、シェイを待ち受ける。


「ぁ……」


 シェイの身体がカタカタと震え出した。それが余計に彼から力を奪う。シェイはどうにか震えを止めようとして壁にしがみつくも、視界の揺れは止まらない。


「……どうしたいんだ、お前は」


 呆れたような声に目だけを向ければ、ジルが不機嫌そうな顔で自分を睨んでいるのが分かった。


「僕、は……」


 その鋭い目が、シェイの中で数日前の相手の姿と重なる。


『――なら今ここで死ね』


 ゴルジファでジルに言われた言葉を思い出し、シェイの身体が更に固まる。そんな彼を見ていたジルは大きな溜息を吐くと、「はっきりしろ」と唸るように口を開いた。


「生きたいんじゃなかったのか」


 ドクン、シェイの鼓動が小さく跳ねる。「あ……」声を漏らした直後にぎゅっと唇を噛み締めて、萎縮しきっていた身体を叱咤する。そうして震えを抑えつけるように大きく息を吸うと、しっかりとジルの目を見据えた。


「生きたいです……! でも、登れないから……助けて欲しいです……」


 尻すぼみになりながらも言い切れば、「ならロープの結び方を変えろ」とジルが呆れたように言った。


「えっと……?」

「それじゃあ登りにくいだろ。背負ってやるからまず俺とお前を繋げ」

「……はい!」


 言われたとおりにシェイが自分とジルを繋げば、ジルはシェイを背中に移動させてすぐに氷の壁を登り始めた。手足を器用に氷の出っ張りに引っ掛け、いとも簡単に二人分の重さを持ち上げる。

 自分はそこまで軽くないはずだ――まるで重さを感じさせない動きにシェイが驚いている間にも、どんどん光が近くなっていく。そうして一分程度で登りきると、安心したような表情のヒューとイヒカに出迎えられた。


「さっすがー」


 ヒューが茶化すように笑う。地上へと出たジルはロープを外しながら、「次はやらない」と顔を顰めた。


「ジルさん、迷惑かけてごめんなさい……」

「謝るくらいなら落ちるな」

「ぁ……ごめ、いや、えっと……」


 どう返したらいいか分からずシェイが戸惑っていると、様子を見ていたヒューが呆れたように溜息を吐いた。


「ジルよ、お前もうちょっと分かりやすく言ってやりなさいよ」


 その言葉にジルが眉間に皺を寄せる。少し考えるように目を伏せて、ゆっくりとした動きで再びシェイへと顔を向けた。


「……方角が分からなくなるほど疲れてるなら先に言え。休んだ方が時間も手間もかからない」


 それだけ言うとジルはシェイに背を向けてしまった。シェイはそれで話が終わりなのだと分かったものの、言われた内容を思い出して表情が暗くなる。明らかな苦言、自分の落ち度。迷惑をかけたことを謝りたいのに、謝罪は既に拒絶されてしまっている。

 どうしよう、と思い悩むシェイの頭に、ヒューがぽんっと手を置いた。


「あいつもお前の体調は理解してる。あれでも心配してくれてんのよ」

「……そうでしょうか」


 何度その言葉を思い返してみても、迷惑をかけるなと言われただけで心配されているようには思えない。


「そうだよ。俺らだけの時は頼まないと温かい飲み物なんて用意してくれねェよ?」


 なんのことだろうか、とシェイが怪訝な表情を浮かべる。だがすぐに目を見開くと、弾かれたようにジルの方へと顔を向けた。


 数歩離れたところにいるジルは、珍しくイヒカと二人で話していた。その光景にシェイは首を傾げたが、イヒカがジルに突き出しているものを見て状況を理解した。


「投げんなって言いたいけど今回は許す」


 そう不満そうに言うイヒカの手にあるのはジルの荷物だ。「お前の許しなんかいるか」とジルが返せば、「オレが落ちる前にキャッチしてやったから無事なんだよ!」とイヒカが声を荒らげた。


「あの……ジルさん!」


 言い争う二人の元に近付くと、シェイはジルに向かってばっと頭を下げた。


「何だ」

「ありがとうございます。ちゃんと自分の体調には注意します」

「……ああ」


 そうしてまたそっぽを向いてしまったジルに、彼の横で「もっと何か言えよ」とイヒカが呆れたように顔を顰めた。

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