〈二〉暗い底
翌日、テントで一夜を明かした一行はイースヘルムに向かって歩いていた。
ヒュー達
「シェイ、苦しいか?」
呼吸を取り戻そうと大きく息を吸ったシェイに、隣を歩くヒューが問いかけた。
「いえ……」
「我慢するなよ。心拍数が上がり過ぎたらお前は倒れちまうから」
自分に語りかけるヒューの呼吸が全く乱れていないのに気が付いて、シェイは悔しそうに顔を歪めた。それを悟られないよう前だけを向いて「……はい」と答えれば、僅かだが苦笑したような息遣いが聞こえてくる。
「もうすぐギョルヴィズを抜ける。そしたら少し休むぞ。今の靴のままじゃ歩き辛いからな、装備も変えなきゃならん」
丁寧なヒューの説明が、よりシェイの心を曇らせた。
§ § §
まだ暗いうちから歩き続けて数時間、森の終わりは突然訪れた。深く白い木々に覆われていた視界が一気に開けたのだ。
「わぁ……」
思わず感嘆の声を漏らしながら、シェイは目の前の光景に釘付けになっていた。
見渡す限りの開けた世界。これまで周囲を取り囲んでいた木はこの先には一本も見当たらず、徐々に浅くなっていった足元の雪の下からは青く透明な氷が自分を見上げている。表面から入っている
「安心しろ、そう簡単には割れねェから」
そう苦笑するヒューに促され、シェイ達は少し進んだところで腰を下ろした。氷の上に焚き火台を置いて、森から持ってきていた木を燃やす。
その火を見ながらシェイが体を休めていると、ジルがピッケルのようなもので氷を叩く姿が目に入った。盛り上がった場所ではなく、足場となるべき場所だ。不安を抱いたシェイが近くにいたイヒカの方を見れば、その意図に気付いたらしい彼は「あれくらいなら平気だよ」と笑みを返した。
その間もガンガンと強く打ち続けられていた氷は、やがてゴロンと大きな塊を吐き出した。ジルは両手で持たなければならない大きさのそれを真ん中あたりで二つに叩き割って、近くに持っていたらしい鍋に放り込む。そして氷で溢れかえる鍋を持ってきたかと思うと、当然のように焚き火の上へと吊るした。
「――シェイ、落ち着いたら靴変えろよ」
「あ、はい!」
不意にヒューに話しかけられ、ジルの行動に釘付けになっていたシェイは慌ててヒュー達の足元に目をやった。必要なものを確認し、自分のリュックからアイゼンを取り出す。それをこれまで靴につけていたかんじきと交換し終えると、荷物を片付けながらふと自分のリュックと他の者達のそれを見比べた。
シェイがヒューに渡されたリュックは、三人が背負っているものよりだいぶ小さい。中には彼の物しか入っていないのだ。一方でヒュー達はかなりの大荷物で、テントや焚き火台、鍋に食糧と、ここで必要なものは何でも出てくる。
しかも彼らのリュックにはソリのような板が取り付けられていた。シェイはまだそれが使われているところを見たことがなかったが、状況によっては必要になるものだと考えるのが自然だろう。そうしてあらかた確認を終えると、シェイは再び自分の荷物に視線を戻した。
ここまで背負ってきたリュックはシェイにとっては十分に重く、これ以上の重さになれば長時間歩くことは難しくなるだろう。その事実にシェイの顔が暗くなる。もう一度中身を思い返してみたが、今後軽くなるような物も入っていない。重さが変わらなければ、他の荷物を持つことはできない。自分の思考がどんどん沈んでいくのを感じて、シェイは気分を変えるように鍋へと視線を移した。
ここはイースヘルム、気温は
料理でもするのだろうか、とシェイはジルの様子を窺った。ジルは焚き火近くの氷の上に直接腰を下ろし、少し前に使ったナイフを磨いている。だが、それだけだ。食べ物を用意する素振りはない。
今なら――シェイはジルに話しかけようとして、しかし話題が思いつかず口を噤んだ。自分以外の三人がのんびりとしているのは分かる。だから雑談をしても問題ないだろうと思うのに、何故だか気が引けてしまう。
無意識のうちに見ていた自分のリュックにまた表情を暗くすると、シェイは足元の氷の底だけを見続けた。
§ § §
休み始めて一〇分以上経った頃、やっと鍋の中の氷が解けて沸々と温まり始めた。「ジル、解けたぞ」ヒューが声をかければ、火の側に座っていたジルが荷物から茶色い粉の入った瓶を取り出す。
「コップ出しな」イヒカに促されたシェイは自分のリュックからコップを出した。それをイヒカは受け取ると、自分の分と合わせてジルのところに持っていく。茶色い粉はどうやらココアだったようで、ジルは出されたコップの中にそれを少しずつ入れていった。
「ほら、シェイ」
ジルから回ってきたコップをイヒカがシェイに手渡す。中には既にお湯が入れられていて、それが先程の粉と混ざりココアとなっていた。「ありがとう」イヒカに言ったシェイは、ジルを見て同じように頭を下げた。返ってきたのは「ああ」という短い言葉だけだったが、それでも温かい飲み物のお陰か、シェイの口元には笑みが浮かんだ。
「こういうトコで何も気にせず飲み食いできるのは
ココアを飲みながらイヒカが機嫌良さそうに言う。
「まァ普通の奴は毒云々の前に、こんな気温で鼻先出しちまえば凍傷になるからな。シェイも外気は平気だろ? 内側がクソ寒いかもしれねェけど」
イヒカに答えるようにヒューが苦笑しながらシェイを見る。
「そうですね、本当にここは
「そりゃ良かった。けどあんま時間かけて飲むなよ? すぐ凍っちまうから」
「〝冷める〟じゃないんですね……」
苦笑しながらもココアを口にすれば、沸騰したお湯を入れたはずなのにもう飲みやすい温度にまで冷えていた。冷めないうちに、と慌ててごくごくと喉を動かす。
喉から伝った熱で身体の中からじんと温まって、けれどすぐにまた中心から冷えていく。病に罹ってから馴染みとなったその感覚に、シェイは思わず腹の辺りに手を当てた。
しかし、そうしたところで何も変わらない。分厚い防寒着のせいで手のひらの熱が伝わることもない。病の進行と共に冷たくなっていくそこから目を逸らすように、シェイはまた氷の地面へと目を向けた。
「この氷はどのくらいの深さがあるんでしょう……?」
ぽつりと疑問を口にすれば、ヒューが「さァな」と肩を竦めた。
「分厚くてちょっとやそっとじゃ割れねェけど、たまにクレバスみたいになってるところがあるからそこだけは絶対に気を付けろ。浅いところに引っ掛かりゃァ助けてやれるが、それより深いともう駄目だ。上から見えないところまで落ちた奴は死んだものとして扱われる」
「そういえば前にそんなこと言ってたような……」
告げられた内容にシェイの表情が凍りつく。もう一度氷の底に目をやったが、明かりの届かない暗闇には何も見つけることができなかった。
「自力で上がれればいいんだけどな。そうじゃなけりゃ助けにも行けないのよ。おとぎ話でもあるだろ? イースヘルムの底は地獄に通じる――死者の国ってことになってるが、現実は墓場だ。戻ってきた奴は誰もいない」
「墓場……」
繰り返すように口にしながら、シェイは頭の中におとぎ話を思い浮かべた。
「〝イースヘルムは妖精の国。美しい妖精が森で迷った生者を招き入れて、永遠の幸せを与える場所〟でしたっけ。でもなんかこれ、その話を聞いてると……」
そこで顔を強張らせたシェイに、「イースヘルム自体も地獄みたいだろ?」とヒューが意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「でも妖精信仰は……」
「そこはおとぎ話よ、地域によって微妙に内容が違うんだ。イースヘルムでの幸せに浸る中、家族を思い出した主人公は妖精に別れを告げて人里に帰ろうとする。妖精はそんな主人公の家族への想いに胸を打たれて、そいつを故郷へ案内して幸福を授ける。ンで故郷に帰った主人公は末永く幸せに暮らしましたとさ――っていうのがハッピーエンド。妖精信仰の元だな」
「あれ? 僕の知ってるのと違う……」
「シェイんトコはどんなのなんだ?」
二人の話を聞いていたらしいイヒカが尋ねる。問われたシェイは思い出すように「えっと……」と声を漏らすと、ぽつりぽつりと口を動かし始めた。
「確か男の人が盗みをするんだけど、それが周りに見つかっちゃうんだ。追いかけられた男の人はギョルヴィズに逃げ込んで、迷って、もうダメだってなった時に妖精に助けられる。そしてその男の人は全部忘れて幸せに暮らす……って内容だったかな。でも終わりが妙に怖かった気がする……『もう何も憂うことはない』みたいな感じでさ」
「ホラーじゃん」
イヒカの反応に、シェイも「うん……」と顔を顰めた。
「今まではそうは思ってなかったけど、ヒューさんの話を聞くと……」
言いながらシェイがヒューの方を見れば、ヒューは困ったように笑った。
「イースヘルムのおとぎ話はいくつかあるが、そもそも出だしから結構違うんだよな。ハッピーエンドの方の主人公は良い奴なんだが、シェイの言う方は悪い奴だろ? ギョルヴィズで迷って妖精が出てくるっつーのは同じでも、主人公が良い奴か悪い奴かで終わり方が変わる。そのへんはまァ、地域性だろうな。イースヘルムに行くなって内容をどう伝えるかって話だと思う」
「なるほど……」
シェイが頷いていると、ヒューが「そろそろ飲み終わったか?」と首を傾げた。
「あ、あと半分……!」
「急げ急げ! これ以上置いとくと凍っちまうぞ」
ヒューに急かされシェイは慌ててコップを傾ける。先程まで熱かったはずなのに、もうぬるま湯とは言えないくらいに冷えてしまっていた。
「さて、片付けたら行くか。あんまのんびりしてたら本隊と合流できなくなっちまう」
そのヒューの言葉にギクリと心臓が跳ねるのを感じながら、シェイは僅かに視線を落とした。
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