第五幕 冷たい実感

〈一〉白い森

「だーかーらァアッ! お前ほんっとそういうとこ! なんなの? 一体どういう育ちをしたらそんなクソ野郎に育つの?」


 真っ白な森の中を四つの人影が歩いていく。ヒューとジル、それからイヒカとシェイだ。イヒカの発言にジルが冷たく返し、それに対してイヒカが怒りを顕にする――そんなやり取りを街を出てからもう何度繰り返したか分からない。


「あの……いつもこうなんですか?」


 イヒカ達から逃げるようにヒューの元へと近付いたシェイが問いかければ、「そうなのよ」とヒューが呆れたように言った。


「下手に混ざると体力ごっそりなくなるぞ。ジルみたく適当にあしらっとくのが正解」

「でもそれで余計イヒカが怒ってるんじゃ……」

「それはジルの言い方のせいだな。あと単にイヒカがあいつを目の敵にしてるのもある」


 ヒューの言葉にシェイは「ああ……」と声を漏らすと、納得したように後ろを歩く二人を見た。てっきり二人で喧嘩しているのだと思っていたが、言われてみれば確かにイヒカが一人で騒ぎ立て、ジルは興味なさそうに時々短い言葉を発するだけだ。今だけでなく、これまでに見た二人の喧嘩は大体同じようなものだったと思い出しながら、シェイは苦笑しそうになる自分の顔に力を入れた。


「でもま、イースヘルムに着いたらイヒカも少しは静かになるぞ。あんま注意散漫になると危ないって分かってるからな」

「どのくらいかかるんですか?」

「距離的にはあと半日ちょっとってとこかな。今はまだギョルヴィズの半分も来てねェし」

「……結構遠いんですね」


 ふう、とシェイは息を吐いた。街を出たのは早朝だったが、既に日は傾いてきている。それなのにまだ目的地までそんなに距離があると聞いたのだから落胆せずにはいられない。


 しかもこの道では――シェイは足元を見てうんざりしたように顔を顰めた。膝上までが雪にすっぽりと埋まっているせいで余計に体力を奪われるのだ。更にこの雪の下には木の根のようなものがあるのだろう、時折雪道用のかんじきが何かにぶつかる感触がする。ヒューという大男の歩いた道を辿っているから負担はかなり軽減されているが、それでもこの森――ギョルヴィズに入るまで歩いていた道の方がよっぽど楽に感じられた。

 シェイが初めて入ったギョルヴィズの光景に感動したのは最初だけだ。周りをじっくり観察しようとした彼を待っていたのは、歩を進めるごとに深くなる雪と入り組んだ道、それから足を取る木の根。集中力をそれらに使わなければならない上に、街からずっと足を動かし続けていたせいで疲れも酷い。

 黙り込んでしまったシェイにその心境を察したのか、「もうすぐ休むぞ」とヒューが苦笑いを浮かべた。


「あっ! すみません、そういうつもりじゃ……」

「分かってる分かってる。予定どおりだから安心しろ」


 ヒューはシェイを安心させるように笑うと、後ろを向いて「イヒカ!」と声を上げた。


「お前そんだけ元気有り余ってるんだったら食糧探してきてくれよ。俺達はこのままもう少し行ったとこで野営の準備しとくから」

「えー! オレじゃなくてジルに行かせろよ!」

「ジルは飯作るだろ。さっきからずっと絡んでるんだからお前が行け」

「ええー!!」


 イヒカの大声が白い森に染み込んでいく。しかし彼もそれ以上渋る気はないらしく、「お前覚えてろよ!」とジルに言いながら列から飛び出した。そしてそのまま周囲を探るように見渡すと、「一時間で見つかんなきゃ戻ってくる」と言って森の中へと走っていった。



 § § §



 パチパチと音を鳴らす火が、その上に吊るされた鍋を温める。焚き火台の中にある燃料の白い木は燃えて黒くなり、その場の空気を僅かに暖かくしていた。

 平べったい岩の上に置かれた焚き火台を見つめていたシェイは、ふと周りに目をやった。ギョルヴィズはまだ〝こちら側〟の生き物が暮らしていける気温だ。だからなのか、周囲を取り囲む木の白さにはそれほど珍しさは感じない。樹皮の白い木はシェイの住んでいた街にも多く生えていたし、隊商キャラバンと共に街道を進んでいる間は、街には生えていなかった種類の白い木だって目にしていた。

 だが、それらとこの森に生えている木では決定的に違うものがあった――形だ。シェイが知っているのは細く、背の高い木。しかしここにあるものは背こそ高いが、太くて複雑な形をしていた。


 いつか図鑑で見た南国の木のようだ、とシェイは記憶を辿った。しかしその木ともやはり違う。図鑑に載っていたものには青々と茂った葉があったが、この森の木にはない。

 代わりにあるのは真っ白な葉。シェイは最初雪のせいかと思ったが、近くに落ちていた葉を手に取って擦っても色は変わらなかった。


「本当にこんなところに動物がいるんですね」


 感慨深そうにシェイが言えば、隣に座るヒューが「ああ」と頷いた。普段であればマフラーと帽子で覆われている彼の顔は、屋外だと言うのに森に入った後からどちらも外されている。ヒューだけではなく、イヒカとジルもそうだ。普通の人間であれば命取りにしかならないその行為が、彼らが回復者スタネイドなのだということを表していた。


「動物がいるっつっても外よりか数は少ないけどな。でも持ってきた食糧にも限りがあるから可能な限りこうして現地調達してるんだよ。イースヘルムに入るともっと獲物も少ねェし」


 ヒューは焚き火の上から鍋を取って、その中にあったお湯をカップに移してシェイに渡した。「ありがとうございます」シェイが受け取れば、「すぐ冷めちまうから気を付けてな」とヒューが笑う。

 カップ一杯分の中身が減った鍋の中に、ヒューは近くにあった氷を静かに落とした。これは少し前に枯れた木の中から彼が掘り起こしたもので、不純物が全く見当たらないほど透明な氷だ。この氷は清潔だから口にしても問題ないのだと、先程彼の作業を見守っていたシェイは教えられていた。


「だからいつもこのタイミングで狩りしつつ夜を越すんだ。どの街から出ても大抵ギョルヴィズまで一日以上の距離があるからな。これでも今回の行程では一番近場の街だったんだが……」


「それでも半日かかっちまったな」とヒューが苦笑する。「一応めちゃくちゃ近い方なのよ?」困ったように付け足す彼を見て、シェイは「大丈夫です。覚悟はしてましたから」と笑みを返した。


「近くに街がないのは、やっぱりみんな怖いからなんでしょうか。この森の向こう側はイースヘルムだから……」


 シェイが少し不安そうに言えば、ヒューは安心させるように柔らかく目を細めた。


「近い分には何も怖いことはねェよ。けど森が遮ってる冷気が来るかもっつーのはあるかもしれねェなァ。夏になればこの辺だって二〇度以上まで上がるが、イースヘルムは年中零下マイナス五〇度以下……夏のギョルヴィズは気持ち悪いぞ。入る時は暑くても、イースヘルムに着く頃には極寒だ。普通の人間が夏の格好で迷い込んだら凍死するしかないだろうな」

「うわ……もしかしたらそれもあって離れてるのかもしれませんね」


 周囲を見渡しながら シェイが顔を顰める。火を取り囲む彼らの近くには、野営地をここに決めた時にイヒカ以外の三人で立てた、くすんだ緑色のテントがあった。色と言えばそれと近くにある荷物くらいで、他は見事に全部白い。

 更に今の季節は雪のせいで地面まで同じ色だったが、それがなくともこの森の白さは方向感覚を奪うだろう。それくらいここには同じような植物しか見当たらず、目印になるようなものすらない。「よく迷いませんね……」無意識のうちにシェイが零せば、「慣れてるからな」とヒューが口角を上げた。


「常により寒い方に向かえばいいだけだ。ンで、帰りは逆。コツは下手に急いで体温を上げないことだな。身体が温まってるとそういう感覚が鈍る」

「イヒカは大丈夫なんですか? 気温しか方向の基準がないんだったら、ここで留まってる僕達をイヒカが見つけるのは難しいんじゃ……」

「平気平気。こうやって火を焚いてりゃ煙が出るだろ? 下からじゃよく見えねェが、木の上に行くとよく見えるのよ」


 そうヒューが笑った時だった。「追いついたァ!」と大きな声が離れたところから響いた。シェイが咄嗟にその声の方を見ればイヒカがいて、手に白い何かを持った彼は深い雪の中とは思えないくらいの速さで元気よくこちらに駈けてくるところだった。


「ほらな」


 ニヤリとヒューが笑みを浮かべる。「そうですね」シェイも顔を綻ばせれば、ちょうどイヒカが二人の前に到着した。


「見てこれ、兎の巣見つけた! 二羽しかいなかったけどまァいいっしょ」


 ずいと目の前に出された真っ白な兎に、シェイがうっと顔を背ける。「あれ? シェイって兎の肉嫌いだっけ?」とイヒカが不思議そう尋ねると、「ごめん、そうじゃなくて……」とシェイは横目でイヒカの方を見た。


「その……生きてる時と同じ姿のままっていうのが初めてで……」

「じゃァ捌いた肉も駄目?」

「ううん、それは平気。なんだろう、こう……動物の死骸って感じがする状態が駄目っていうか。ほら、兎って可愛いし……」

「ほーう?」


 イヒカはよく分からないとばかりに首を傾げたが、「そういう奴もいるんだよ」とヒューが苦笑いを零した。


「お前も可愛がってたグイがこれから食うぞって死体にされてたら嫌だろ? そういう感じよ」

「あー、なるほど? 俺ンとこ子供の頃からこういうの普通だったからよく分からなかった。ごめんな、シェイ」

「ううん、イヒカは悪くないよ。それより狩りお疲れ様」

「おうよ」


 シェイの言葉に満足そうに笑ったイヒカだったが、すっと表情を険しくして少し離れたところにいるジルへと向き直った。


「ほら、よろしく。不味くすんなよ!」


 ずいと腕を突き出して、兎をジルへと渡す。近付いてそれを受け取ったジルは「ああ」とだけ答えると、すぐにまた少し離れたところへと歩いていった。


「イヒカが捌くんじゃないんだ」


 不思議そうに首を傾げたシェイに、「そうなんだよ」とヒューが肩を竦めた。


「イヒカがやったら食うトコなくなるんだよな。動物の毛皮なんて魚よりよっぽど剥がしやすいっつーのに」

「でもイヒカって器用ですよね?」


 ヒューに答えながらシェイはイヒカに顔を向けた。それに自分への問いも含まれていると気付いたイヒカはううんと眉間に皺を寄せて、「刃物は苦手なんだよ」とシェイと目を合わせる。


「なんつうの? 切る動作がうまいこといかなくてさ。だから刃物全般、メンテはいいけど使うのは駄目」

「お前は力任せにやりすぎなんだよ」

「そうそれ。みんなそれ言うけど力入れなかったら切れねェじゃん?」

「そこは押したり引いたりだな……――」


 二人で話し始めたヒューとイヒカをしばらく見ていたシェイだったが、ふと思いついたようにジルの方へと目をやった。彼はイヒカが来る前よりも更に離れた木の傍にいて、ちょうど幹に隠れて見えないが、血の付いた刃物が何をやっているかを表していた。コートを脱いで薄着でいるのは汚さないためだろう。

 木の裏の光景を想像してシェイは眉を顰めたが、ふるふると首を振って自分の両頬をポスッと叩いた。分厚いマフラーと手袋越しでは鈍い刺激しか感じられなかったが、それで十分だ。シェイはキッと目元に力を入れると、ジルの方へと歩き出した。


「――あ、あの!」


 幹の向こう側が視界に入らない位置で止まり、ジルに声をかける。それに気付いたジルは顔だけをシェイの方へと向けて、「なんだ」と短く問い返した。


「何か手伝います! その、捌くのは無理ですけど……」


 視線を落としたシェイをジルが見つめる。ややあってから、ジルは静かに「いらない」と口を動かした。


「向こうにいろ。下手に動き回るな」


 明確な拒絶にシェイの顔が悲しげに歪む。「……はい」それだけどうにか小さく返して、シェイはとぼとぼとイヒカ達の元へと戻っていった。

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