〈四〉選ぶ自由
物音一つしない早朝、シェイはベッドから起きると身支度を始めた。今日の宿は狭い個室で一人部屋だ。窓はなく、閉塞感に襲われる部屋だが寝るだけなら支障はない。
着膨れるほど着込んでからコートを重ねて帽子を被る。そしてマフラーを鼻まで隠すようにぐるぐると巻き付ければ準備は完了だ。シェイはサイドテーブルに置かれた部屋の鍵を手に取って、その場でゆっくりと深呼吸した。
§ § §
ヒューの胸を借りて、シェイは二〇分近く外で泣き続けた。涙を止めようと思えば思うほど溢れてきてなかなか泣き止むことができない。けれど、それももう終わりに近付いていた。
ずっとしゃくりあげるようにして泣いていた身体は疲れ切っていて、ただでさえ病で弱った身ではもうこれ以上泣く体力すら残っていなかった。
「……ごめんなさい。こんな、子供みたいに」
ゆっくりと顔を離しながらシェイが言う。数分前から勢いを弱めていた涙は既に乾き始めていたが、シェイは顔に手を押し当てた。
目が重い。鼻も口も、頬すらも腫れてずんと重さが広がっている。不快な感覚にシェイが顔を解すように触っていると、ヒューが彼の頭を一撫でして、「まだ子供だろ」と笑った。
「なァ、シェイよ。お前は死にたくないだろうが、生きるのだって案外辛いぞ?」
「……そうですね」
少し前の自分の発言のことを言われているのだと気付いて、シェイは苦笑いを浮かべた。「泣いても変わらないですよね……」顔に触れていた手を少し離して手のひらを見つめる。手袋越しでは自分の肌など見えないが、ゆっくりと握った拳を開くその動作は何かを確かめているようだった。
「慰めてるワケじゃねェよ」
ヒューの声が降ってきて、シェイは意外そうに目を開きながら顔を上に向けた。
「経験の話さ。お前さんは親に守られてたから実感がないかもしれねェが、守ってくれる奴がいなくなったら生きるのは一気に厳しくなる。仕事がない、金がない、食い物がない――そう悩む大人なんてわらわらいるんだ。その時に養わなきゃならない奴がいれば、いくらそいつを大事に思ってても疎ましく感じる日が来るかもしれない。……それか
慰めていないという言葉どおり、そう語るヒューの目は何かを思い出すように細められていた。その視線の先に自分はいないのだと悟ったシェイは何も言わず、相手から続く言葉をじっと待つ。
「生きるってことは、そんなにいいモンとは限らない。それこそ『生きていたかった』って思ったまま終わってた方が良かったって感じるくらいにな」
真剣なヒューの眼差しが、シェイを射抜く。
「それでもお前は、生きたいと思うか?」
あまりに重い響きを持ったその声に、シェイは息をするのを忘れていた。苦しくなって、ひゅっと息を吸って初めて自分の呼吸が止まっていたと気付く。
そんな彼の様子にヒューはゆるく首を振ると、「別に答えがなくてもいい」とシェイの頭に手を置いた。
「朝にはお前ともお別れだ。もし答えが出たら、見送りついでに教えてくれ」
そう言って、ヒューは「帰るか」と歩き出した。
§ § §
宿の部屋を後にしたシェイは逗留所へと向かった。そこでイースヘルムへ行く者達は準備をするのだと、昨日のうちにヒューから聞いていたからだ。
少し歩いてシェイが逗留所に着くと、まだ空は真っ暗だというのに
「あれ? グレイさんは……」
四人の元へ近付いたシェイが首を傾げると、「私は馬車の見張りですよ」とグレイが微笑んだ。
「ついでに見送りと、隊長から追加の連絡事項があれば副隊長の代わりに聞いておこうかと」
「ついでってなァ、お前……まァいいんだけどよ」
ヒューがガシガシと頭を掻きながら呆れたようにするも、いつものことなのかすぐに引き下がった。ヒューの隣にはイヒカがいたが、彼はちらりとシェイを一瞥しただけで何も言わない。そんなイヒカの態度にシェイは寂しげに表情を曇らせたものの、気を取り直すようにヒューを見上げた。
「あの……昨日のことなんですけど」
「ああ、答えは出たか?」
「はい」
シェイは再び大きく深呼吸した。これだけ体温が下がっても、マフラーを通して吸う空気は十分に暖かい。吐いた息の熱が籠もっているからだ。それがまだ自分は生きているのだと知らせてくるようで、シェイの表情を和らげさせる。
「僕はやっぱり怖いです――自分の知らないところで、家族に何かあるのが」
「へえ?」
そう相槌を打ったヒューの目には優しさがあった。その視線がシェイの背中を押す。これでいいのだと、ここに来るまで抱いていた不安が少しずつ薄らいでいくようで、シェイは言葉を続けるために大きく息を吸った。
「生きることは辛いかもしれないけど、少なくとも手の届く範囲の人のことは助けることができます。いつかそれが嫌になることがあるかもしれないけど、だからって死んでしまったらこの不安は消えないまま……幸せな時間も、もう味わえない」
僅かに視線を落として、「それが怖いんです」と付け足す。そして自分の言葉を反芻するように、シェイは静かに目を閉じた。
そっと胸に手を当てる。頭の中に自分の考えを思い浮かべる。腹の底から湧き上がる感情に名前をつけて、相手に伝わるよう言葉を組み立てる。
そうして胸に当てた手をゆっくりと強く握り締めると、吸う息と共に開いた目で再びヒューを真っ直ぐに見上げた。
「だからやっぱり僕は生きていたいです。もう長くは生きられないけど……でも、残った時間を後悔しないように使いたい……!」
シェイの目には微かに悔しさが滲んでいた。それでも彼は強い眼差しでヒューを見つめ、これが本心だと必死に訴えかける。
「……なるほどな」小さく呟いたヒューはふっと微笑った。
「帰りたいか? 家族のとこに」
「はいっ、できることなら……。ここまで連れてきてもらったのに申し訳ないんですけど……」
眉尻を下げながらも、願うようにシェイがヒューを見る。そんな視線を向けられたヒューは足元にあった荷物を一つ手に取ると、シェイの方へと差し出した。
「ンじゃこれやるよ」
「え?」
呆気に取られたシェイは咄嗟にその荷物を受け取っていた。彼の身長でも無理なく背負えそうな大きさのリュックで、腕で抱えるには重すぎるくらいずっしりとしている。「開けてみ?」とヒューに言われ、リュックを抱えたまま戸惑っていたシェイはゆるく紐で留められていた雨蓋を開けた。
「これって、昨日買ってた……」
リュックの中からは見覚えのあるものが顔を覗かせていた。厚手の手袋もマフラーも、昨日見たばかりのものだ。奥にはそれ以外のものも詰まっていそうだったが、今のシェイにはそこまで気にしていられない。
これを渡してきた意図を確認しようとシェイが顔を上げると、手に昨日買ったアイゼンを持ったヒューが「あとこれもな。これは外に引っ掛けとけ」と渡してくるところだった。
「イースヘルム用の装備だ。お前手ぶらで家出て来たからイヒカのお下がりしかないだろ? 流石にそれであんなとこは行けねェからな」
「え……? でも、僕は……」
リュックとヒューの顔を何度も見比べながらシェイが呟く。その顔にはありありと混乱が見て取れて、ヒューはおかしそうに小さく吹き出した。
「帰りたいんだろ? 選んでいいぞ――今すぐ帰るか、イースヘルムに行ってから帰るか。つってもイースヘルムで薬草が採れなきゃ帰る前に死んじまうけどな。でももし薬草が手に入れば、シェイが考えてるよりずっと長く家族の元にいられる。ま、お前さんの家族が受け入れてくれればの話だけど」
事態が飲み込めずに固まるシェイに、「今すぐ帰るのはちょっと難しいんですけどね」とグレイが苦笑を零した。
「本隊は先に進まなきゃいけないので、どこかでズヴェルヴァスキに向かう別の
「え……グレイさんが……?」
困惑したようにシェイが言えば、「君をここまで連れてきた責任ですよ」とグレイが笑いかける。
「お前のせいで……――ッ!?」
声を発したジルの口を素早くヒューの手が覆った。恨めしそうに自分を睨みつけてくるジルに、「お前は後で喋りなさい」とヒューが笑いながら言う。
「さて、シェイ。どっちにする? 迷惑とか考えずに好きな方を選んでいい。どっちも帰れないリスクはあるけどな」
「選ぶ……」
シェイの揺れる瞳がイヒカに向けられる。「自分で決めろよ」不機嫌そうにそっぽを向いたイヒカにシェイは悲しげな顔をしたが、「うん」と静かにリュックへと視線を向けた。
ぎゅっとリュックを抱き締める。考えるように、固く瞼を閉じる。その顔はどんどんマフラーごとリュックに押し付けられていって、しかし一〇秒もしないうちにシェイは目を開けた。
リュックを抱える腕の力が弱まる。隠れていた顔を上げる。そしてヒューを見上げて、ごくりと一つ唾を飲み込んだ。
「僕も、イースヘルムに連れて行ってください」
シェイの言葉に、ヒューの目元がニッと弧を描いた。その隣ではジルが嫌そうに顔を顰めている。グレイは穏やかな表情で見守り、イヒカはシェイをきつく睨みつけた。
「おっっっっせェんだよ、決めるのが!!」
「えっ……!?」
突然の怒声にシェイが目を見開く。
「お前がぐだぐだ悩むせいでオレめちゃくちゃ怒られたんだからな!? ヒューは人の頭殴るしリタとグレイは
イヒカが大声を上げれば、ヒューの手から解放されたジルが「俺は関係ないだろ」と呆れたようにイヒカを睨んだ。普段だったらそこで言い返すイヒカだったが、ジルを睨み返してぐっと押し黙る。そしてシェイに視線を戻すと、我慢した分の感情までぶつけるように大きく息を吸った。
「シェイ、お前もう『死にたい』って言うの禁止だからな!? オレが絶対死なせねェし死んでも生き返らせる!!」
勢い良くシェイを指差してイヒカが声を上げる。「生き返らせるのは無理だろ」とヒューが言えば、イヒカは「言葉の綾!!」とムキになったように言い返した。
「とにかく!」
イヒカが再びシェイに顔を向ける。今度は相手を指差すようなことはせず、先程までの怒りももう感じられない。
「絶対生きて家に帰るぞ」
それはイヒカにしては低い声だった。睨むような目つきもあって、シェイは自分が何を言われたのか理解できなかった。
だが、それも一瞬のこと。少し遅れて言葉の意味を理解したシェイは、「うん!」と笑みを返した。
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