〈六〉うそつきの背中
あまり人の通らない道は雪かきの跡こそあるが、既にその上から新しい雪が積もっていた。足跡のないそこを踏めば下には分厚い氷が張っていて、少しでも気を抜けば足を取られそうになる。
道沿いにある店の中からは、時折少年へと怪訝な眼差しが向けられた。その視線に気付くたびに少年はマフラーを上げ直し、きょろきょろと遠くを見るように顔を動かす。それで自分に向けられた視線が逸れれば胸を撫で下ろし、変わらなければ気付かないふりをしつつも足を早く動かした。
そうして三〇分ほど歩くと、少年は自宅のあるブロックへと辿り着いていた。目の前を横切る六番通りを右に入り、一〇番線を通り過ぎた先に彼の家はある。
広い道幅の六番通りを歩いて七番線を通り過ぎ、もう少しで八番線というところまで来たところで、少年は近所の異変に気が付いた。
「……人の声?」
それまで静寂に包まれていたはずなのに、誰かの話し声がする。この季節は地上を人が歩くことは滅多にない。だが確かに声が聞こえる。それも一人二人だなんてものではなく、まるで大勢が声を張り上げているような――そう思い至ると同時に少年は駆け出していた。
近付けば近付くほど、聞こえてくる声ははっきりとしてくる。やはり大人数が声を上げているのだ。子供ではなく大人特有の低さ、更に歓声や笑い声といった明るいものですらなく、どれもこれもが怒声のような響きを持っていた。
「まさかっ……!」
少年の目に焦燥が浮かぶ。固く握られた拳は走るためのものではない。凍った道で出せる最大限の速度で少年が走っていくと、目の前に大勢の大人達が姿を現した。
「マーケットで見たって奴がいるんだ!」
「病院には行ったのか!?」
「マスクをしてなかったって!」
聞こえてきた言葉に少年が顔を顰める。そのまま人混みの中に突っ込もうとしたが、途中で急にその足をもつれさせた。
なんとか踏み留まり転ばずに済んだものの、膝に両手を突く少年の息は荒かった。彼が走ってきたのは大した距離ではなかったが、それでも長距離を走ったかのように苦しそうにしている。
急に自身を襲った苦しさに少年は身体が強張るのを感じた。手は膝に触れたままなのに小刻みに震え、奥歯からはガチガチと音がしている。激しく揺れる瞳の中心では真っ黒な瞳孔が開き、顔はぎこちなく引き攣っていた。
怖い――少年の背に、つうと冷たいものが這う。
『でも大丈夫だよ、まだ死なないから。手をどけてゆっくりと深呼吸』
脳裏を
「大丈夫、大丈夫……」
独り言のように呟きながら深呼吸を繰り返すと、やがて少年の呼吸は完全に落ち着きを取り戻した。そのことにほっとした表情を浮かべた少年だったが、それも一瞬のこと。「シェイをどこにやった!?」聞こえてきた怒声に肩をびくりと震わせた。
「本当に知らないんです! 知っていたとしてもあなた達には教えない!」
それは女性の声だった。その声を聞いた瞬間、少年は「母さん……!」と小さく呟き、再び人混みの中へと駆け出した。
「戻ってきたら必ず病院に連れて行く! 氷の病なら薬を飲ませる! それで文句はないだろう!?」
今度は男性の声が響く。
「そんなの信じられるわけないだろ!?」
「どうやって薬代を工面する気だ!?」
「ちゃんと隔離してくれよ!」
怒号の中を少年が掻き分けて行く。しかしみんな今見ているものに夢中らしく、彼に目を向ける者はいない。
なんでこんな時ばっかり――少年の顔に苛立ちが浮かぶ。マーケットの中でのように避けられないことが嬉しいはずなのに、急いでいる今は誰も道を開けてくれないこの状況がもどかしくて仕方がない。
それでもどうに少年が大人達の間を進んでいくと、急に動きを阻むものがなくなった。人混みの中心に出たのだ。そこには小さな部屋くらいの空間があって、その中央には二人の男女の姿があった。
「父さん! 母さん!」
少年の声に人々が驚いたように彼へと視線を向ける。「シェイだ……!」人の壁の中からそんな声が聞こえた瞬間、少年の周りにいた人々が一斉に距離を取った。
「シェイ!」
「無事でよかった!」
だが男女は周囲の反応に見向きもしなかった。少年の姿を見つけた彼らは安堵の表情を浮かべ、彼の元へ駆け寄ろうとする。しかしそれを見た少年はぎくりと身を硬くすると、咄嗟に二人の方へと両手を突き出した。
「シェイ……?」
男性が不思議そうな声を出す。シェイと呼ばれた少年は辛そうに顔を歪め、「それ以上近付かないで」と強く言い放った。
「ごめん、二人共。僕……氷の病に罹ったみたい」
悲しげにシェイが笑って言えば、二人の男女――彼の両親は表情を失った。「そんな……」母親が震える声を零す。父親は顔を青ざめさせ、ただただシェイを見つめることしかできていない。
「やっぱりマーケットにいたのはお前だったのか!」
「自覚があるならどうして外に出た!?」
罵声を上げるのはシェイの両親を取り囲んでいた人々だった。それを聞きながらシェイは辛そうに目を細め、ぎゅっと拳を握り締めた。
「言わなかったのはごめんなさい。だけど僕はまだ、病気であることで誰にも迷惑はかけてない!」
シェイはくるりと体を反転し、いつの間にか自分ごと取り囲むようにして立っていた人々を見ながら力いっぱい声を張り上げた。そこにいた人々はその剣幕にたじろいだが、すぐにその中から「そういう問題じゃないんだ!」と反論の言葉が響いた。
「確かに死ぬまで誰にも迷惑はかけないかもしれない! だが黙っているのは駄目だ! お前が氷の病だと誰も知らないのにお前が死ねば、大勢の人間が巻き添えを食らうことになる!」
「ッ、分かってます! だから誰も巻き込まないようにするつもりだった!」
息子の言葉に、父親が「お前、何を言って……」と声を漏らした。背中から聞こえてきたそれにシェイが顔を俯かせる。そして少しの間考えるように地面を見つめると、意を決したように顔を上げた。
「僕はこの街から出ていきます。できるだけ遠くまで行ってそこで死にます。勿論人里離れた場所を選ぶつもりです。だからこの街の人達に迷惑はかけません」
「シェイ!」
父親が名前を呼ぶも、シェイは振り返ろうともしなかった。彼の瞳に映っているのは、先程彼の両親を責めていた人々だけだ。
「僕は一人でこの病に罹りました。だから家族は誰も病気じゃないはずです。医者に行ってそれが分かったら、僕の家族とはこれまでどおり接してください」
そこまで言って、シェイは深く頭を下げた。
「そんなの信じられるわけがない! どうせ適当なこと言って近くに隠れるだけだろう!? なのに――」
「本当だよ」
少し離れたところから聞こえた声に、そこにいた誰もがその出処を探した。シェイ自身も驚いたように顔を上げて、声が聞こえてきた方――人々の向こう側を探るように見つめている。
「お兄さん……?」
シェイの目に映ったのは三人の人影。二人は初めて見るが、一人だけは誰なのかはっきりと分かる。
「ソイツはうちの
イヒカに睨むように見つめられ、シェイは身体を強張らせた。僅かに逡巡するように視線を泳がせたが、すぐに「はい」と強い声で返事をした。
「この人達と街を出ていきます。大きな幌馬車の
人々は押し黙ったが、「何を言ってるんだ!」と父親が大声を上げた。
「お前が出ていく必要はない! 本当に病なら治せばいい! 一人分の薬を買う金ならどうにかできるから……!」
「そうよ! そんな急にいなくなるだなんて……!」
背中から聞こえる悲痛な声にシェイが顔を歪ませる。それでも決して振り返ろうとしない彼に、その様子を見ていたイヒカは小さく息を吐いた。
「荷物まとめに一旦帰れば? オレらはさっきの場所にいるし」
イヒカが尋ねるも、シェイはふるふると首を振った。
「荷物はいらない。折角こんなに見てくれてる人がいるんだ。彼らが今この時を最後に、僕が家族と接触していないと証明してくれる……――そうですよね?」
周りに強気な笑顔を向けたシェイだったが、その目には涙が滲んでいた。彼と目が合った大人達は気まずそうに視線を逸らし、「ああ……」と誰かが静かに同意を示す。
「約束、守ってくださいね」
そう牽制するように笑いかけると、シェイはやっと後ろを向いた。
「父さん、母さん。……急にごめんなさい。今までありがとうございました」
「シェイ!」
「待ちなさい!」
シェイの両親が彼の方へと手を伸ばす。二人が自分の元に駆け寄ろうとしているのだと気付いた瞬間、シェイは口元のマフラーを外した。
「やめて!!」
母親が叫ぶように言う。ガクンとその場に崩れ落ちる。それを父親が咄嗟に支え、シェイの方へと顔を向けた。
息子を見つめる彼の目は見開かれていた。しかし愕然としたその表情には、どこか諦めたような色が宿っていた。
「……本当なんだな」
「うん」
「そうか……一人で、悩んだのか?」
「少しだけね」
「……シェイ」
「うん?」
父親が顔を俯かせる。言葉を探すように何度か口を開きかけたが、やがて覚悟が決まったのか、静かに顔を上げた。
「……ありがとう」
その悔しそうな笑みから逃れるように、シェイは人混みの外側へと身を翻した。
§ § §
「――すみません、嘘に合わせてもらって」
シェイが両親に別れを告げた後、イヒカとシェイは一緒に
シェイの言葉を聞いたイヒカは「ん?」と不思議そうに首を傾げると、「別に嘘じゃねェよ」と隣に顔を向けた。
「え?」
「街出なきゃならないんだろ? 一人で行くよりオレらと行った方がいい」
「でも……ヒューさんが……」
「大丈夫だろ。イースヘルムの話はともかく、お前が街にいられないって分かれば近くの安全な場所までは普通に連れてってくれるよ。雑用はやらされるだろうけどな」
ニッとイヒカがシェイに笑いかける。しかしすぐに何かを思い出したような顔して、「つーかお前、」とシェイを睨みつけた。
「嘘だと思ってたのに荷物持ってきてねェの?」
「あ……えっと……」
しまったと言うように目を泳がせるシェイを見て、イヒカは「ああもう!」と声を上げた。
「お前しばらく死ぬって言うの禁止な! 父ちゃん達にあんな顔させたんだ、もうちょっとギリギリまで考えろ!」
「でも……」
「でもじゃねェ! でもも禁止!」
「それはちょっと語彙が……」
「知るか、お前が悪い!」
そう言ってイヒカはふんっと鼻を鳴らすと、シェイに向けていた顔を前へと戻した。
「……お兄さんって結構厳しいよね」
「イヒカ」
「え?」
「イヒカ、オレの名前。なんでリタやヒューが名前呼びなのにオレが〝お兄さん〟なんだよ、よそよそしい! つーかお前はなんだ。シェイだっけ? シェイ何って言うの?」
「ただのシェイだけど……」
「ふうん? いいじゃん、呼びやすい」
急に機嫌を直したイヒカに面食らいつつも、シェイは小さく笑みを浮かべた。けれど少し淋しげに目を伏せて、「……ありがとう」と小声で呟く。「ん」短く声を返したイヒカの顔は、前を向いたままだった。
そのことにシェイが内心でまた感謝していると、「さてシェイ、」とイヒカが空気を変えるように軽い調子で口を開いた。
「お前の最初の仕事は何だか分かるか?」
突然の問いにシェイが目を瞬かせる。それでもどうにか考えて「……ヒューさんの許可を取る?」と答えれば、「はい不正解ー」とイヒカが笑った。
「んなもんチョロすぎて仕事になんねェよ」
「じゃあ何?」
シェイが尋ねれば、イヒカが笑みを深める。楽しそうというよりも、悪巧みをしているといった笑い方だ。その笑みにシェイが無意識のうちに身構えれば、イヒカがすうと空気を吸い込んだ。
「毒味だよ、毒味」
「……は?」
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