〈五〉死を招く願い

 イヒカが去った後、残されたリタ達は隊商キャラバンの幌馬車の中にいた。荷物を運ぶためのものではなく人間が休むためのもので、三人とも口元を隠さずすっかりくつろいだ様子で温かい紅茶を飲んでいる。

 人間のための空間と言っても、隊商キャラバンの幌馬車らしく周囲にはところどころ荷物が置かれていた。だがしっかりと暖められたそこにはブランケットやクッションなども用意されていて、流石に湯は外で沸かしたものを使っているが、それを思い出さなければ小屋の中にいるような感覚になる場所だった。


「――というわけだよ」


 紅茶の入ったカップを傾けながらリタが優雅に笑った。薄い金色の前髪がはらりと横に流れる。長い髪は後ろで簡単に束ねられているだけなのに、同じ色の睫毛や色素の薄い瞳と肌の影響もあって、その姿は絵画のように美しく、同時に儚さを漂わせていた。

 しかし息を呑むようなその微笑みに少年が頬を赤らめたのは最初だけだった。リタの形の良い唇がマーケットでの自分の姿を語るごとに強張っていった彼の顔は、今や完全に苦々しく歪められている。

 やっと経緯を知ったヒューが納得したような表情をするのを見ながら、少年は口に含んだ紅茶をコクリと飲み込んで、鼻の奥に蘇った生臭さを押し流した。


「なんつーか……まァ、お前さんには迷惑かけちまったな」


 話を聞き終わったヒューが謝るように少年に向かって眉尻を下げる。


「もう色々と決心してたんだろ? それをイヒカの奴が掻き乱すような真似しちまって……」

「いいんです。むしろ『やっぱりどうしようもないんだ』って分かった部分もあるので」


 少年が困ったように微笑むのを見て、ヒューは苦しそうに顔を顰めた。


「子供がそんな顔するモンじゃねェ……って言いたいんだけどな。俺はそれを言える立場にない」

「そう思ってくれるだけで十分ですよ。街の人は僕のことを知って怖がるだけだから」

「怖がることなんて何もないんだけどね」


 リタの言葉にヒューが視線を落とす。その様子を見た少年は気まずそうに笑みを浮かべ、話を逸らすように「あの……」と口を開いた。


「さっきのお兄さんの話ってどういうことだったんですか? 僕には無理だっていうのは分かってるんですけど、イースヘルムに行くって……」


 少年の問いにヒューは「ああ、あれな」とそれまでの表情を変え、考えるようにしながら話し出した。


氷の女神症候群スカジシンドロームの治療薬を作るにはヘルグラータって薬草が必須なんだよ。でもこいつがイースヘルムにしか生えてなくてな。イヒカが言ってたのは、その薬草を採りにイースヘルムに行く時にお前さんも一緒に連れてこうぜってことだ」

「そうだったんですね。でもそれって自殺行為なんじゃ……学校でもイースヘルムにだけは行っちゃいけないって習いますよ?」

「あれ、そうなの? もしかして薬草の話も知らねェ?」


 不思議そうな顔のヒューに少年がコクリと頷く。そんな二人の様子を見ていたリタは呆れたように「当たり前だろう」と溜息を吐いた。


「イースヘルムは普通の人間が行けばほぼ確実に死ぬんだ。治療薬に使える薬草があるだなんて子供に教えるわけがない。知っているのは大人か、子供なら近くの町に住んでいるような子くらいだよ」

「そういうモンか。あんまり意識したことなかったな」

「私達の方からは無関係の人にヘルグラータの話題なんてあまり出さないものね」

「それもそうか」


 納得したような顔でヒューが自分の顎を撫でれば、無精髭がジャリ、と小さく音を鳴らした。


「死んじゃうのは本当なんですよね? 物凄く寒くて生き物が生きていられないって」

「ほぼ合ってる。あそこは常に零下マイナス五〇度を下回ってるから、こっち側の生き物じゃ生きられない」


 ヒューの言葉に、少年は「こっち側?」と首を傾げた。


「ギョルヴィズの外側だよ。こっち側の生き物が行けるのは比較的こっちの気温に近いあの森までだ」

「確かギョルヴィズって、イースヘルムを囲むようにあるっていう……」

「すげェじゃん、少年。さては成績良いな?」

「そんなことないです。一応イースヘルムとギョルヴィズの位置関係は常識扱いなので……」


 そう謙遜するように言った少年だったが、すぐに何かに気付いたようにヒューを見上げた。


「でもその言い方だと、向こう側にも生き物がいるんですか? 零下マイナス五〇度は気温ですよね?」

「いるぞ。俺らみたいな回復者スタネイドもあっち側の奴らに近い。だからイースヘルムに行ける」

「『俺ら』ってことは、二人も?」


 少年がヒューとリタを交互に見れば、リタは「私は違うよ」と首を振った。


「ま、行けるっつっても命懸けなことは変わりなくてな。イースヘルムには猛獣だっているし、しょっちゅう吹雪いてるから視界も悪い。しかも足元は氷だ、割れたらどこまで落ちるか分からない。運良く浅い所に引っ掛かればいいが、そうじゃなかったらどうなるかは誰も知らねェ……誰も帰ってこないからな。死んだものとして扱われるんだ」

「……そんなところ、怖くないんですか?」

「怖いさ。だけど俺らが怖がって行かなかったら、氷の病で助かる人間がいなくなる」


 そこまで言うと、それまで明るい口調で話していたヒューは表情を暗くして床を見つめた。


「イヒカの言ってること自体は確かにそこまで悪かねェ。薬が欲しかったら金を払え、金が欲しけりゃ命張って働け――真っ当っちゃ真っ当だよ。でもな、今回に限っては危険すぎるんだ。ただでさえ常に気を張ってなきゃいけない場所に病人なんて連れてったら、それだけで一緒に行く連中の命が脅かされる。それが生きることを諦めてる奴なら尚更だ。そういう奴は死を招きやすい……自分以外にもな」


 最後に付け足された言葉を聞いて、少年の口元が僅かに強張った。無意識のうちに触れたマフラーをぎゅっと掴み、大きく息を吐き出す。そんな少年の姿を見ていたヒューは「さて」と気分を変えるように明るい声を出して、ニッと笑みを浮かべた。


「そろそろ買い出しに行ってた連中も帰ってくる。うちは今日ごちそうだからな、食いたいならもう少しいてもいいぞ?」


 ヒューが言えば、リタも「多めに魚も手に入ったんだ」と少年に笑いかける。二人のその態度に頬を緩めかけた少年だったが、浮かんだ笑みは少し暗いものだった。


「……いえ、いいです。あんまり気を遣わせちゃうのも悪いですから」


 言いながら首元のマフラーを解く。それを綺麗に畳むと、少年はヒューと目を合わせた。


「お兄さんが戻ってきたら気持ちだけで嬉しいと伝えてもらえますか? あとこのマフラーも……」

「それは持ってけ、イヒカもお前さんにやった気でいるだろうしな。伝言も伝えるよ」


 ヒューの言葉に、少年が「ありがとうございます」とぎこちなく笑みを浮かべる。畳まれたマフラーは少年の胸に押し当てられて、僅かに皺ができた。


「送るか?」


 優しげな口調でヒューが問う。そんな彼にふるふると首を振った少年は、「平気です。そう遠くもないですから」と静かに返した。



 § § §



 イヒカは大通り沿いにある武具店の前にいた。少し前に立ち寄ったポルラスチの町は氷の女神症候群スカジシンドロームの患者が出たことであらゆる店が閉まっていたが、このズヴェルヴァスキでは通常通り営業している。

 だからイヒカは店の中に入ることができるはずなのだが、無理矢理伸ばしたコートの襟に顔を埋める彼はなかなか中に入ろうとしなかった。


「……失敗した」


 悔しそうにイヒカが顔を顰める。彼の目は二重窓の内側にある武器を真剣に見つめていたが、時折店の入り口を見てはもどかしそうにぎゅっと瞼を閉じ、再び外から武器を見つめるということを繰り返していた。


「――イヒカ?」


 突然呼ばれた自分の名前。イヒカは目を瞬かせると、声のした方へと顔を向けた。


「グレイ! ……と、ジルかよ」


 そこにいたのは長身の男性と、イヒカと同じくらいの背丈を持つジルだった。二人はイヒカが来たのとは逆方向からやって来ていて、手にはいくつか荷物を持っている。


「やっぱり会いましたね」


 イヒカの名を呼んだものと同じ声で言いながら長身の男性――グレイが微笑む。しかし彼はイヒカの顔を見て軽く目を開くと、「どこで落としてきたんですか?」とマフラーで覆われた自分の口元を指差しながら首を傾げた。


「落としたんじゃなくてあげたんだよ」

「なら新しいのを取りに戻ればいいのに。予備ならたくさん持っているでしょう?」

「それはちょっと、ほら……色々と……」


 イヒカが言い淀むと、「どうせまたヒューとくだらない喧嘩でもしたんだろ」とジルが溜息を吐いた。


「くだらなくもねェし喧嘩でもねェよ! アイツが頭ガッチガチだから少し考えさせてやってんの!」


 イヒカの大声にジルはわざとらしく片手で耳を押さえる。その様子を見てイヒカがまた口を開こうとしたが、それを「イヒカ」とグレイの穏やかな声が制した。


「店の人からは見えちゃいますよ。ほら、これ使ってください」


 そう言ってグレイが鞄から取り出したのは落ち着いた色合いのマフラーだった。「いつも予備持ってんの?」受け取りながらイヒカが尋ねれば、「備えあれば憂いなし、でしょう?」と優しげな微笑みが返される。イヒカは礼を言いながらそれを受け取ると、口元を隠すように首に巻きつけた。


「そうだイヒカ、時間を潰したいなら付き合ってもらえますか? 私達も武器を見たくて来たんですけど、品質はあなたに見てもらった方が確かですからね」

「おう、任せろ! の礼もあるしいくらでも付き合うよ」

「喚くなよ」

「あ? お前も見て欲しかったら『お願いします』くらい言えよ、ジル」

「必要ない」


 喧嘩を始めそうな雰囲気の二人にグレイが「公道ですよ」と優しく声をかけた時、遠くから騒がしい声が聞こえてきた。

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