〈二〉気遣いの毒

 イヒカ達が人混みを抜けると、その中心に横向きに倒れ込む少年の姿が目に入った。彼の口元にはマスクもマフラーもない。しかし代わりに少年の手袋を嵌めた手が口と鼻を覆っていて、必死に外気を直接吸い込まないようにしているよう見える。

 少年は明らかに辛そうだったのに、周りに彼を助ける人間は誰ひとりとしていなかった。「どうしたんだ?」「氷の病だって」――そんな小声でのやり取りが人混みの中を移動していく。まるで伝言のように伝わっていったそれは人々に恐怖することを促し、その足を少年から遠ざけていた。


「おー、苦しそう」


 少年に近付きながらリタが笑う。その声にリタを睨んだ少年は確かに苦しそうに顔を赤くしており、酸素が足りていないのだと誰が見ても分かる状況だった。


「あれ? 氷の女神症候群スカジシンドロームって話じゃねェの?」

「吸わないようにしてるんじゃなくて、吐かないようにしているんだろう」

「は? どゆこと?」


 理解できない様子のイヒカを置いて、リタが少年の傍にしゃがみ込む。


「君は氷の女神症候群スカジシンドロームなのかい?」


 リタの問いかけに少年はコクリと小さく頷いた。


「そうか。でも大丈夫だよ、まだ死なないから。手をどけてゆっくりと深呼吸」


 その声に少年は首を振りながら横向きだった体を地面に向けた。二人のやり取りを見ていたイヒカは合点のいった顔をして、「そんなんじゃ言うこと聞かないだろ」と自分も少年の横に座って相手の両腕を掴んだ。


「こうやるんだよ」

「ッ!?」


 ぐい、とイヒカが力づくで少年の腕を口から引き剥がす。わざとひっくり返るように力を入れたのか、伏せていた体が仰向けになる。その瞬間周りからは悲鳴が上がり、「何してるんだ!」と怒声がイヒカ達に向けられた。

 だがイヒカとリタは周りには目もくれず、顕になった少年の口元を見て苦笑いを浮かべた。彼は腕が離されると同時にぎゅっと唇を結んでいたのだ。


「強情だなコイツ」

「鼻塞いでやれ」

「リタって鬼なの?」


 イヒカの問いと同じタイミングで、リタが手袋をしたまま少年の鼻をむんずと掴んだ。「ん? 何か言ったかい?」不思議そうな顔で尋ねるリタにはイヒカの発言が聞こえていなかったのだろう。しかし顔を引き攣らせたイヒカは問い直すことはせず、「イイエ、ナンニモ」と目を逸らした。


 一方でリタに鼻を塞がれた少年は、それでも口を開こうとはしなかった。元々赤かった顔がみるみるその赤色を濃くしていくも必死に耐えているようだ。

 だがそれも長くは続かなかった。

 完全に呼吸を妨げられてから一〇秒足らず、イヒカ達が現れる前から満足に呼吸できていなかった彼にそれ以上は耐え難かったらしい。耳も首も赤くしながら目に涙を浮かべた少年は、とうとう限界を迎えて大きく口を開いた。


「ハァッ――!」


 勢い良く息を吸い込む音が響く。その音が止まると同時に少年は口を閉じようとしたが、彼の鼻を掴んでいたリタの手がそれを阻んだ。


「ッんぐぅ!?」

「……やっぱ鬼だろ」


 ぼそりと言うイヒカの視線の先にあったのは少年の口、というよりもそこに突っ込まれたリタの指。素手ではなく分厚い手袋をしたままで、少年の顎が悲鳴を上げているのは考えるまでもない。

 同情すら感じさせるイヒカの声に、今度こそその言葉を聞き取ったリタが声の主に顔を向ける。そして心底不思議そうな面持ちで「何故?」と首を傾げた。


「このくらいしないと言うことを聞かないだろう?」

「でもさァ……リタのその手袋、さっき生魚思い切り掴んでたやつじゃん。しかもちょっと古いやつ。結構臭いんじゃねェの?」

「それが何か?」

「……やっぱいいや」


 諦めたイヒカに少年がギョロリと目を向ける。先程よりもたくさんの涙が流れているのは呼吸ができないせいではないだろう。もう鼻は塞がれていないし、リタの手は少年の口を閉じないようにしているだけで、空気の通り道は十分に確保されているのだ。


「んー! んー!」

「ほら、口苦しいってよ」

「それよりイヒカだろう。仰向けの人間の両腕を掴むだなんて、場合によってはただの加害者だ」

「これは人命救助だろ」

「問題は周りがどう判断するかなんだよ。冤罪っていうのはそうやって生まれるんだ。でも大丈夫、イヒカ。私はお前を信じているよ」

「……たとえ話ってことでいいんだよな?」


 あまりに優しいリタの目線にイヒカが顔を引き攣らせる。とその時、もがいていた少年がイヒカの腕から脱し、リタの手を吐き出した。


「あ」

「力抜いただろう?」


 しまったという顔をするイヒカと、呆れたように彼を見るリタ。そんな二人から逃れた少年は立ち上がって少し距離を取り、最初にそうしていたように自分の口を手で覆った。

 瞬間、周りからは悲鳴じみた声が上がる。少年に近くなった人々が恐れるように距離を取る。幼い顔には悲しみが浮かんだが、すぐに少年は強い眼差しでイヒカ達を睨みつけた。


「あんた達なんてことをするんだ! 僕は氷の病なんだぞ!? それなのに直接呼吸させようとするなんて……!」


 倒れている間にだいぶ呼吸は落ち着いたらしく、大きな声を出す彼の足元はしっかりとしていた。それでもまだ少し苦しいのか、胸は大きく動いている。


 そんな必死な少年に対し、イヒカは「はァ?」と首を傾げただけだった。リタもまた「ふむ」と身の入っていない声を零している。


「なんで直接息しちゃ駄目なワケ? もう罹ってるんだから関係ないだろ」


 言いながらイヒカが立ち上がる。それを見たリタも同じように腰を上げ、「違うよ、イヒカ」と自分より少しだけ低い位置にあるイヒカの目に視線を合わせた。


「彼は自分じゃなくて周りに気を遣っているんだ」

「は?」

「自分の吐息で周りの人々を殺してしまわないか不安なんだろう。最初から息が漏れないようにしていたじゃないか」


 そう補足されて、イヒカはやっと少年の意図を理解したらしい。「あー、そゆこと?」と言うと、直後にぶはっと大きく吹き出した。


「なんで普通の呼吸で死ぬんだよ。移るのは最期の吐息だけって知らねェの?」


 イヒカに馬鹿にしたように言われ、少年が目に力を入れる。


「知ってるよ! でもさっき僕は死にそうだったんだ! いくらマーケットの中だって言ってもマスクなしなんて……!!」

「そんな元気に大声出せる奴が死ぬワケないだろ。なァ、リタ先生?」


 そう言ってイヒカが隣を見れば、リタはマフラーから不服そうな目を覗かせて「私は薬学者なんだけどなぁ……」と呟いた。


「まあ、氷の女神症候群スカジシンドロームの末期にはろくに動けなくなるから、イヒカの言うとおり君はまだまだ死なないよ。最初の悲鳴はもう少し遠くからしていたね。ってことはここまで走ってきたのかい? だとしたら苦しくなったのは走ったからだよ。ゆっくりならいいけれど、急に心拍数を上げるのはご法度――って、医者に言われただろう?」


 リタの言葉に少年の顔がどんどん曇っていく。手で隠されていない目元は辛そうに力み、視線は床へと向けられた。


「医者に行ってないのか」


 イヒカが問うと、少年は小さく頷いた。


「確かにこの街じゃあなァ……」


 イヒカの目には未だ少年を恐れるように遠巻きにしている人々が映っていた。彼の視線を追った少年も、それに気付いたように顔を歪める。

 人々は小声で何事かを話しながらイヒカ達を見ていたが、その中から「あれ、シェイじゃないか」と聞こえてきた瞬間、少年はビクリと肩を揺らした。


「……場所変えるか」


 イヒカが低い声で言う。少年に近付きながら自身のマフラーを外し、それを相手の顔を隠すように巻きつけた。


「あの……!」

「平気平気、オレは罹らないから」

「え……?」


 周囲はそれまでよりもずっとどよめいていた。しかしイヒカもリタも気にした様子はない。


「イヒカは健康だけが取り柄なんだよ」

「はァ? 他にもいっぱいあるだろ!」

「そうだね、お前は魅力的に溢れた男だ。凄い凄い」

「分かってればいいんだよ」


 得意げに笑ったイヒカは少年の背に手をやると、怖がる人々を無視してマーケットの出口へと歩き出した。

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