第二幕 朧な逃避

〈一〉呪われた少年

 雪の降り積もる小さな丘の上。切り株に一人の少年が腰掛けていた。体の大きさから見てまだ十代前半だろう。彼は襟元に突っ込んだ右手を引き出すと、その手に持った水銀体温計を見てマフラーから覗く目元に力を入れた。


「三四度……」


 呟きながら、膝の上に置いた左手へと視線を落とす。そこにあったのは砂時計で、台座部分には小さく〈一〇分〉と刻まれていた。

 砂時計の上部に砂はない。全て下部に落ちきっている。


「……もう決まりだよなぁ」


 少年の瞳が悔しげに揺れる。僅かに潤んだ目は睫毛を濡らし、その睫毛はゆっくりと白く凍っていった。



 § § §



「――もう少しまけてくれよ!」


 パンッと両手を合わせ、イヒカが男に頭を下げる。相手の男は「でもなぁ……」とマスクをしていても分かるほど顔を顰めて、「そっちの魚も買ってくれれば考えなくもないぜ」と笑みを浮かべた。


「マジ!? それでいくら?」

「二〇クロング」

「は? さっきまで一五だったじゃん!」

「そいつが八クロングだから三まけてるだろ」

「三だけ!?」


 イヒカが上げた大声は、その場の喧騒に紛れて大して響かなかった。周囲には今いる場所と同じような露店が並んでおり、そこを大勢の人々が行き交っているのだ。


「うちの魚はどれも新鮮なんだよ、これ以上はまけられない。別に嫌なら買わなくてもいいぜ? 客なら他にもいるしな」

「うぐっ……」


 男の言うとおり、この店にはイヒカの他にも客がいる。それを見たイヒカが諦めて口を開こうとした時、「これで八クロングは高いんじゃないか」と彼の背後から中性的な声が聞こえてきた。


「なんだと?」

「新鮮と言うが鮮度が低い。ほら、この目を見ろ。見える側の目はまだ澄んでいるが、裏側はこんなに淀んでいるじゃないか」

「ちょっと姉ちゃん、勝手に売りモンに触らないでくれるか?」

「商品の状態を詳しくチェックできるのは客の権利だろう」


 そう言って男に〝姉ちゃん〟と呼ばれた人物は大きな魚の尾を掴むと、躊躇なくそれを自分の顔の横まで持ち上げた。マフラーから覗く目を楽しそうに細め、「ほらイヒカ、」ときょとんとしているイヒカに話しかける。


「お前の出番だよ。『この魚、目玉汚いぞ』って大声で言ってみろ」

「え?」

「やめてくれ、営業妨害だ!」


 男の大声にイヒカは遅れて自分が何を言われたのか理解した。未だ魚を掴む人物の方へと身体を向けて、「営業妨害は駄目じゃね?」とおずおずと問いかける。


「事実だから問題ないさ」

「そうなの? またリタが無茶言ってるワケじゃなく?」

「お前は私を何だと思ってるんだ」


 イヒカの言葉にリタと呼ばれた人物は心外そうに眉根を寄せた。しかしすぐに気を取り直したようにその力を抜き、男の方へと向き直る。


「確かに状態が良ければ八クロングでもいいが、これじゃあ今日中に火を通して食べないともう駄目だな。そんな魚を高鮮度と偽って客に売りつけようとしているんだから、周囲に悪徳な店だと警告して何が悪い?」

「ッ……ああもう分かったよ! それ付けて一五クロングだ! 文句ないだろ!?」


 音を上げたのは男の方だった。二人のやりとりを聞いていたイヒカは嬉しそうに目を輝かせたが、リタは「何を寝ぼけたことを」と眉を顰めた。


「一〇だよ」

「……は?」

「この魚も入れて全部で一〇クロングだ」


 男が虚を衝かれたように固まる。二秒ほどそのまま動かなかった男は、はっとしたように「冗談だろ?」と声を上げた。


「そいつは確かにちょっと鮮度が悪かったかもしれないが、他は間違いなく新鮮そのものだ!」

「だがそちらの在庫消費に協力してやることで、我々は今日この魚を食べなくちゃいけなくなるんだ。元の予定を変えてまでそうするんだぞ? 別に明日食べてもいいが、腹の弱い奴は地獄を見るかもしれないな。そうなったら医者にかかって、何を食べたか詳細に説明する必要があるだろう。一〇クロングで売ってくれるなら頑張って今日中に消費するが、一五ならそこまでしようとは思わない。ところで、この町の病院はどこにある?」

「分かった分かった! 一〇クロングでいい! だから今日中に食ってくれ。腹を下したとしてもそれはうちのせいじゃない。そこまでその魚の状態は悪くないからな」

「ありがとう。君は優しいな」


 リタがにっこりと笑って言えば、男は商品を袋に詰めながら顔を引き攣らせた。


「姉ちゃんは強かだよ……。兄ちゃん、こういうかみさんはやめとけ。相当美人なのは目元だけでも分かるが、こりゃ結婚したらずっと尻に敷かれっぱなしだぞ」


 袋と共に向けられた言葉にイヒカが首を捻る。商品を受け取ってからその意味に気付いたのか、イヒカは「はァ!?」と大声を上げた。


「何言ってんだよ! 結婚って、リタは――」

「早く行こう、イヒカ。今日中に調理してもらわなきゃいけないんだ、あまり遅くなるとジルに渋られるぞ」

「げ、アイツに頭下げるのは無理! おっちゃん、まけてくれてありがとな!」

「二度と来んなよ!」


 笑いながら自分達を追い出した男に手を振って、イヒカはリタと共に店を後にした。


「――リタのせいで出禁かもな、あの店」


 人の流れに乗って歩きながらイヒカが言う。それを聞いたリタは片眉を上げて、「その時は別の奴に行かせればいいさ」とどうでも良さそうに口を開いた。


「しかし川魚とはいえ、久しぶりに魚が食べられるのは嬉しいな」

「この辺海遠いからなァ……大きい川じゃないと魚は獲れねェし、次はいつになるんだか」

「まあ、魚以外が美味しいからいいんだけどね。こんなに大きいマーケットも久しぶりだ」


 そう言ってリタは周りに目を向けた。近くには露店が所狭しと並んでいる様子しか見えないが、少し遠くに視線を移せばそこが屋外ではく、屋根と壁に囲まれた場所だということが見て取れる。ここは巨大な建物の中に作られた屋内型のマーケットだ。

 気温は一〇度前後といったところだが、常に氷点下を下回る外気に晒されるよりはよっぽど過ごしやすい。いつ外気が入ってくるか分からないため口元を晒す者はいないが、それでもマーケットの中を歩く人々は外にいる時よりも表情が明るく見えた。


「今日はそれぞれが好きな食材を買っているはずだから、夕食はきっと豪勢だね」


 白藍しらあいの瞳をゆるく細めてリタが言う。冬の薄い青空のようなその色には、嬉々とした感情が浮かんでいた。


「ジルの奴がとちんなきゃいいけど。たまに毒物生み出すからな、アイツ」

「ただのドジだろう? それも含めて私は楽しみだよ。スリルがあっていいじゃないか」

「メシにスリルはいらなくね?」


 心底嫌そうな顔をしたイヒカだったが、不意に何かに気付いたように後ろを振り返った。それを見たリタもまた窺うように同じ方を見て、「何か騒ぎみたいだね」と呟く。


「『氷の病』って聞こえた気がしたんだけど」

「相変わらず耳が良いな、イヒカは。私には聞こえなかったけど……この悲鳴はそうなんだろうね」


 二人が見つめる先では悲鳴が沸き起こっていた。それはどんどん近付いてきていたが、一際大きな悲鳴が響くと同時に移動を止めた。

 人混みの隙間から見えたのは倒れた人間。イヒカとリタは互いに目配せすると、何かを避けるようにこちらへとにじり寄ってくる人々の背中を縫うようにして、騒ぎの中心へと向かっていった。

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