〈七〉消えない沁み
クオンが息を引き取ったのは翌日の夜遅くのことだった。イヒカがやって来た翌朝には五度を切ったクオンの体温はゆるやかに下がっていき、付きっきりで彼の傍にいたカーリャとイヒカの目の前で、その体は氷へと変わっていった。
「お父さん……!」
動かなくなった父に縋り付こうとするカーリャをイヒカが止める。「まだ駄目だ……!」その遺体が人間らしい色を残しているのを見て、イヒカはカーリャを抱く腕に力を込めた。
「離して! 早くしないとお父さんが氷になっちゃう!」
「駄目なんだ! 今近付いたらアンタに移る……!」
「ッ……なんで……!」
イヒカに抱き締められたカーリャが抵抗をやめた。力なく項垂れ、涙を流しながら父親を見つめる。
その隙にイヒカはカーリャの口元を確認した。マスクの上から更にマフラーを巻かれたそこはしっかりと外気から保護されており、これであれば、と胸を撫で下ろす。
そうして五分も経たないうちに、徐々に透き通っていったクオンの口から、ふっと、小さな吐息が零れた。
一瞬だけ白く姿を現したそれは、すぐに空気に解けて見えなくなった。そしてそれが合図だったかのように、辛うじて人間らしさを残していたクオンの体は一気に色を失い、髪の毛の一本まで余さず透明な氷へと変わっていった。
「――もういいぞ」
イヒカがカーリャを解放したのは、クオンが完全な氷像となってから一〇分が過ぎた頃。昨日よりも強く暖められた部屋の温度のせいで、その姿が変わってしまった後だった。
「こんなの……お父さんじゃないっ……」
カーリャの見つめるクオンの姿は、まるで解けかけの氷像が服を着ているようだった。最初こそ氷像が涙を流しているのだと表現することもできたが、今ではそれもできそうにない。
人間というよりは大きな氷の塊。細かい顔の凹凸はすっかりなくなり、服さえなければ外に放置されていても誰も元人間だとは思わないだろう。
「それでも、間違いなくカーリャの父ちゃんだ」
「だけど……!」
「……この氷もそのうち全部解けてなくなる。まだ残ってるうちに、ちゃんと別れは済ませた方がいい」
「ッ……」
イヒカの言葉にカーリャが身体を固める。しばらくそのまま動かなかったが、少しするとカーリャは自らイヒカの腕から出ていって、父親だったものに縋り付いた。
§ § §
朝になる頃にはクオンの体は完全に解けてなくなった。残ったのは厚みのなくなった洋服と水浸しになったベッドだけ。しばらくそれらを見つめていたカーリャだったが、不意に「片付けないとね」とイヒカを見て力なく笑った。
「手伝うか?」
「ううん、大丈夫。一人でゆっくりやりたいし」
そう言うカーリャの顔はマフラーのせいで目元しか見えていないが、それでもイヒカには少しぼんやりとしているのが分かった。泣き疲れたのか、悲しみのせいで感情が麻痺しているのか――頭の中にいくつか原因は浮かんだが、イヒカは何も言わなかった。代わりに「そうか」とだけ小さく相槌を打って、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「イヒカ眠ってく? ならそこのブランケットを……あれ? もうこの部屋から出てもいいんだっけ?」
「ああ、最期の吐息も確実に解けてるから普通にドア開けて平気。オレはもう行くよ。残っても大して役に立たなそうだしな」
イヒカの言葉にカーリャが表情を曇らせる。だがすぐに気を取り直すように首を小さく振って、「そうだよね」と赤く腫れた目で微笑んだ。
「わざわざ残ってくれてありがとう。厩舎まで送ってく?」
「寒いだろうからいいよ。まだ朝だしな」
「そっか……うん、分かった」
僅かに視線を彷徨わせたカーリャは「じゃあ、玄関まで送らせて」と立ち上がると、案内するためにイヒカを追い越して、玄関へと向かって歩き出した。
「――私、イヒカに謝らなきゃ」
玄関に着くと、イヒカの方を振り返りながらカーリャは苦笑いを浮かべた。上着を着て準備をしていたイヒカは一瞬だけ動きを止め、「なんかあったっけ?」と不思議そうに首を傾げる。
「たくさん酷いことを言っちゃったでしょ。イヒカは何も悪くないのに……」
「あァ、あれか。あれはもういいよ、カーリャの気持ちも分かるからさ」
「あんなに自分勝手に周りを恨むのが?」
自嘲するようにカーリャが言えば、マフラーを巻いたイヒカは「ああ」と頷いた。
「オレも昔、同じようなこと思ったことあるから」
「え……?」
予想していなかった言葉にカーリャは声を漏らした。そんな彼女の様子を見たイヒカは困ったように笑って、「うちの隊長が言ってたんだけどさ、」と話し出した。
「『みんな正しい情報なんて興味なくて、自分を救ってくれる嘘の方が好き』だったかな。まァそんな感じのことなんだけど……そうだよな。どれだけ頑張ってもどうにもならなくて、希望すらないなら……もう嘘に縋って誰かを恨んでないと立っていられない。そんなことしなくていいくらい強い奴って、オレはまだ見たことないよ」
そう言いながら視線を落としたイヒカに、カーリャもまた「……うん」と瞼を伏せた。
「氷の病なんてなくなればいいのにね。最期に傍にいられない、何も残らない――こんな、何かの罰みたいな病気なんて……」
「残ってるよ」
言い淀んだカーリャの言葉の続きを拒むように、イヒカが少し強い声で言う。
「オレの中にはずっと残ってる。思い出とか、そういう良いものじゃないけど……」
イヒカの表情は険しかった。マフラーをしていても分かる苦しそうな顔にカーリャは手を伸ばしかけ、しかしはっとしたようにその手を隠す。背中でぎゅっと手を握り締めながら、カーリャはゆっくりとイヒカを見上げた。
「それは、イヒカが持っていたいもの?」
「……持ってなきゃいけないものかな」
「いつか手放せるといいね」
「え?」
驚いたようにイヒカがカーリャを見る。
「だってイヒカ、すごく辛そうだから」
「……そうだな」
返ってきた反応にカーリャは少しだけ満足そうにしながら、「あんまり引き止めちゃ悪いね」とドアに手をかけた。
「色々ありがとう、イヒカ。お陰で少し楽になれた」
二重のドアの内側を開けて、イヒカに笑いかける。カーリャの顔はクオンを看取った時のまま大半が隠されていたが、それでも優しい笑みを浮かべているのだと分かる目元だった。
「元気でやれよ」
「勿論! だってイヒカ、次にここを通ることがあっても宿には入れてもらえなさそうだしね。私が泊めてあげないと」
「うわ、忘れてた……。宿が受け入れてくれるのが一番なんだけどな、駄目だったら頼むよ」
困ったように言うイヒカに、「駄目じゃなくても来てよ」とカーリャがマフラーの下で零す。イヒカは聞き取れなかったのか、「ん?」と首を傾げたが、カーリャは「なんでもない」と両手でその背中を家の中から押し出した。
「ほらほら、早く行かないと
「ちょ、待って! まだ外のドア開けてないんだって!」
「潰れちゃえ!」
「
慌てたようにイヒカがドアを開けて外に出ると、既に外は白んでいた。分厚い雪雲に覆われた空の中に、僅かながら橙色の光が差し込んでいる。
「待ってる」
柔らかい光に照らされたカーリャに見送られながら、イヒカは町へと歩き出した。
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