〈六〉氷の罰
「――ここよ」
カーリャの家に案内されたイヒカは、「……おじゃましまーす」と小声で言いながらドアをくぐった。彼女の家はこじんまりとした平屋の一軒家で、外から見たところ部屋数もそう多くはない。
それでもこの辺りの家らしく、屋内は家中の壁を走る暖房管によって暖められていた。コートを脱ぎながら奥へと進んで、ダイニングと思しき部屋でカーリャが立ち止まる。「うん、大丈夫」壁に掛けられた温度計を確認したカーリャがマフラーを外せば、声の印象どおり、まだあどけなさの残る顔が現れた。
「今温かいお茶を入れるから、適当に座っててくれる?」
「父ちゃんに声かけなくていいのか?」
「後でいいよ。冷えちゃったでしょ」
「
イヒカが苦笑しながら言えば、カーリャは「それもそっか」と少しおどけたように笑った。
「だからカーリャがいらないならオレのことは後回しでいいぞ」
上着を脱ぎながら言うイヒカにカーリャが目を細める。「ありがと」呟いた声は小さく、イヒカには届かない。カーリャ本人もそれは承知なのか、すぐに表情を元に戻すと、「じゃあ、」と口を開いた。
「一緒にこっちに来てくれる? お父さんに紹介したいの」
カーリャの言葉に、イヒカは静かに頷いた。
「――お父さん、ただいま」
奥の部屋に向かったカーリャは、中の人物に声をかけながらそのドアを開けた。他の部屋よりも一層暖められた室内の空気が二人を出迎える。ドアの近くに設置された温度計は二〇度を示していて、イヒカは扇ぐようにシャツの襟元を動かした。
「おかえり、カーリャ」
部屋の奥のベッドに横たわるカーリャの父の声は、もはや消え入りそうなくらい小さかった。閉めたドアを背にして立つイヒカはその様子に目を伏せる。
そんな彼を置いて父であるクオンの元に歩いていったカーリャは、ドアの方を示しながら「彼はイヒカ」と紹介を始めた。
「町を通りかかった
自分の紹介が終わったのを悟って、イヒカはそっと部屋から出ていった。ドアの隣に立ち、背中を壁に預けながら天井を見上げる。綺麗に掃除されたそこには目立つ汚れはない。古い家らしい木材には独特のぬくもりがあり、その柔らかい木目に沿うようにイヒカは視線をずらしていった。
「写真……」
ふと、壁に飾られていた古い写真に目が留まる。近付いて見てみると、カーリャと思われる幼い少女が二人の男女と共に写っているものだった。男性はだいぶ健康そうだが、先程見たクオンだろう。クオンと同じくらいの年頃の女性の面差しはカーリャとよく似ていた。
壁には毎年撮っていると思われる家族写真が並んでいたが、途中からそこに写るのはカーリャとクオンの二人だけになっていた。代わりにと言わんばかりに女性が一人で写っている写真が一際上等な額に入れられていたが、その中にいる彼女の時間はそこで止まっている。それどころか少し若返っているようにさえ見えるのは、撮った時期が違うからだろう。写真自体が他よりも古く、僅かだが色褪せているせいで物寂しい雰囲気を放っていた。
「……もしかしてアイツ、母ちゃんもいねェのか」
イヒカがゆっくりと視線を落とせば、赤みがかった睫毛が揺れた。右の額に手をやって、そこから目尻までをなぞるように指を下ろしていく。彼の指が通ったのは大半がバンダナの上だったが、目元だけは素肌に触れており、長めの前髪で隠れたそこには古い傷跡があった。
「――イヒカ?」
突然聞こえてきた自分を呼ぶ声に、イヒカははっと意識を戻した。声の方へと顔を向ければ、不思議そうな表情で自分を見つめるカーリャと目が合う。
ドアが開く音にも気付かなかったのか――廊下にいるカーリャにイヒカは苦笑いを浮かべると、誤魔化すように「あァ、わり」と返した。
「ぼーっとしてた。父ちゃんはなんて?」
「喜んでくれたよ。『カーリャのことお願いします』だって。なんだかお嫁に行くみたい」
「えっ!?」
イヒカがぎょっと目を見開く。それを見たカーリャは「ちゃんと説明してあるから安心して」といたずらっぽく笑った。
「……お父さんの体温、もう七度しかなかった」
笑みを消しながら、カーリャがぽそりと呟く。何か言おうと口を開いたイヒカだったが、言葉が浮かばなかったのか、小さく「そうか……」と返すに留まった。
「やっぱり知ってるんだ、この体温の意味」
「そりゃァな。何度も見てきたから……」
イヒカの目元に力が入る。「そんな顔しないでよ」カーリャは困ったように言うと、そのまま笑みを浮かべてみせた。
「イヒカにとっては悪くないんじゃない? きっと明後日には
「……ああ」
嫌な沈黙が流れる。暖かいはずの空気が、まるでその場を凍てつかせるかのように。
イヒカは居心地悪そうに床へと向けた視線を彷徨わせていたが、「向こうでお茶飲もっか」というカーリャの明るい声がそれを救った。
「
「平気だよ。暑いのは苦手だけどな」
「お風呂は?」
「入れるけどすぐにのぼせる」
とりとめのないやりとりをしながらイヒカを最初の部屋へと案内したカーリャは、彼を近くの椅子に座らせて同じ空間にあるキッチンへと向かった。
カチ、と音を立ててコンロに火がつく。水を入れたケトルをその上に置いて、手を温めるようにかざしながら「変な病気よね」とカーリャが呟いた。
「変?」
カーリャの背中を見ながらイヒカが首を傾げる。相手の感情を探ろうとするようにほんの少しだけ鋭くなっていた視線は、すぐに諦めたのか、ふっと和らいだ。
「変よ、普通は生きていられないほどの体温になっても死なないなんて……そのくせ零度になった途端氷になって死んでしまうんでしょ?」
「……確かに変だな。こうやって生き残っても、普通の人間とは程遠い体質になるし」
コトコトと温められたケトルが小さな音を立て始める。その音を聞きながら、イヒカは手袋の外された自分の手を見つめた。
何の変哲もない、人間の手だ。だがそれを見るイヒカの目は、どこか暗さを宿していた。
「ねえ、イヒカ。氷になるってどういうことなのかな。体が凍りつくのとは違うんだよね……?」
イヒカに背を向けたままカーリャが問う。その気配を感じ取ったイヒカも自分の手から目を逸らさないまま、「……全く違う」と小さく答えた。
「文字通り氷になるんだ。透明な氷で像を作ったみたいに」
ぎゅっとイヒカが手を握り締める。折り込まれた指の先は遮られた血流のせいで真っ赤になって、力を緩めると元の色へと戻っていった。
「人間は神様を怒らせちゃったのかしら」
くるりと体を反転させて、カーリャがおどけるように言う。急なことにイヒカは「え?」と声を漏らすと、少し驚いた表情のまま彼女を見つめた。
「だって人間しか罹らないだなんて変よ。犬や猫だって風邪を引くのに、氷の病は人間だけ……まるで私達人間を狙ったみたいじゃない」
声は明るいのに、カーリャの顔は悔しげに歪んでいた。イヒカは何か返そうとしたが、彼が言葉を見つける前にケトルから沸騰を知らせる音が響く。それがその話題の終わりの合図となって、イヒカは結局何も言うことができなかった。
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