〈五〉回復者

 先程まで歪んだ歓喜に包まれていたその場所には、嘘のような静寂が訪れていた。

 口元を顕にしたイヒカを見て、町の住民達が信じられないとでも言うように顔を強張らせる。ジルは呆れたように溜息を吐き、ヒューは諦めたように天を仰いでいた。


「アンタ、カーリャっていうのか」

「え、ええ……それよりも早く口を覆って! じゃないとあなたまで氷の病に……!」

「ならねェよ。もう昔なったから」

「もうなったって……でも薬を飲まないと必ず死ぬはずじゃ……」


 「回復者スタネイドだ……」、住民の誰かが呟く。その声には明らかな恐れがあって、静かに周りへと伝搬していった。

 少女――カーリャを取り囲んでいた住民達が少しずつイヒカから距離を取るように後ずさる。それを見たイヒカが呆れと怒りの混ざったような表情を浮かべる。「別に取って食いやしねェよ」、不機嫌な彼の声にカーリャははっとしたように目を丸くすると、「あなた、回復者スタネイドなの……?」とイヒカを見つめた。


「ああ。だからオレはこうやって喋ったところで病には罹らない。オレ達が自分用の薬を持つ必要がない理由だ」


 イヒカの言葉にカーリャはジルの方へと勢い良く顔を向けた。「じゃあ、あなたも……?」、問われたジルが小さく頷く。カーリャの肩から力が抜ける。

 安堵の漂う彼女の横顔に向かって、イヒカは静かに口を開いた。


隊商キャラバンの全員がそうってワケじゃないけど、リスクの高いことをする場合は回復者スタネイドであるオレ達がやる。だからごめん、カーリャ。本当に薬はないんだ」


 カーリャは静かにイヒカの方へと顔の向きを戻した。けれどその視線は彼の足元に落とされ、突きつけられた現実に長い睫毛が小さく震えている。

 それを見たイヒカも僅かに眉間に皺を寄せたが、「……だけど、」と言葉を続けた。


「だけどオレなら、アンタの父ちゃんを看取ることはできる」

「え……?」


 きょとんとした顔でカーリャがイヒカを見上げる。今度こそ彼女と目が合ったイヒカはほんの少しだけ悲しそうに目元に力を入れて、しかしすぐに安心させるような笑みを返した。


「最期の吐息を吸ったところでオレは発症しない。だからオレならアンタの父ちゃんと最期まで一緒にいられる――一人で死なせずに済むんだ。つってもオレみたいな赤の他人に看取られたところで、父ちゃんからしたら大して嬉しくないだろうけどさ」


 そこまで言うと、イヒカは困ったように眉尻を下げた。


「だからさ、カーリャも一緒にいてくれよ。オレが責任持ってアンタのこと見てる。そもそもが部屋をあっためて十分な距離を取ってりゃ移らないんだ。もし仮にアンタが移りそうな行動をしそうになったとしても、オレが絶対に止めるから」


 イヒカが声を発するごとにカーリャの目は大きく見開かれていった。もうこれ以上開けないというところで瞼の動きは止まったが、その中にある薄茶色の瞳は忙しなく揺れている。現実を受け止めきれていないような表情だったが、しかしその中には微かに希望が見え隠れしていた。


「……私、お父さんと一緒にいていいの?」

「当たり前だろ。でもアンタが病気になったら父ちゃんが悲しむだろうから、あんまくっつくのは駄目だけどな」

「でも私、あなたに酷いことを……!」

「そういうのは後にしようぜ。今は父ちゃんのことだけ考えてろよ」

「ッ……」


 カーリャが目を潤ませる。それを見たイヒカはもう一度彼女に笑いかけると、表情を険しくして住民達の方へと向き直った。


「聞いてただろうけど、オレは今からコイツの父ちゃんのとこに居座るからな! 火なんてつけやがったらぶっ殺すぞ。火事だと思ったらオレは患者を連れてそこから避難するし、仮に外に出られなくてオレまで死んだらアンタら本当にただの人殺しだからな。町を守るために患者を殺すのとはワケが違うぞ? 大義名分すらない人殺しだ!」

「何を勝手なことを……アンタは部外者だろう!? それを――」

「部外者だからだよ!」


 イヒカの言葉に住民が声を詰まらせる。


「患者を看取っちゃいけないのはアンタらのルールだろ、オレには関係ない。オレが勝手に患者のとこ行くんだ。病をバラ撒こうってんじゃないんだから口出すんじゃねェよ!」

「だが……!」

「うるっせェな、黙らねェとテメェら全員マスク剥ぎ取るぞ!」

「こら、イヒカ。それじゃァただの脅しだ」


 ヒューに窘められ、イヒカが不機嫌そうに口を尖らせる。だがそれ以上何かを言う気配はない。

 そんなイヒカを見たヒューは呆れたように息を吐くと、住民の方へと顔を向けて柔らかい声で話し出した。


「お前さんらが怖いのは理解できる。でもなァ、正直家ごと燃やしたって無駄よ? それで無毒化できるのは嬢ちゃんち付近だけだし、火が消えた後に風が一発吹きゃァ全部水の泡。アンタらが人を殺したって事実しか残らない」

「それでも……!」

「ああ、それでもやるって言うなら止めはしないさ。だけど一度その方法を使っちまったら、今後氷の女神症候群スカジシンドロームが出るたびに同じことをしなきゃもう安心できなくなるぞ。その時は燃やす必要はないと思うかもしれねェけど、そう考えてくれるのは罹った奴と、そいつと親しい人間だけだ」


 そこまで言ったヒューは遠くを見るように顔を上げると、「周りを見ろ」と住民一人ひとりに目を向けた。


「そこにいるのは全員お前さんらにとって、嬢ちゃんちの家族よりも親しくて信頼できる人間か? 自分の身を危険に晒してでも守りたい相手か? 信頼関係を築く時間なんてねェぞ、何せ病はいつやってくるか分からない」


 ヒューの言葉を聞いた住民達が顔を強張らせる。お互いを見つめ合って、引き攣った愛想笑いをしながら目を逸らす。また別の住民に対しても同じようにし、やがてそうする相手のいなくなった者から視線を泳がせていった。

 カーリャやイヒカへと向けられていた感情は、今や新しく生まれた疑心に飲まれていた。住民同士の不和を煽ったヒューは溜息を吐くと、「今踏み留まればしなくていい心配だ」と声をかけた。


「嬢ちゃんちは燃やさない、通常通りの手順で患者の死を待つ――今そう決断すれば次も同じようにできるはずだ。イヒカのやることは気にすんな。部外者なんだからこいつが何をしようとお前さんらに責任はないし、今後それに従う必要もない」


 ヒューに異を唱える者はいなかった。住民達は皆一様に表情を和らげ、彼と目を合わさないように視線を少しずつずらしている。誰も当事者になりたくないのだと、その場の空気が物語っていた。


「んじゃイヒカ達のことは放っておくってことで決まりな。ってなワケでイヒカ、好きにしろ。つっても俺達ゃ予定があるからお前のことは置いてくぞ?」


 住民達の様子に満足げな表情を浮かべたヒューが問うと、イヒカは「げ」と顔を顰めた。


「あー……じゃァ一頭だけグイ残してくんない? どうにか追いかけるから」

「いいぞ、ただし戻ったら罰として一週間見張り当番やれ。三頭引きになればその分グイに負担がかかるんだからな」


 ヒューがニヤリと笑えば、イヒカがぐっと顔を歪ませる。「長くね……?」、その呟きに返ってきたのは変わらない視線だけだ。そんな相手の反応を見てイヒカは諦めたように目を閉じると、「……へーい」と投げやりな声を返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る