〈三〉都合の良い嘘

 暖かい宿の廊下をヒューは歩いていた。酒をしこたま飲んだお陰で気分が良く、更に外ではマスクで覆いっぱなしの口元も解放されているものだから自然と鼻歌が零れる。

 上機嫌な足取りで自分の部屋の前に着くと、ヒューは勢い良くドアを開けた。


「たっだいまイヒカちゃ……――辛気くせェ!!」


 ドアを開けた途端に漂ってきた重苦しい空気。その想定外の暗さにヒューは思わず大声を上げた。

 まず、部屋が暗い。無人ならばおかしくないが、廊下の明かりで薄ぼんやりと照らされた部屋の中には背中が一つ浮かび上がっている。背中の持ち主が腰掛けるのはベッドだ。部屋の右手には反対側に足を向ける形でベッドが二台並んでいて、背中は奥のベッドの上にあった。

 ヒューがドアの横にあるスイッチをパチンと押して天井に吊るされたガス灯の明かりを付ければ、その背中の主の姿が顕になった。生成り色の薄手の長袖シャツに、額を覆うようにバンダナの巻かれた真っ赤な髪――イヒカだ。普段は快活な彼は、背中を丸めるようにしてベッドに腰掛けていた。


「ヒューは酒くせェ」


 少し長い前髪を揺らし、首だけをドアの方に向けたイヒカがジロリと睨む。もしかしたら睨んではないのかもしれないが、額に巻かれたバンダナのせいでヒューの目線の高さから見ると目付きが悪く見えるのだ。薄着になっていたイヒカもまた口元のマフラーを取っているのに、くぐもっていないはずの声は町に着いた時よりもいくらか低く聞こえた。


「臭くねェよ、俺はいつだっていい匂いだ」


 部屋のドアを閉めながらヒューが言えば、「嘘吐け」とイヒカが機嫌悪そうに吐き出した。


「最近お前の枕臭うぞ」

「……マジ?」

「マジ。酒飲んだ日なんか最悪」


 ヒューの赤かった顔が一気に青ざめる。彼はその場に立ち尽くし、「だから最近お姉ちゃん達が冷たいのか……」と力なく項垂れた。


「ヒューがモテないのは元からだろ」

「モテますぅ! 大人の魅力でお姉ちゃん達が優しくしてくれますぅ!」

「大人の魅力っつーのは金か」

「金のある男はモテるぜ?」

「どうせグレイに借りた金だろ。そろそろ返さないとまた怒られるんじゃねェの?」

「……今日のイヒカ君は可愛くありませんねー」


 不貞腐れたように言いながら部屋の中へと進むと、ヒューは手前のベッドに倒れ込んだ。ギッ、とシングルサイズのベッドが大きく悲鳴を上げる。やや斜めに顔から突っ込んだヒューの身体は全くそこに収まっていなかったが、彼は気にする素振りも見せず、はみ出た足をばたつかせた。


「うるせェな酔っ払い」


 イヒカが苛立ったように言うと同時に、ヒューの右足からブーツが落ちた。自由になったその足で。ヒューがもう片方のブーツを脱ごうと試みる。

 イヒカはそんな大男を呆れたように一瞥すると、「つーかお前、年々絡み方がうざくなってるぞ」と唸るように言った。


「やーっぱイヒカは俺と相部屋にして正解だったな」


 ボトン、左のブーツが落ちる。


「あ?」

「今のお前見たら他の連中は困るだけだろ。俺かリタくらいよ? 無愛想モードのお前と仲良くやれんの」


 顔の右半分を枕に埋めたヒューが、左の目にイヒカを映す。


「……仲良くやる必要ねェよ。ほっとけ」

「放っといたら長引くだろ。お前根暗陽キャじゃん」

「なんだよそれ」

「そのまんまだよ。んで、何を見た? それとも言われたのか?」

「ッ……」


 ヒューの言葉にイヒカが顔を歪ませる。「酔っ払いのくせに……」、小さく文句を言ったが、ヒューの焦茶色の瞳が逸れることはない。イヒカは泣きそうとも取れる表情のまま相手を睨みつけると、諦めたように溜息を吐いた。


「……別にいつもどおりだよ。相変わらず氷の女神症候群スカジシンドロームは怖がられてて、薬が高すぎるってだけ。せめて正しい情報が伝わればいいのに、それもないから面倒臭ェなって」

「そりゃちげェな」

「あん?」


 イヒカの低い声にヒューは「怒んなよ」と苦笑いを浮かべた。うつ伏せだった姿勢を反転して仰向けになり、天井を見ながら口を開く。


「正しい情報なんて誰も興味ねェんだよ。ここ一年二年で出てきた病じゃないんだ、いくらでも知る機会はあったはずだろ? それなのにそこらの奴らが正しく恐れられないのは、〝正しい情報〟なんて何の価値もないからだ。特定の空間を無毒化できても外気全部は無理だし、薬の値段が妥当なものだって分かったところで買う金がない」


 そこまで言うと、ヒューはイヒカの顔へと視線を向けた。イヒカの表情は暗く、目はどこか遠くを見つめるようにぼんやりとしている。自分が見たことにすら気付かない相手の様子に小さく息を吐いて、ヒューは「ま、つまりそんな真実なんて都合が悪いんだよ」と言葉を続けた。


「だったら自分に優しい間違った情報を信じていたいっつーのが人間なワケ。だからいちいちお前が気にしたところで無駄だぞ、下手に正しいこと言おうものならお前が悪者にされるだけだ。何せ都合の良い嘘を暴くんだからな」

「……見てたのか?」

「お、当たってた? 見てねェよ、体験談だ」


 仰向けのまま首を横に向けてイヒカを見ていたヒューだったが、「別にこういうことだって初めてじゃないだろ?」と言いながら、肘を枕に相手の方へと体を向け直した。


「なんで今までは平気で今回はそんなしょげてんだよ」

「……オレと一緒だったから」

「何が?」

「置かれた状況とか、腹が立つこととか。だからなんか他人事に思えなくて……」


 居心地悪そうにしながらイヒカが答える。段々と小さくなっていった声はまるで言い訳をしているかのような響きを持っていたが、その言葉を聞いたヒューは「馬鹿か」と呆れたように一蹴した。


「お前とそいつは他人だよ、間違いなく」

「ッ、そうだけど……!」


 食い下がるイヒカを横目にヒューが上体を起こす。ベッドの上であぐらになった彼は面倒臭そうに頭を掻いて、「もクソもあるか」とイヒカを見据えた。


「誰かに共感して寄り添えるっつーのはお前の長所だ。でも同時に短所でもある。自分は自分で他人は他人――その線引きはしっかりしとかねェと無駄に自分の首を絞めるだけだぞ。ま、それがいいってンなら止めねェがな」

「分かってるよ! 分かってる……」


 言葉ではそう言いながらも、イヒカは辛そうな表情でその視線を落とした。ベッドに置いている手を握ったせいで、視界に入ったシーツにくしゃりと皺が寄る。

 なんとなくそれを見続けていたイヒカだったが、「ならよーし!」という声と共に自分の頭を突如襲った衝撃に、「うわ!?」と大きな悲鳴を上げた。


「何すんだよ!? つーか本当に酒臭ェから近付くな!」


 イヒカの頭はヒューに撫でられていた。それも乱暴かつ盛大に。先程まで隣のベッドにいたはずの彼はドンッとイヒカのベッドに飛び乗っていて、赤い頭を両手で鷲掴みにするように撫で回していた。


「そんなこと言うと添い寝しちゃうぞ!」

「キッ……モいんだよぶりっこ酔っ払いジジイ!!」

「ああん? こちとらまだアラサーだぞ! 若いからって調子乗ってんなよ、酒も飲めない十代が!」

「ちょ、脇は反則! ヒヒッ……やめ……あーはっはっはっ!!」


 くすぐられたイヒカがのたうち回る。そのまましばらく悲鳴のような笑い声を上げ続けたイヒカが解放されたのは、酔いの回ったヒューが突然いびきをかいて寝始めた後だった。



 § § §



 それから三時間後、眠っていたイヒカの目を覚ましたのは外からの物音だった。防寒のため二重になっている窓は外の音をほとんど通さない。それなのに隣のベッドから響くヒューのいびきの合間を縫って聞こえてきたその音に、イヒカはむくりと上半身を持ち上げた。


「……なんだ?」


 状況を確認しようとベッドから出て窓の外を覗き込んだが、位置のせいか何が起こっているのかは分からない。それでも耳を澄ませば、イヒカにはその音が女性の声のように思えた。まるで悲鳴のような、甲高い声だ。しかしこんな真夜中に外からそんな声が聞こえるはずがない。


 外で異常事態が起こっている――イヒカがそう判断するには十分だった。

 イヒカはコートとマフラーを引っ掴むと、「ちょっと出てくる!」と寝ているヒューに告げて、部屋の外へと飛び出した。



 § § §



「――何やってんだよ、ジル!」


 声を辿ったイヒカが着いたのは馬車の逗留所だった。そこには既にジルがいて、肩から下げた小銃をいつでも撃てるように両手で持っている。

 しっかりと着込んだマントが雪を被っているところを見ると、彼はずっと外にいたのだろう。相変わらず目元しか見えないものの、その目が不機嫌そうな色を湛えていることは暗がりでもイヒカにはすぐに分かった。


「泥棒」

「泥棒? ああ、今夜の見張りお前だったのか。……ってことはお前とは相部屋にならないじゃん。ヒューの嘘吐きめ」


 事情を理解してきたイヒカは不満そうに零しながら周りに目をやった。一見したところ自分達の幌馬車は無事で、ジルの近くには女物のコートに身を包んだ人間が一人座っている。どうやら彼の銃はこの人物に向けられていたらしい。


「あれ? アンタ……」


 相手を見て抱いた既視感に、イヒカの口から声が零れる。


 そこにいたのは、イヒカが昼間出会った少女だった。

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