〈二〉氷の女神症候群

 グイの世話を終えたイヒカは一人、町の中を歩いていた。膝上までの上半身を隠していたマントはもう羽織っておらず、耳を隠すトラッパーハットに鼻の上まで覆う濃紺のマフラー、朽葉色くちばいろのムートンコートと、この地方で暮らす人間としては一般的な格好をしている。剣のように腰に革のベルトで括り付けられた棒だけが異質な雰囲気を放っていたが、少し汚れた布が全体に巻かれたそれからは剣よりも物々しさは感じられない。


 ふくらはぎまでの編上げブーツで凍った道を踏み締めながら、イヒカはふうと息を吐いた。着いたのは昼前だったが、これまでグイの世話をしていたためもう日が傾きかけている。

 しかし感じるのは軽い疲れだけで、そこに不満はなかった。いつもやっていることだし、人間の背丈よりも高い体高を持つグイが一四頭もいるのだから、時間がかかるのはどうしようもない。

 額から長い角を生やしたグイは馬によく似た姿をしているが、それよりもどっしりと体が大きく、全身を分厚く長い体毛に覆われている。ブラッシングから四脚の蹄鉄の確認、さらには餌やりと、何人かで手分けしているとはいえ、軽い手入れでも一頭につき三〇分はかかってしまうのだ。


 だが、もう少し時間をかけてもよかったかもしれないな、とイヒカは再び息を吐いた。今度は落胆の滲んだ溜息だ。

 武器屋を見る時間欲しさに急いで作業したのに、先程見つけた店は閉まっていた。それ以外の食べ物屋や雑貨屋も同じようにドアを閉ざしていて、正直なところ何も見るものがないのだ。流石に一軒も営業していないということはないだろうが、やっている店を誰かに聞こうにも、イヒカはまだ誰ともすれ違ってすらいなかった。


「……戻ろっかな」


 宿に戻れば仲間達がいる。客が取れるということは宿には人がいるはずだから、無闇に通行人を探すよりよっぽど効率が良いだろう。

 イヒカが散策を諦めて来た道を戻ろうとした時、少し遠くの路地で何かが動いた。自然、彼の目もそこに引き寄せられる。そのままじっと探るように見つめれば、はっきりと見えたその正体にイヒカの顔が明るくなった。


「人!」


 そう声を上げるなり、イヒカは慌てて駆け出した。あの人物を見失えば、次はいつ人に出会えるか分からない。

 イヒカは凍った道を走っているとは思えないほどの速さで一気に道を進むと、目的の人物の後ろ姿に向かって口を開いた。


「すいません! そこの人!」


 イヒカの声に相手がびくりと肩を揺らす。厚く長いコートで体型が分かりづらいが、そのデザインから見て女性だろう。相手は怪訝そうに後ろを振り返ると、イヒカを見て更に警戒の色を強くした。


「えっと……」

「あ、ごめんごめん。人を探してたんだけど全然誰も通らなかったからつい……驚かせたならすいません」


 イヒカが深く頭を下げると、女性は「いえ……そういうことなら……」とおどおどしながら声を発した。声の幼さからすると女性というよりは少女と言える年齢なのかもしれない。彼女もまた目元以外を覆い隠しているため表情が読みづらいが、未だにその目は警戒するようにイヒカを見つめていた。


「あー……その、やってる店知りません? 色々見て回ろうと思ったんですけど、どこもかしこも閉まってて……」


 不慣れな言葉遣いで尋ねながら、イヒカは自分の口元に手を当てた。あくまでマフラーを直すふうを装って、きちんと自身の鼻までが隠れていることを確認する。コートも着ているし、頭には帽子も被っている。手袋をした指先まで完全に防寒対策が取れているなと自信を持てたところで、イヒカは改めて少女に視線を合わせた。


「あなた……さっきの隊商キャラバンの人?」

「そうっす。騒がしくしちゃってすんません」


 少女の警戒はよそ者に対してのものだったかと、イヒカは胸を撫で下ろした。


隊商キャラバンの人なら開いてる店は分かるんじゃないんですか? ……お店に品物を卸すんですよね?」


 相手は隊商キャラバンというものについてよく知らないのだろう。少し自信を持てない様子でイヒカを窺い見る。


「普通はそうなんすけど、ここは休憩で立ち寄っただけなんで。この先二日くらいは町がないって話だから、その前にゆっくり休もうぜ的な?」

「町がないって、北へ向かうってことですか? 危険なのに……怖くはないんですか?」

「危険って?」


 どういうことだろうか、とイヒカは首を傾げた。そんな彼の反応が予想外だったのか、警戒を和らげかけていた少女は最初よりも訝しむような目をイヒカに向けた。


「だって人里がないってことは、空気に毒が含まれてるかもしれないってことですよ?」

「それはどこでも一緒だ……でしょう? ここだって最期の吐息が混ざってるかもしれないし」

「だけど人が住んでいれば暖かい場所があります。そこなら毒も解けるから安心して眠れるけど、そうじゃないなら……」

「あァ、それなら馬車ン中が暖かくできるから大丈夫っすよ」


 そういうことだったか、とイヒカは合点がいったように頷いてみせた。一般人は冷たい空気を恐れる。だから暖を取れると伝えることで大抵の人間であれば引き下がるはずだったが、少女は「だけど……」となかなか納得しない。

 そうして少し思案するように視線を落としていた少女だったが、急に何かを思いついたのか、ばっと顔を上げてイヒカを見つめた。


「もしかして、氷の病の薬があるんですか?」

「え?」

「そうですよね、隊商キャラバンなら薬を運んでいてもおかしくない……それ私にも売っていただけませんか!? お金ならなんとかします! だから……!!」

「待って待って、落ち着けって!」


 突然肩を掴んできた相手にイヒカは慌てて声を上げた。

 その声を聞いて、少女がはっとしたように手を離す。ちらりとイヒカの口元を見て安心したように息を漏らすと、「すみません、私……」と頭を下げた。


「あァ、大丈夫だから気にすんなって。んで薬は……悪いけど、今は在庫がないんだ。さっき隊長に確認したばっかだから確実。町に氷の病の患者がいるって聞いたけど、もしかしてアンタの家族……?」


 一通り言葉を発してからイヒカはいつもの口調に戻ってしまったことに気付いたが、少女が気にした様子はない。彼女は顔を俯かせると、イヒカから離れながら「ええ、私の父が」と小さく頷いた。


「多分もう長くは持たないのに……ここじゃあ薬を手に入れる機会なんてないから……」

「……そうだったのか」


 イヒカが辛そうに眉根を寄せる。無意識のうちに少女の全身を観察して、更に眉間の皺を深くした。

 ごく一般的な少女の服装におかしなところは何もない。この町の雰囲気によく合った、服装だ。


 だがそれがイヒカの胸の中にやるせなさをもたらしていた。どれだけ働いても、どれだけ身を削っても――そんな、自分の記憶が蘇って慌てて瞼をきつく閉じる。「……あれは作るまでがめちゃくちゃ大変だからな」、目を開きながら口から出てきたのは少女を諦めさせようとする言葉。自分自身が発したそれに吐き気を覚えながらも、イヒカは口を動かし続けた。


「オレらも必要な人みんなに行き渡ればって思ってるけど、保管だの調合だのって考えだすとなかなか……」

「行き渡るようにできたとしても、どうせ庶民は誰も買えないわ」


 鋭い声で少女が言い放つ。イヒカの心臓がカッと熱を持つ。自分に向けられた感情ではないことは分かったが、イヒカは逃げるように目を背けた。


「三〇万……三〇万クロングよ!? 私達普通の人間が一生かけて稼ぐような額じゃない! いくら希少な薬だからっておかしい! きっとお金持ちが買い占めちゃうから……!」

「それは違う」

「え……?」


 しまった、とイヒカは顔を顰めた。だが今さら撤回することはできない。イヒカは腹を括ると、少女の目を真っ直ぐに見つめた。


「オレだってその金額はおかしいと思って内訳を聞いたことがある。そうしたら別におかしなことなんてなかったんだよ。それだけあの薬は一人分作るのに金がかかってる。材料を採りに行くのも命懸けだし、運ぶのだってそうだ。賊がよく狙ってくるから隊商キャラバンが全滅するなんて話もそこまで珍しくない。第一、いくら金があっても絶対に手に入れられるものでもないんだ。金はあったのに間に合わなかったって奴も知ってる」


 そこまで言うと、イヒカは少しだけ眉間の力を強くした。氷の女神症候群スカジシンドロームの治療薬は高額だということばかりが知られていて、何故それだけの値段になってしまうのかという事情を知る者はほとんどいない。全く周知努力がされていないわけではなさそうだが、金額の印象が強すぎるせいか理由まではなかなか広まらないのが実情だ。


 少女はイヒカの言葉に神妙な面持ちで俯いたが、少しして「……そんなのどうでもいいの」と小さく零した。


「事情があるのは分かる……だけど在庫さえあればお金持ちは買えるでしょう? 私達貧乏人にはその機会すらないのよ。たとえそこに薬があっても、その前に並ぶ権利すらない」


 イヒカは自分の口が動きそうになるのを感じたが、慌てて奥歯を噛み締めて言葉を飲み込んだ。代わりに僅かに視線を落として、少女の言葉を肯定する。


「だから薬が手に入るだなんて最初からほとんど期待してないの。本当は欲しいけど……でも、不治の病にかかってしまったんだって自分に言い聞かせればいい。そうすると今度は何が悔しいか分かる? お金がないことじゃない、病に罹ってしまったことでもない。一人で死んでいくお父さんを看取ることすら許されないことよ……!」


 少女の悲痛な叫びが、雪の中に吸い込まれていく。「……ここは看取っちゃいけないのか」、イヒカが呟けば、少女は「笑っちゃうわよね」と嘲るように目を細めた。


「いくら無毒化できても危険はゼロじゃないからって。でもだったらなんで看取っていいって言う土地があるの? 大丈夫だからに決まってるのに、なんでこの町の人達はそこに目を向けないの?」


 ギリ、と少女の手袋の擦れる音が二人の間に響く。イヒカはその手を見つめながら、彼女の言葉を聞き続けることしかできなかった。


「看取っちゃ駄目なのもそう、怖がって外に出ないのもそう。しかも私達家族を腫れ物みたいに扱って……! まだ移らないのに! お父さんは生きてるのに、病を町に運び込んだからって……!」


 イヒカは黙って聞いていた。それが相手の神経を逆撫でたのか、少女は悔しそうに視線を鋭くしてイヒカを睨みつける。


「あなたに八つ当たりしたってどうしようもないのは分かってる。だけど……だけど! あなた達だって何かしてくれたっていいじゃない! 薬に触れる機会があるんだもの、取引先を誤魔化すなり何なりして私達みたいな庶民にも薬を配れるはずでしょ!? そうしてくれない時点であなたもお金持ちも、この町の人だってみんな同じよ! 自分には関係ないことだからって目を背けて、誰も私達には寄り添ってくれないんだわ!」

「ッ……そうじゃ――」

「うるさい!」


 真っ赤に腫れた目元から涙が零れ落ちる。少女はそれを乱暴に拭うと、イヒカに背を向けて足早にその場を去って行った。

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