第559話 立花道雪の包囲vs.上杉謙信の包囲

 天正元年 四月五日 午三つ刻(1200) 能登 輪島沖


「兄上、然れど昨日の三国湊は妙でしたね。煙が上がってました。君子危うきに近寄らずで、通り越して塩屋湊に寄りましたが、なにかあったんでしょうか」


「助兵衛(来島通総)よ、いや殿。いい加減慣れねばなりませぬぞ。殿は来島村上家の名跡を継ぎ、当主となられたのです。それがしの事は半右衛門と呼んでくだされ」


「ははは、すまぬ。然れどやはり慣れぬものですね」


 来島通総は来島村上家の当主である。


 生母が伊予の河野通直の娘だったため、兄の得居通幸にかわり家督をついだのだ。


 河野家が小佐々家に服属した後は、瀬戸内海の船手衆を調略して、その功によって直参となっていた。


「……然れどわれらの任は、これより所口湊の番所に寄りて、兵糧矢玉を補い越後に向かうこと。その後は上杉の船手ともいくさになるやもしれませぬが、津留をいたすのが勤めにございます」


「うむ」


 村上水軍は因島村上家、能島村上家、そして来島村上家と三家に分かれているのだが、その中でも木津川口の海戦に参戦した能島村上家の村上武吉が有名である。


 しかしこの世界では、いち早く純正に服属し、直参となっている来島村上家が家格、所領、兵力ともに三家の中で抜きん出ている。


 若狭の水軍も加わってその数は当初よりも増えていたが、丹後と若狭は浅井の領国である。純正は浅井には水軍の援軍要請はしていない。


 もちろん、武田や織田、徳川も同様である。そのため水先案内人として、同行している。





 ■申一つ刻(1500) 能登 鳳至ふげし郡 穴水城 


 越中のわし塚村にて願海寺城から新堀川、下条川にいたる一帯で上杉軍と島津軍が一進一退の激闘を繰り広げていた頃である。


「何? 見たこともない兵船が輪島沖に見えたと?」


「は、その数百や二百ではありませぬ」


「うむ……これはいったい、いかような事であろうか」


 居城である穴水城で籠城戦の準備をしていた長綱連は、続々と集まる兵士達に家臣を通して指示を与え、城の各部署に配置している。


 穴水城は平山城だが、居住環境を無視すれば最大で二千五百名ほどは収容できそうな規模である。


 しかし、急な陣触れと鳳至ふげし郡でも輪島周辺は温井景隆の領地であり、崎山城は反乱に加担した三宅氏の居城であった。


 鳳至郡南部の西谷内にしやうち畠山将監しょうかんの兵を含めても、集まって千五百程度である。


 もちろん、将監には援軍を要請している。


「佐兵衛様、ひとつ確かめたき儀がございます」


「おお、孫六郎どの。此度の儀、礼を言う。お主がおらねば、わしはいま頃は骸になっているやもしれぬのだからな」


「縁起でもないことを仰せにならないでください。よろしいでしょうか?」


「うむ」


「ではお伺いいたします。その見たこともない兵船とは、如何様な船にございましたか?」


 見たこともない、というのであれば、畠山はもちろん、小佐々や上杉の水軍ではない。


「因幡守、如何じゃ?」


「は、然うですな……」


 家臣の鈴木因幡守は、近習とそれを伝えた伝令に確認する。


「然れば……様々な紋の船がいくつも連なって珠洲郡へ向かっていたそうにございます」


「そわ(は)、 如何様な紋でござったか?」


「三枚重ねの波打った板のような紋や上の字、熨斗のしが二つ丸く重なっているものや、あとは一の文字に点が三つにそれから……左、三つ巴の……」


「分きましてございます(分かりました)」


「なんと?」


「お味方にございます!」



 


 ■城生城周辺 第二師団陣地


「師団長、敵方城主、島津忠直の使者と申す者が参っております」


「良し、会おう」


「初めてお目に掛かります、城生城主島津志摩守(島津忠良)が郎党、駒沢主税助と申します」


「うむ」


「此度は主、志摩守様の書状を携えて参りました。何卒お読みいただきますよう、お願い申し上げます」


 主税助は、平伏したまま懐から書状をとりだし、両手に持って賢光に渡すよう手を伸ばした。


「あいわかった。しばし待たれよ」


 賢光は書状を受け取り、黙読する。





 未だ申し入れず候といえど(まだ文を交わしたことはありませんが)も、初めての文がこのような軍場いくさばにて通わされること、誠に恨めしく(残念に)存じ候。


 加えていくさの絶えぬの世のさが(ならわし)とは言え、我は不識庵謙信様の郎党(家臣)として、弾正少忠殿は権中納言様の郎等として、主君のご恩に報いるために打ち合ひけり(戦った)候。


 これもまた真実として、人を害するための軍にあらざると存じ候。


 城生城は天嶮てんけんの城にて掛かるに難し、守るに易しと思い分きて(判断して)城に籠もりき候へども、あのような軍道具いくさどうぐ(武器)を用いて取り掛けられば(攻め寄せられたならば)、如何ともし難き仕儀に候。


 既に城兵のうち息絶へ、損なひけり者(死傷者)数百に及び、このまま城兵全てが討死したとて、我が務め果たせずとの考えに及び候。


 城より打ち出でて突き進み、打ち合わんと思い集めき(あれこれと考えた)候へども、数多の鉄砲の餌食になるは必定にて、ただ闇雲に掛かるは匹夫の勇と考え候。


 以上の事の様をかんがみて、無念ではあれど、我が命と引き換えに、城兵の助命を題目(条件)にて弓を伏せたく存じ候。


 何卒、伏してお願い致したく存じ候。恐々謹言。


  四月五日 忠良 花押


 謹上 小田弾正少忠殿





「ふむ、では協議いたすゆえ、城に戻りてしばし待たれるがよい。日が沈むまでには答えを出そう」


「はは」





「さて、参謀長如何いかがいたそうか?」


「は、わが軍としても城生城が落ち、この辺りの土豪が味方につけばよけく(良い事)にございます。玉の始末(節約)にもなりまする」


「ふむ、他に意見のある者は?」


「よろしいでしょうか?」


 発言したのは城生城主(もともとの)の斎藤信利である。


「上杉の兵は謙信に心酔しておりますれば、打ち任せて(簡単に)降るとは思えませぬ。われらに降ると見せかけて、虚をつき取り掛からんやも(攻めてくるかも)しれませぬ」


「考えすぎではござらぬか? ……然りとて上杉勢の強さは身を以て知っております。然れば、こちらは受けると返答し、今宵はかがり火を増やし備えを万全にすべきかと存じます」


 参謀長は杞憂と断じながらも、万が一を考えて進言した。


「ふむ……あいわかった。ではそのようにいたそう。それに……島津兵庫頭殿(島津義弘)、島津家は遠縁でもあろうからな。よいか?」


「は!」





 ■下越 府屋村沖 


 どおん、どおん、どおん。どおん、どおん、どおん。


 ずかん、がしゃん、どがん。がらがら、ぐしゃん……。


 大川城では城主をはじめ全ての者が恐れおののき、地震か天変地異か、なにが起こったのかすらわからずに右往左往して混乱している。


「本来ならば掛かる前に知らせを送るべきであろうが、いくさはすでに始まっておる。我が艦隊は全艦の帆を燃やされ、五日の間無為な日々を送っておったのだ。息絶へ、損ないけり者(死傷者)もおる。御屋形様も、何も言うまいよ」


 艦橋より指揮をとる佐々清左衛門加雲少将は、汚名返上とも言える報復攻撃を開始していた。


 艦隊全ての艦の補修と帆の補充には時間がかかる。


 そのため、旗艦霧島丸と重巡足柄、そして軽巡阿武隈で編成されている第四十一戦隊の補修を先に済ませ、砲撃を行っているのだ。


「よいか、此度の任は城の破却にあらず、脅しにとどめよ」


 上杉水軍との前回の海戦で、艦載砲の弾薬の三分の一を使ってしまった。城の破壊のために無駄に弾薬を使ってしまっては、今後の戦略に支障を来してしまう。


 そのため、部分的な破壊と威嚇にとどめ、海沿いの城を複数攻撃してまわるのだ。能登の七尾に行って補給をするまでは、無駄な弾の消費は抑えなければならない。


 当然、加雲をはじめとした第四艦隊の乗組員は、七尾城の状況など知らない。


 ただ第四艦隊は、本庄城、下渡山城など沿岸の城を砲撃し、大山城を最後に鼠ヶ関湊へ戻っていくのであった。


 艦隊すべての補修が終われば、越後全域の沿岸部の城を砲撃し、七尾へ戻る予定である。

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